36.もうこの世界では生きていけない
あれから数週間後。
その時、友香は人生最大の局面を迎えていた。
『REDWIND』のメンバー達が友香に会いたいと、のたまわったらしい。
橘光輝が夢中になっている女子大生に会いたいと。
何回も友香は断った。
推しは遠きにありて愛でるものなのに。
絶対心臓が止まる。血管がつまる。不整脈が起こる。呼吸困難。酸素不足……
どんな症状が出るかわからない。
しかし、あまりにもメンバー達の強い要望があり、事務所にお邪魔することになった。
ーーどうしよう。『BREEZE』のみんなに申し訳ない。遠くから挨拶して速攻楽屋出よう、そうしようーー
※ ※ ※
REDWINDと対面する約束の日。
ビジネスリュックを背負ったネイビースーツを着こなしている橘が、ビル前で友香を待っていた。
友香を見つける前までスマホを触っていた光輝が、彼女を視界に入れた途端、少年のようにかわいい笑顔に変わる。
ーーダメだ、もう事務所前から破顔攻撃……
友香は、光輝の笑顔にめまいが起こりそうだった。
「すみません、今日は無理言っちゃって。10分程度スケジュールが空いているので、挨拶だけお願いできますか?」
橘光輝に手をひかれ、事務所に入っていく。
ーーここが、ここが○○エンタの内部!! ーー
さすが大手芸能事務所の自社ビルの内部は、めくるめく夢のような世界だ。
ガラス張りの談話室。所属先タレントのポスターやトロフィー。心なしか社員までタレントのように光り輝いている。
そんな中、推し活女子大生が有名プロデューサーに手を引かれている姿は違和感だ。これこそ異世界だ。
そんなことを頭で思い浮かべているうちに、ある会議室前で光輝は止まった。
「じゃあ、ここに彼らはいるから。今からノックするからね? 大丈夫?」
「は、はい、お願いします!」
まるで戦いに挑むような彼女の雰囲気に、光輝はまた笑いをこらえて、挨拶をしながら扉を開ける。
「おはよう、みんな! 今日は無理を言って野岸友香さんに来てもらったよ!」
一瞬で、REDWINDのメンバー5人分の視線が集まった。その中には瀬田疾風がもちろん存在した。
「ほら、入って。友香さん」
友香はドアの外から中にどうしても入れない。
すると、疾風が会議室の中から声をかける。
「ようこそ! 会いたかったんだよ! だって、橘さんを仕事人間からリア充人間に変えた人なんだよ! 絶対、そんなの会いたいじゃん!」
「あぁ! 疾風は余計なことを!」
光輝は照れて動揺して、友香の方に振り向く。
「あ、あの……わ、私はここから……」
友香は会議室のドアのふちを持って、中をのぞき込むように疾風達を見つめている。
顔はかわいそうなくらい真っ赤だ。
すると、疾風が友香に近づいて、ドアのふちを握っている手を剥がして握手する。
「こんにちは、僕達のファンなんでしょ? いつもありがとう」
時が静止した。何かがプツンと音を立てたのだ。
すると、光輝と疾風が驚いた表情に急激に変わる。
「ああっっ! ごめん、ちょっとティッシュある?」
光輝が指で友香の鼻下を押さえる。疾風は慌てて、箱ごとティッシュを渡す。
友香は手で口と鼻を覆うと、手に大量の血がついていた。
(鼻血だ、私は鼻血を出している……)
ティッシュで鼻の下を押さえてながら、その場を慌てて後にする。
光輝がREDWINDのみんなに、また今度、と言いながら友香を支えて、休憩室に連れて行ってくれた。
※ ※ ※
ーー恥ずかしすぎて、もうこの世界で生きていける気がしない。
鼻にティッシュを詰めた友香は、畳が敷いてある休憩室で横になっていた。光輝が毛布を持ってきて友香にかけてくれる。
横になりながらも、友香は恥ずかしすぎて光輝に背中を向けている。
「ごめんね、僕が無理やり連れて来ちゃったから」
いや、これは私が興奮したからであって、光輝さんは100%悪くない。
しかし今、友香は推しの前で鼻血姿を晒したショックで気の利いたことが言えなかった。
※ ※ ※
疾風達は事務所を出て車で移動中、さっきの騒動を話題にしていた。
「びっくりした。まさか鼻血出すなんて。体調悪かったのかな」
REDWINDのメンバーの一人が、そう口にした。
「悪いことしたかな。また橘さんに彼女の様子聞いておこう」
「どうした? 疾風。さっきから黙りこんで」
「うーーん、あの野岸友香さんって会ったことあるような気もする。すごい既視感というかデジャブというか」
メンバー達は、一瞬会話を止める。
「疾風。あの子はダメだよーー、橘さん溺愛だから」
「ファンだから、会場とかで見かけたんじゃなくて?」
「……そんなんじゃないな」
疾風はなぜか彼女の手にキスしたら、倒れられたような記憶がぼんやりと浮かぶ。
なんだろう……彼女に聞いたらわかるのだろうか。
疾風はモヤモヤしながらも、スマホで次の音楽番組の台本に目を通した。




