エピローグ 聖女殺しの婚約者
追加し忘れていたエピローグを入れました。
夜の店が軒を連ねる通りは、宵が深まるほどに華やいでいく。店先では着飾った女たちが笑い、客引きの声と馬車の音が絶え間なく響いていた。香水と酒と花の匂いが混ざり合うこの界隈を、かつてのマルグリットなら決して歩かなかっただろう。
けれど今の彼女は細い路地の真ん中で立ち止まり、窓に映る自分の姿を楽しげに眺めていた。
波打つ紫の髪。胸元の大きく開いた深紅のドレス。首元には安物ではないが、貴族の令嬢がつけるには少々下品な大きい宝石の首飾り。
元聖女の面影を探そうとしても、そこにいるのはただ、夜を自分の味方につけた娼婦だった。
「……久しぶりだね、マルグリット」
不意に昔の名を呼ばれ、彼女はゆっくりと振り返った。
街灯の下に立っていたのは、アルフレッドだった。
エドワールによく似た金髪碧眼でありながら、その眼差しには弟のような甘さも濁りもない。静かな威厳をまとった彼は場違いなほど上質な外套を羽織り、この歓楽街にすら自然に立っていた。
マルグリットは一瞬だけ目を細め、それから何事もなかったかのように微笑む。
「何をおっしゃいますの、殿下」
その声音は軽やかで、昔と何ひとつ変わらない。
変わったのは、彼女がもう誰の婚約者でも、誰かのための聖女でもないことだけだ。
「その呼び方はやめてくれないか」
「では何と? まさか昔のようにお名前でお呼びしろと?」
「昔のように、とは言わないさ」
アルフレッドは苦く笑った。
その視線がマルグリットの髪から、露わな肩、細い腰へと滑る。値踏みではない。ただ確かめるような目だった。
「……君を探していた」
「光栄ですわね。王太子殿下直々に」
「もうすぐ国王になる男が、こんな場所を歩くものではないとでも言いたそうだ」
「少なくとも褒められたことではありませんわ」
そう言って、マルグリットはくすりと笑う。
その笑みは、昔社交界で浮かべていた完璧な微笑ではなかった。もっとくだけていて、本物の笑みだった。
「君が死んだと聞かされた時、私は少しも信じなかった」
「まあ」
「遺体も、証言も、状況も揃っていた。誰もが君はもういないと言った。それでも、君なら生き延びるかもしれないと思った」
「買いかぶりですわ」
「いや」
アルフレッドは静かに首を振る。
「私は、君がいなくなってから気づいたんだ。気づくには、あまりにも遅すぎたけれど」
マルグリットの笑みが、ほんの少しだけ薄れる。
「……何に、ですの?」
「弟の婚約者としてではなく、一人の女性として、ずっと君を見ていたことに」
夜のざわめきが、少し遠のいた気がした。
客引きの声も、女たちの笑い声も、別の世界のもののように聞こえる。
アルフレッドは視線を逸らさないまま続けた。
「もし君が自由の身になったなら」
「殿下」
「もしすべてが違っていたなら、私は君に求婚するつもりだった」
その言葉は、重かった。
思いつきでも慰めでもなく、長く胸に抱えていたものだけが持つ重さだった。
「……皮肉ですこと」
マルグリットはくすりと笑った。
けれどその笑みは、先ほどまでの軽やかなものではない。
「私が王太子妃になれたかもしれない、とでも?」
「なれた、ではない。したかった」
「ずいぶん遅い告白ですのね」
「その通りだ」
アルフレッドは否定しなかった。
「君がまだ宮廷にいた頃、私は立場を理由に黙っていた。弟の婚約者に手を伸ばすつもりはなかったし、君がそれを望まないことも分かっていた。だから何もしなかった」
「賢明ですわ」
「だが、何もしなかった結果があれだ」
その言葉にだけ、彼の声はわずかに苦みを帯びた。
弟の愚かさに対してか。自分の無力さに対してか。あるいはその両方か。
マルグリットは肩をすくめた。
「それで? 今さら私を連れ戻したいとでも?」
「……そう言えたならよかった」
アルフレッドは彼女の紫の髪を見た。露わな肩を見た。この街に生きる女の装いを見た。
そして、最後に彼女の目を見る。
「だが今の君に、昔の名を返して閉じ込めることは、私にはできない」
その言葉に、マルグリットは少しだけ目を見開いた。
それは、王族の男が口にするにはあまりに誠実だった。
しばしの沈黙のあと、アルフレッドは低く尋ねた。
アルフレッドはしばし彼女を見つめた末、低く口を開いた。
「辛くはないのか」
あまりにまっすぐな問いだった。
同情でも、侮蔑でもない。
ただ純粋に、彼女の行く末を案じる声だった。
マルグリットは目を瞬かせ、それから、心底おかしそうに笑った。
肩を震わせるほど笑ってから、彼女は満面の笑みで答えた。
「いいえ」
即答だった。
「私は、とても幸せよ」
アルフレッドは黙ったまま彼女を見ていた。
嘘かどうかを見抜こうとするように。王族としてではなく、一人の人間として。
けれどマルグリットの顔には、曇りがなかった。
「朝起きる時間も、食べるものも、どこへ行くかも、誰に会うかも、自分で決められるの。もう誰かに聖女らしく笑えとも、未来の王妃らしく振る舞えとも言われない。もう愛してもいない男の顔色をうかがう必要もないわ」
「……」
「たしかに、綺麗な生き方ではないのでしょうね。殿下の目には、きっと堕ちたように映るのでしょう。でも」
彼女は両手を広げ、夕暮れと夜の境目に満ちる空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「ようやく、私の人生が私のものになったの」
その言葉に、アルフレッドは何も返せなかった。
マルグリットは微笑んだまま、彼の横を通り過ぎる。
すれ違いざま、かすかに香ったのは高価な香水ではなく、夜に咲く花の匂いだった。
「お見送りは結構ですわ、殿下」
「……また会えるだろうか」
「さあ、どうかしら」
彼女は振り返らない。
「でも、もし次にお会いすることがあれば。その時はきっと、今よりもっと幸せになっているわ」
紫の髪が夜風に揺れる。
彼女はそのまま灯りのともる街へと消えていった。
アルフレッドはしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いた。
誰かに用意された籠の中ではなく、泥にまみれてでも自分の足で歩く道を選んだ女。
その背中は、王宮にいたどの頃よりもずっと自由で、ずっと美しかった。




