第1話 目覚め
——おかしい、と思った。
白い天井。
鼻につく消毒液の匂い。
一定のリズムで鳴り続ける機械音。
病院、か?
……いや、分からない。
見たことがある気もするのに、妙に現実味がない。
それより——
体が、動かない。
重いとかじゃない。
まるで拘束されてるみたいに、動かない。
指を動かそうとしても、ピクリとも反応しない。
「……あ」
声を出そうとして、変な音が漏れた。
かすれてる。
弱い。
こんな声じゃなかったはずだ。
(……なんだよ、これ)
頭の奥で、自分の声がする。
けど、体はまるで他人のものみたいに遠い。
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ぼんやりした意識の中で、記憶が断片的に浮かぶ。
誰かに怒鳴った。
殴った。
どうでもいいことで、キレた。
やりすぎだって分かってたのに、止まらなかった。
——最低だ。
分かってる。
分かってたのに、止められなかった。
そして、そのあとで——
いつも後悔してた。
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(……なんでだよ)
思考だけがやけにクリアだ。
(なんで、こんなことになってんだ)
答えなんて出ない。
ただ、現実だけが押し付けられてくる。
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「聞こえますか?」
声がした。
誰かいる。
動かない体の中で、目だけが反応していた。
視界の端に、白衣がちらついた。
「ここがどこか、分かりますか?」
分かるわけがない。
というか——
(ここって、どこだよ)
その問い自体が、妙に引っかかる。
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ふと、壁のカレンダーが目に入った。
数字が並んでいる。
けど、それが何を意味しているのか——うまく掴めない。
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「今日が何月何日か分かりますか?」
何月?
何日?
言葉は理解できる。
なのに、意味が入ってこない。
時間の感覚が、どこか抜け落ちている。
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「……っ」
声が出ない。
焦りだけが、胸の奥に広がる。
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(……終わってるな)
妙に冷静な声が、自分の中で呟いた。
(こんなの……まともに生きれるわけねえだろ)
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悔しい。
けど、その感情すら、うまく外に出せない。
体が動かない。
何もできない。
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その時だった。
視界が、ゆっくり暗くなっていく。
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「待って、反応が——」
「血圧が下がってる!」
誰かが慌てている。
でも、もう遠い。
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意識が沈む。
沈んでいく。
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その中で、最後に浮かんだのは——
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「やり直せるなら。」
それだけが、やけに残った。
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そして、意識は途切れた。
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◆
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次に目を覚ましたとき。
そこにあったのは、光だった。
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柔らかい。
あたたかい。
さっきまでの無機質な白とは、まるで違う。
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「……あぅ」
声が出る。
その瞬間、違和感が走った。
高い。
小さい。
まるで——
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(……は?)
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赤ん坊みたいな声だった。
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思考ははっきりしている。
なのに、体が追いつかない。
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手を動かそうとして、止まる。
小さい。
どう見ても、おかしい。
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(なんだよ……これ)
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「……あら」
柔らかい声。
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「起きたのね」
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顔が近づく。
知らない女。
でも、不思議と怖くはなかった。
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「おはよう。よく眠れたかな〜」
その人は、少しだけ目を細めて——
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「エリシア」
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その名前を口にした。
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エリシア。
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それが、自分の名前だと理解するまで、少し時間がかかった。
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(……エリシア?)
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違う。
そんな名前じゃない。
俺は——
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そこで、止まる。
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思い出せない。
自分が誰だったのか。
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残っているのは、感情だけだ。
後悔。
苛立ち。
空っぽみたいな感覚。
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そして——
やり直したい、っていう、しつこい願い。
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小さな手を、誰かに握られる。
あたたかい。
逃げ場のない現実みたいに、確かな温もり。
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「大丈夫よ」
すぐ近くで、声がする。
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「ここから始まるの」
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(……始まる?)
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そんな都合のいい話、あるのかよ。
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(こんな状態で、何ができるっていうんだ)
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でも——
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握られた手の温もりだけは、本物だった。
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息を吸う。
小さな体で、必死に。
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——生きてる。
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それだけは、分かる。
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理由なんて分からない。
どうしてこうなったのかも。
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それでも——
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もし、もう一度やり直せるなら。
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今度は——
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誰かを守れるように、生きる。
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