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聖女殺しの婚約者  作者: 浮夜海月


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7/7

エピローグ 聖女殺しの婚約者

追加し忘れていたエピローグを入れました。

 夜の店が軒を連ねる通りは、宵が深まるほどに華やいでいく。店先では着飾った女たちが笑い、客引きの声と馬車の音が絶え間なく響いていた。香水と酒と花の匂いが混ざり合うこの界隈を、かつてのマルグリットなら決して歩かなかっただろう。


 けれど今の彼女は細い路地の真ん中で立ち止まり、窓に映る自分の姿を楽しげに眺めていた。

 波打つ紫の髪。胸元の大きく開いた深紅のドレス。首元には安物ではないが、貴族の令嬢がつけるには少々下品な大きい宝石の首飾り。

 元聖女の面影を探そうとしても、そこにいるのはただ、夜を自分の味方につけた娼婦だった。


「……久しぶりだね、マルグリット」


 不意に昔の名を呼ばれ、彼女はゆっくりと振り返った。

 街灯の下に立っていたのは、アルフレッドだった。

 エドワールによく似た金髪碧眼でありながら、その眼差しには弟のような甘さも濁りもない。静かな威厳をまとった彼は場違いなほど上質な外套を羽織り、この歓楽街にすら自然に立っていた。

 マルグリットは一瞬だけ目を細め、それから何事もなかったかのように微笑む。


「何をおっしゃいますの、殿下」


 その声音は軽やかで、昔と何ひとつ変わらない。

 変わったのは、彼女がもう誰の婚約者でも、誰かのための聖女でもないことだけだ。


「その呼び方はやめてくれないか」

「では何と? まさか昔のようにお名前でお呼びしろと?」

「昔のように、とは言わないさ」


 アルフレッドは苦く笑った。

 その視線がマルグリットの髪から、露わな肩、細い腰へと滑る。値踏みではない。ただ確かめるような目だった。


「……君を探していた」

「光栄ですわね。王太子殿下直々に」

「もうすぐ国王になる男が、こんな場所を歩くものではないとでも言いたそうだ」

「少なくとも褒められたことではありませんわ」


 そう言って、マルグリットはくすりと笑う。

 その笑みは、昔社交界で浮かべていた完璧な微笑ではなかった。もっとくだけていて、本物の笑みだった。


「君が死んだと聞かされた時、私は少しも信じなかった」 

「まあ」

「遺体も、証言も、状況も揃っていた。誰もが君はもういないと言った。それでも、君なら生き延びるかもしれないと思った」

「買いかぶりですわ」

「いや」


 アルフレッドは静かに首を振る。


「私は、君がいなくなってから気づいたんだ。気づくには、あまりにも遅すぎたけれど」


 マルグリットの笑みが、ほんの少しだけ薄れる。


「……何に、ですの?」

「弟の婚約者としてではなく、一人の女性として、ずっと君を見ていたことに」


 夜のざわめきが、少し遠のいた気がした。

 客引きの声も、女たちの笑い声も、別の世界のもののように聞こえる。

 アルフレッドは視線を逸らさないまま続けた。


「もし君が自由の身になったなら」

「殿下」

「もしすべてが違っていたなら、私は君に求婚するつもりだった」


 その言葉は、重かった。

 思いつきでも慰めでもなく、長く胸に抱えていたものだけが持つ重さだった。


「……皮肉ですこと」


 マルグリットはくすりと笑った。

 けれどその笑みは、先ほどまでの軽やかなものではない。


「私が王太子妃になれたかもしれない、とでも?」

「なれた、ではない。したかった」

「ずいぶん遅い告白ですのね」

「その通りだ」


 アルフレッドは否定しなかった。


「君がまだ宮廷にいた頃、私は立場を理由に黙っていた。弟の婚約者に手を伸ばすつもりはなかったし、君がそれを望まないことも分かっていた。だから何もしなかった」

「賢明ですわ」

「だが、何もしなかった結果があれだ」 


 その言葉にだけ、彼の声はわずかに苦みを帯びた。

 弟の愚かさに対してか。自分の無力さに対してか。あるいはその両方か。

 マルグリットは肩をすくめた。


「それで? 今さら私を連れ戻したいとでも?」

「……そう言えたならよかった」


 アルフレッドは彼女の紫の髪を見た。露わな肩を見た。この街に生きる女の装いを見た。

 そして、最後に彼女の目を見る。


「だが今の君に、昔の名を返して閉じ込めることは、私にはできない」 


 その言葉に、マルグリットは少しだけ目を見開いた。

 それは、王族の男が口にするにはあまりに誠実だった。

 しばしの沈黙のあと、アルフレッドは低く尋ねた。

 アルフレッドはしばし彼女を見つめた末、低く口を開いた。


「辛くはないのか」


 あまりにまっすぐな問いだった。

 同情でも、侮蔑でもない。

 ただ純粋に、彼女の行く末を案じる声だった。

 マルグリットは目を瞬かせ、それから、心底おかしそうに笑った。

 肩を震わせるほど笑ってから、彼女は満面の笑みで答えた。


「いいえ」 


 即答だった。


「私は、とても幸せよ」


 アルフレッドは黙ったまま彼女を見ていた。

 嘘かどうかを見抜こうとするように。王族としてではなく、一人の人間として。

 けれどマルグリットの顔には、曇りがなかった。 


「朝起きる時間も、食べるものも、どこへ行くかも、誰に会うかも、自分で決められるの。もう誰かに聖女らしく笑えとも、未来の王妃らしく振る舞えとも言われない。もう愛してもいない男の顔色をうかがう必要もないわ」

「……」

「たしかに、綺麗な生き方ではないのでしょうね。殿下の目には、きっと堕ちたように映るのでしょう。でも」


 彼女は両手を広げ、夕暮れと夜の境目に満ちる空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「ようやく、私の人生が私のものになったの」


 その言葉に、アルフレッドは何も返せなかった。

 マルグリットは微笑んだまま、彼の横を通り過ぎる。

 すれ違いざま、かすかに香ったのは高価な香水ではなく、夜に咲く花の匂いだった。


「お見送りは結構ですわ、殿下」

「……また会えるだろうか」

「さあ、どうかしら」


 彼女は振り返らない。


「でも、もし次にお会いすることがあれば。その時はきっと、今よりもっと幸せになっているわ」


 紫の髪が夜風に揺れる。

 彼女はそのまま灯りのともる街へと消えていった。

 アルフレッドはしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いた。

 誰かに用意された籠の中ではなく、泥にまみれてでも自分の足で歩く道を選んだ女。

 その背中は、王宮にいたどの頃よりもずっと自由で、ずっと美しかった。


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