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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第一学年・冬〈試練〉と〈スーパーマーケット〉の物語
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第37話 だって一度は本気で愛した人だから 1


 母はまず優しい口調で柏木に質問をした。

「晴香ちゃん。あなたが育った柏木家は、あなたの目から見て、いったいどんな家庭だった?」

 

「わたし、悠介君みたいに手短に話せないよ? 思い出しながらでもいい?」


「かまわないわ」と母は言った。「あなたの言葉で話して」

 

 一拍間を置いてから、柏木は話し始めた。

「うちは普通の家とはちょっと違って、お父さんが家事をして、お母さんが仕事をしていた。お父さんは重い病気だったから、心臓の。でも料理が上手で、わたしのリクエストに応じて美味しいお菓子を作ってくれた。ケーキとか、パイとか、そういうの。人前で発作が出るのを嫌がってたから、ほとんど外出はしなかったな」

 

 母は卓の上で指を組んだ。「続けて」


「お母さんは市役所勤務。総務課って言ってたかな。けっこう活動的な人で、仕事が休みの日には、知り合いが運営してる学童保育施設のお手伝いをしていた。無償で。『子どもはやっぱりかわいい』って日曜の夜にはよく言ってた」


 実は俺は、柏木の声に耳を傾けつつ、ひそかに母の顔を注視していた。


 恐ろしかったのは、「子どもはやっぱりかわいい」と聞いた母の喉が、くつくつと小刻みに動いたことだった。この人はどういうわけか笑うのを堪えているのだ。


「両親の仲は良くなかったし、裕福でもなかったけど、お父さんもお母さんもわたしのことは大事にしてくれたと思う。放課後になったらお父さんは笑顔で遊んでくれたし、お母さんは夜遅くまで学校の宿題に付き合ってくれた。あたしにとってあの家庭は、大切な場所だった」

 

 柏木が言い終えるのを見届けてから母は声をかけた。

「晴香ちゃん。お父さんの心臓の病気が、手術を要するほど深刻だったというのは、知っていた?」

 

 当然、という風に柏木は大きくうなずいた。

「でも心臓病の中でもかなり特殊なものらしくて、保険が効かない高額な手術だから、お母さん、『私の(かせ)ぎだけじゃどうにもできないの』ってよく言ってた。そもそも、手術のできる医者自体が日本で数えるほどしかいないみたいで」

 

 母は俺と柏木の間にある狭い空間をじっと見つめていた。語るべき言葉を選別しているように俺には見えた。彼女は言った。

「夏子さんの収入で、充分に手術は可能だったとしたら?」


「えっ?」柏木の声は裏返る。「どういうこと?」


「晴香ちゃん、いい? よく聞いてね。あなたのお母さんは、長いあいだ収入を少ないように見せかけて、恭一に手術を受けさせないようにしていたの」


 柏木はすぐさま声を荒らげた。

「嘘だ! 何のためにそんなひどいことをしなきゃいけないの!? 仲が良くなかったと言っても、お父さんがお母さんのことを避けていただけで、お母さんはお父さんのことを好きだったんだよ? 遺書にも書いてあったでしょ? 『愛していました』って!」


「恭一への強い想いが夏子さんの中にあったのは認めるわ」と母は少しも(ひる)まず言った。そして眉をひそめて「ただそれは」と続けた。「愛とは、呼べない」


「なんで!?」


「夏子さんは、恭一を家に閉じ込めておくことで、自分の心を満たしていたの」


 母の感情を殺した語り口が、俺の腕に鳥肌を立てた。正直、怖い、と思った。


「手術が成功して病気が完治すれば、恭一はきっと何かしらの仕事を始めたでしょう。晴香ちゃんがある程度大きくなるまでは、もしかしたら専業主夫を続けたかもしれない。そうだとしても、家の外に出る機会が手術前より多くなるのは、確実よね。……恭一はほら、魅力的な男だから。職場や外出先で自分以外の女が彼に寄りつくことを、夏子さんは恐れたのよ。あるいは――」そこで母は一旦口を閉じ、遺書に一瞥(いちべつ)を与えた。「恭一があの街で私と再会を果たすことを」

 

 遺書にはたしか、こうあった。

「私は何年かかってもお父さんの心に触れることはできませんでした。あまりにも大きな壁が、彼の心の前に存在していたからです」

 

 “壁”とは、疑いの余地なく母のことを指しているのだろう。


 夏子さんは恭一や母の高校時代のクラスメイトでもあったと、誰かが以前話していた(確かいずみさんだ)。


 そうであるならば、恭一が母と相思相愛の青春時代を過ごしていたことを夏子さんが知らないわけがない。


 母は言った。「夏子さんは独占欲の強い人だったの」


「ちょっといいかな」

 俺が口を開いた。頭に浮かんだ疑問を解消しておきたかった。

「夏子さんは収入が少ないように偽っていたと言うけれど、それって、実践するのはそんなに簡単なことじゃないよな? だって、給与明細とか、預金通帳とか、バレそうな要素はいくらでもあるだろ?」


「夏子さんは自らの世界を守るために行動を徹底していたの」と母は言った。「晴香ちゃん。お母さんは市役所の総務課で具体的にどんな仕事をしていたか、聞いたことは?」


「あるよ」と柏木は素直に答えた。「えっと、市役所の職員さんの給料を――あっ」

「毎月、給料日前は忙しいと言っていたでしょう?」

 

 柏木はばつが悪そうに「言ってた」と返した。


「夏子さんの市役所での職務は、給与計算と給与明細の作成。家族向けの、嘘の給与明細を一部作成することなんて、お茶の子さいさいよ」


 柏木は何も言えなかった。もちろん俺も何も言えなかった。


「それだけじゃない」と母は続けた。「手元や銀行にお金を残さないためにどうするか。夏子さんが選んだ方法は、実際の給料と家族に申告していた給料の差額分をわざと浪費することだった。知り合いが運営してる学童保育施設のお手伝いをする休日? あはは、とんでもない。彼女が休日に励んでいたのは、ギャンブル(・・・・・)よ。そこで毎週末、捨てるようにお金を使っていたの。必要以上のお金は彼女にとって、自分の理想の世界を破壊する紙っぺらでしかなかったわけね」


「そこまでして……」俺は思わず心の声が漏れた。


「はっきり言って、正気の沙汰じゃないわ。一人の男を自分の目の届く場所に置いておくためだけに、彼女はこんな手の込んだ真似をしていたのだから。十年以上も。どう考えたって、その先に待っているのは破滅か、それに近いものでしょうに」


恭一(あいつ)は、一時(いっとき)も夏子さんの行動を不審がらなかったんだろうか?」

 柏木は頭が混乱しているようなので、俺が尋ねた。


「彼は落ちこぼれではあっても、決して馬鹿ではないもの」

 再び母の喉がくつくつ鳴った。

「もちろん彼はおかしいと思ってはいた。でもそれを口に出すことはできなかった。なぜならあの人は、女が稼いだお金で生き長らえている自分を良しとしていなかったから。夏子さんが『手術はできない』と言えば、手術はできないのだと割り切るしかなかったのよ。ただ、底知れぬ恐怖は感じていたでしょうね。恭一が夏子さんのことを避けているように晴香ちゃんが感じたのは、無理もないわ」


「全部嘘だ」と柏木は俺にだけ聞こえる声で言った。しかしどうやら、母の話は事実として彼女の中で着実に浸透の度合いを強めているようだった。


 母が言っていることは筋が通っているし、なにより即興でこんな作り話ができるとも思えない。


 俺は無言のまま柏木に同情した。彼女はいまや戦友でもあるのだ。


「夏子さんが恐れていたことは、現実のものとなった」と母は続けた。「私と恭一は再び会ってしまった。4年前、あなたたちの街の病院で。私はてっきり、彼はもう手術を終え、健康的な日々を送っているものだとばかり思っていた。でも実際は違った。違ったからそうやって病院に来て、対症療法的な無意味な治療を受けていた。聞けば、彼は夏子さんと結婚したと言うじゃない。私は、裏に何かあるんじゃないかとすぐに感じた。黒々とした、何かが」


「なんでわたしのお母さんをそうやって悪者にするの? わたしの知ってるお母さんはそんな人じゃない! 一生懸命働いて、勉強を教えてくれて、優しくて、職場ではみんなに慕われている人だった! なによ、黒々した何かって!」


「あなたは真実を知らない」と母は柏木の訴えを一蹴した。「だいぶ前の話になるけどね、私と恭一と夏子さんは高校時代、同じクラスだった。夏子さんは恭一と交際している私を目の(かたき)にしていたわ。そう、その時から夏子さんの彼への偏狭的な想いは始まっていたの。


 今でも私ははっきり覚えてる。高三の春、季節外れの大雨の日、下校しようとカバンを手に取った時のことを。やけに重いなと思った。するとそこには、仔猫の死骸が入っていた。無惨にもはらわたが引き出されていたわ。うちは葬儀屋を営んでいたのでね、それは嫌がらせとしてはとても有意義だった。私は感心したわ。あなたのお母さんのおぞましいほどの黒さにね」


「仔猫の死骸? 夏子さんがそんなことを?」

 俺は遺書の清らかな筆跡を思い出していた。


「彼女自身は手を汚さなかった。表向きは教師受けの良い優等生だもの。取り巻きをうまく使ったのよ」

 

 柏木が何かを言いかけたが、「話を戻すわね」と母はそれを(さえぎ)った。


「4年前、恭一と再会した私は、夏子さんの行動を密かに調べてみることにした。探偵を雇うまでもなく、あっさり真相は明らかになったわ。十年近くも家族を(あざむ)くことに成功していたのだもの。気のゆるみがあったのでしょうね。すべてを知った私は、ひとつのことを決意した。恭一に夏子さんの本性を伝え、その決意を話した。『一緒に、どこか遠いところへ逃げましょう』」

 

 逃避行を立案・主導したのは柏木恭一ではなく母だったのだ。俺は胸がざわめくのを感じながら、話の続きを待った。


「晴香ちゃん。あなたのお父さんの名誉のために言うけど、彼は私の提案をなかなか受け入れなかったのよ。『晴香を残して逃げるわけにはいかない』って。でもこの時、もうすでに彼の心臓は限界を迎えていたの。いつ命が尽きても不思議ではなかったし、生き続けるためには一日でも早い手術が必要だった。まさしく時間との闘いだった。私は彼を放っておくことだけはできなかった。助けたかった。だって一度は本気で愛した人だから」


「あの人……」とだけ柏木はつぶやき、手を髪の中に突っ込んでかき乱した。もうなにがなんだかわからなくなっているのだ。


「結果的に恭一は説き伏せられた」

 俺がそう相づちを打つと、母は控え目にうなずいた。そして「殴ったのが効いたみたい」と言ってはにかんだ。


「仕方なかったの。『オレはもう死んだっていいんだ』なんて捨て鉢になって言うから。私が誰かをぶつなんて、後にも先にもあの一度だけでしょうね」

 

 座卓の上に捨て置かれたままの氷のうが目に留まった。もうほとんど氷は溶けていた。暴力的な傾向を持たない女とその息子に揃って殴られるとは、恭一も俺に負けず劣らず、なかなか奇妙なすごろくの盤上を歩んでいる。

 

「私と恭一は慎重にあの街を離れる準備を始めたわ」と母は言った。「絶対に夏子さんに悟られるわけにはいかなかった。なにしろ相手は、気に食わない人間のカバンに仔猫の死骸を入れ、旦那を家に閉じ込めておくために手術を受けさせない人なのだから。計画がばれたら、何をしてくるか(・・・・・・・)わかったものじゃない。私たちは、いつもと変わらない日常の中から、ふっと姿を消す必要があった」

 

 ここまで聞けば、なぜ彼らが離婚という手続きを踏まなかったか合点がいく。母が調査で得たという数々の証拠を武器にすれば、夏子さんと恭一を別れさせることはさほど難しくなかったはずだ。


 しかし問題はその後だ。


 母の夏子さんに対する警戒は決して過剰なものではないだろう。精神的に参っている柏木の手前言葉を濁したみたいだが、母は本当はこう言いたかったのではないか。


「殺されるかもしれない――」

 

 幼い子どもに別れを告げず雲隠れするのが、彼らに残された唯一の選択肢だったのだ。


「それから先はすべてがうまく運んだわ」と母はほっとした表情で言った。「この富山は、恭一の手術を執刀できる外科医がいる場所の一つだった。夏子さんもそう簡単には追ってこられないでしょうしね。働き手が足りなくて困っていた、高齢のご夫婦が経営されている農場があって、私と恭一はそこで住み込みで働き始めた。とは言っても、心臓に爆弾を抱えた恭一は家の中で雑務をこなしていただけだけど。ご夫婦はとても温かい人たちで、事情を説明すると、(こころよ)く手術代を前借りさせてくれたの。手術は無事に成功し、恭一は命をつなぐことができた」

 

 体内の時限爆弾が取り除かれた恭一はその後、料理の腕を活かして農場で採れた食材からパンやデザートを作り、母と共にそれらを近場の道の駅などに売り込みに行ったという。


 味は申し分なかったし、見た目も独創性に優れていた。評判は口コミやインターネットを介して北陸一帯に広がり、一年を待たず老夫婦に手術費用を全額返済することが叶った。

 

 その後独立。


 人里離れた地に頃合いの住居(つまりこの愛の巣だ)を見つけ、移り住み、今に至る。

 

 恭一の製品の売れ行きは今も順調で、トヨタのハイブリッドカーやグランドピアノを購入できるほどの潤沢な収入が家族四人を支えている。


「これならお店を出せるよ」と娘(晴香)に言われたのが嬉しくて恭一はこつこつ料理の腕を磨いていたらしいから、なんとも皮肉なものだ。いろんな意味で。

 

 双子を妊娠し産んだ話を丸ごと省いたのは、母なりの気遣いだろうか?


「あっという間の4年だったわ」と母は言った。「恭一の製品の販路を確保するために、下げたくない頭も下げたし、罵倒や嘲笑を受けてもぐっと耐えた。私はアレルギー持ちのうえに虚弱体質だから、農作業なんかてんで向かないのだけど、とにかく必死で働いた。すべては意味のある苦労だった。彼をもう一度失うことに比べれば、どんな苦労もたかが知れていた」


 もう一度、と言う時、母の声が震えたような気がした。恭一は恵まれた男だ。彼女は続けた。


「恭一なんか、今は生きていられることが当たり前になっちゃって、一日に二箱もタバコを吸う始末。調子に乗ってるのよ。まったく、頭に来るわ。もっと命を大事にしなさいよね。誰が助けてあげたと思ってるのよ」

 

 俺は喋ることができなかった。柏木もできなかった。母は自信みなぎる眼差しを柏木に向けた。


「晴香ちゃん、あなたのお母さんの想いは、果たして愛と呼べるものだったかしら? 私は違うと思う。本当に恭一を愛していたのなら、生かそうとしなくちゃ。彼女にはその能力と義務がありながら、放棄したの。捻れた独占欲に心を占められて。もし私と再会していなければ、恭一は今頃生きていないわ。あなた、記憶はなくても、物事の分別くらいはつくのでしょう? 私と夏子さん、人としてまともなのは、どっち?」


 意地悪な人だ、と俺は思った。正しいしまともだが、意地悪だ。なにもわざわざそんな聞き方をしなくたっていいじゃないか。


 柏木は当然ながら答えに(きゅう)している。顔は真っ赤だ。


「まぁいいわ」と母は語尾に余裕を(にじ)ませ言った。「長くなったけど、これがあなたの知るべき真実。私は脚色も誇張もしていないわよ。死人に口なしという言葉もあるから、あまり夏子さんのことを悪くは言いたくなかったのだけど、あなたのためを思えばやむを得なかった。ま、信じるかどうかは晴香ちゃん次第なわけだけど」

 

 柏木は卓に(ひじ)を突き、両手で顔を覆ってしまった。泣き声は聞こえてこない。俺はなにか言葉をかけようかとも思ったが、考え直してやめた。今の柏木はなにも見たくないしなにも聞きたくないのだ。

 

 いずれにせよ、夏子さんに関する話はここで一区切りとなりそうだ。俺は卓上の遺書を手に取り、バッグに戻した。


 しばらく重い沈黙が流れた後で、「高校は楽しい?」と母が当たり障りのないことを聞いてきた。当たり障りのないという日本語の使い方をなかなか覚えられない外国人にこのシーンを見せてあげたいくらいだった。


 依然として恭一は部屋に戻ってこないし、柏木は隣で顔をふさいでいる。


「それなりに」と俺は最悪な部類の言葉を返した。


鳴桜高校(あそこ)はテスト勉強以外にも宿題や課題が多いから大変でしょう?」と約20年前の卒業生は言った。

「進学校だから仕方ない。自分で望んで入った高校だし、文句なんか言っていられない」


「進路はもう決めてるの?」

「大学に進もうと思っている」


「お父さんは、賛同してくれているの?」

「父さんは家にいないよ」俺は事実を告げる。「父さんは今、刑務所にいる」


「そう」


 あまりに母が落ち着いているので、俺は面食らってしまった。

「どういう理由でそんな馬鹿げた場所に父さんがいるのか気にならないわけ?」

「どういう理由でそんな馬鹿げた場所にいるの?」


 やりきれず、自分のひざを平手で叩いた。

「あんたが家を出たショックで、図書館に放火したんだ」

「そう」


 俺が溜め息を吐いていると、母が続けて喋った。早口だ。

「ちょっと待って、悠介。お父さんがいないのに、どうやって生活しているの?」


「父さんの貯金を切り崩している。あとは、居酒屋のバイト」

「それじゃあ、大学に行くなんて、難しいでしょう?」


「難しいよ」と俺は強がらず答えた。「今のままだと、国立大学でも一年しか在籍できないことになる」

「あのね悠介。悪いことは言わないから、大学なんか諦めなさい」


「大学に行くのが俺のただ一つの夢なんだ。そう簡単には諦められない」


 母の表情がやや険しくなった。彼女は地に足がついていない若者が大嫌いなのだ。

「いくらなんでも無謀すぎるわ。世間知らずもいいところよ。一年で大学を中退して何が残るのよ?」


「なんと言われようと、俺は大学を目指す」

「今の時代、大学を出たとしても将来安泰(あんたい)というわけではないのだから、考え直しなさい」


「いやだね。だいたい、あんたにそんなことを言われる筋合いはない」

 そう口にしたものの、実は俺は、母の勢いに呑まれつつあった。


 もちろん体は大きくないし声量も小さいのだが、何か(・・)が、彼女の中にある何かが、俺を威圧してくるのだ。


 だから俺は、どうしても強い態度に出ることができない。言いたいこともある。怒鳴りたい気持ちもある。しかしそれらを表に出せない。飛行機に乗っている時は、それはもうタフで勇敢な自分を思い描いていたのに。


「悠介は昔から」と言って母は優しく微笑んだ。「ちょっと人とは違うところがあった。友達なんか要らないと平気で言ったり、お誕生会に誘われても(かたく)なに行かなかったり。勉強はできるのに、それ以外のことになると急に頭が働かなくなるのよね。それは今も変わってないみたい。たとえば、そうね、大学進学を無闇に計画したり」


「うるさいんだよ、年増(としま)女」

 母への反論を頭で組み立てていた俺の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。そのせいで、まとまりかけていた言葉が方々に散った。


 その声がした右側を見る。柏木だ(・・・)、と俺は思った。彼女は両手を顔から離していた。目の輝きが先ほどまでとはまるで違う。間欠泉のように、俺の中で熱いものが吹き上がった。


「晴香ちゃん、あのね」と年増と呼ばれた女は苦笑して言った。しかし柏木はそれを「あのね、じゃない」とすぐさま遮った。


「有希子さんって、意外にたいしたことないよね。自分のことを棚に上げて偉そうにベラベラ好き勝手喋っちゃってさぁ。なーんか、いかにも年を取った面倒臭い女って感じ。あはは、こうはなりたくないね」


 母は俺に視線を向けてきた。「どうなってるの?」とでも言いたいのだろう。


 柏木は大きな深呼吸をし、冬眠から目覚めたみたいな豪快な背伸びをした。そして俺の顔を見て、景気よく一度手を叩いた。

「いつまでそんなしょげた顔してんのよ、情けない! さぁて。ここからエンジン全開で反撃に打って出るよ。準備はいい? 悠介(・・)!」

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