第36話 限りある命を与えられた生身の人間 2
当然の可能性として追っ払われることも覚悟したが、俺たちは家の中へと通された。
雑巾がけが行き届いた清潔な廊下には、ごく最近撮影したと思われる家族写真が飾ってあった。格式ばったものではなく、四人とも私服でリラックスした表情を浮かべている。その一枚の写真は俺に洗濯洗剤のテレビコマーシャルを連想させた。
元々役者でも通用するルックスの父と母だ。その二人の血を漏らすことなく継いだ子どもたちもやはり、カメラ映えする容姿を備えていた。もうすでに。
広く開放的な居間では、大きなテレビとグランドピアノが特別目を引いた。
たしかにここならば、近所迷惑などに気を揉むことなく好きなだけピアノが弾けるだろう。そもそも、近所という概念がこの地には存在しないのだ。
思い返せば、近所付き合いは母がこの世で最も忌み嫌っていたものの一つだった。回覧板が来るたび、豚と猪の交尾でも目撃したかのようなしかめっ面を彼女はよくしていた。この家より埃の溜まった我が家の廊下の片隅で。
南向きの大きな窓からは絶えず日光が降り注ぎ、室内の空気を隅々まで浄化していた。そしてあちらこちらに四人が映った家族写真があった。
俺と柏木が連れていかれたのは、居間の奥にある畳の間だった。
そこでは立派な雛壇と雛人形が我々を迎えた。つい雛壇の段数を数えてしまった。七段ある。これはやはり家庭用にしては立派だ。
そういえば今日はちょうど桃の節句だった。よりによってなにかと面倒くさい日にこの旅を組み込んでしまったことを俺は反省した。
八畳ほどの部屋の中央には木目調の大きな座卓があり、俺たちはそこを境に向かい合って座った。もちろん俺の隣には柏木が足をケアしながら陣取り、それぞれの正面にそれぞれの親の顔がある。
三輪車の練習時間を突如として奪われた何の罪もない幼い双子は、この部屋からは遠く離れた一室で遊んでいるように母から指示されていた。彼らは涙ながらにそれに従った。そしていよいよ我々四人だけの時間が始まった。
「ふぅ」と柏木恭一が頬を氷のうで冷やしながら一呼吸する。「けったいな登場だなぁ、晴香。なにも有希子の息子と一緒に来なくたっていいじゃねぇか」
「誰と来ようがわたしの勝手でしょ」と娘はすぐに返した。
「兄ちゃんも兄ちゃんだ。出会い頭にぶん殴ってくるなんて、まともな人間のやることじゃねぇぞ。まったく、親の顔が見てみたいわ」
笑えない冗談だったし、実際誰の顔もほころばない。つまらないジョークの罰としていっそもう一発殴ってやろうかと思ったが、やめた。腹が立つたびいちいち殴っていたら、目的を果たす前に日が暮れてしまう。
「それにしてもおまえたちが知り合いとはなぁ」
恭一は柏木と俺を交互に見る。そして眉を不気味な角度に持ち上げた。
「わかったぞ! さてはおめぇら、できてるんだろ。そうなんだろ。さしずめ婚前旅行ってところか。今夜はお楽しみだな。いいねぇ、若いモンは」
柏木が座卓を両手で叩いた。
「うるさいっつーの! べらべら余計なことばかり! 黙れっ!」
「はぁ? 黙っちゃっていいのかよ。じゃあオレ、何を聞かれてももう喋んねぇぞ」
娘の言葉尻をとらえて大人げないことを言いだした恭一の脇を母が咳払いしながら肘で小突いた。すると彼は頭を掻いて、少し申し訳なさそうな顔をした。なんとなく現在の二人の力関係が見て取れた気がした。
「よくここがわかったわね、悠介」と母は無表情な声で言った。
「ネットで見つけて」
「そう」
「もちろんただ顔を見に来たってわけじゃない」
成長を見せたかったというわけでもない。
「俺と彼女はあなたたちに大切な用があって来た」
彼女、と耳にした恭一が戯けた視線を寄越してきたので、とりあえずこの男の誤解を解くことにした。話はそれからだ。
「なんか勘違いしているみたいだけど、俺たちは交際してはいない。高校の同級生だ」
「なぁんだ」とつまらなそうに恭一は言った。それからやっと親らしいまともな質問をしてきた。「高校はどこに行ってるんだ?」
「鳴桜高校」と柏木が簡潔に答えた。
「そいつは傑作だ」恭一は身を乗り出す。「ていうことは、おめぇら、オレと有希子の後輩かよ」
「あんたは落ちこぼれだったと聞いた」俺はいずみさんの話を思い出していた。
恭一は豪快に笑ってそれを認めた。
「まぁな。でもな、一つ良いことを教えてやるわ。大人になっちまったら学校の勉強なんて糞の役にも立たないからな。こいつは負け惜しみなんかじゃねぇぞ。若いうちに勉強するのは大いに結構だが、頭でっかちな人間にだけはなるなよ。大人になってから苦労すっぞ。鳴桜の先輩からのありがたいアドバイスだ」
社会を生き抜くヒントを聴きたいがために、俺たちははるばる富山まで来たわけでもなかった。よって「本題に戻る」と俺は一方的に宣言した。「なぜ俺に三発殴られたか、あんた、わかってるか?」
「さぁね」
「一発は純粋に俺からのプレゼントだ。あんたのおかげで、こっちは最高の十代前半を過ごすことができたからな。まぁ、そのお返しってことだ」
「そりゃあどうも」
恭一はふてぶてしく会釈し、氷のうを強く頬に押し当てた。要するに俺への当て付けのつもりなのだ。
「問題は、残りの二発だ」と俺は言った。「なぁ、あんた。再会してしばらく経つけど、晴香に対して、なんの違和感も覚えないか?」
「あんまりオレのことを舐めんなよ、兄ちゃん」
そこで恭一の目から、洒落っ気が消えた。
「晴香はオレの娘だぞ。そんなもん、一目見ておかしいと思ったわ。歩き方が不自然なのはもちろん、ああ、なにより、言動がぎくしゃくしてる。なんつーか、体は成長してるが、心はガキの時のまんまって感じだ。……いったい、何があった?」
右隣から視線を感じて俺が顔をそちらに向けると、柏木はすがるような眼差しで俺の目を覗き込んできた。どうやらこれまでのいきさつを筋道立てて話す自信がないようだ。
俺が話した方がいいか? と尋ねると、彼女はすぐにうなずいたので、正面に向き直り、「記憶がないんだよ」と事実を告げた。
話は長くなった。当然だ。
柏木が記憶を失った理由を説明するには、彼女が高校の屋上の縁に立ち続けていたことを話さねばならず、そんな常軌を逸した行為をしていた理由を説明するには、生への恐怖が彼女を苦しめていたことを話す必要があったからだ。
一人の人間の4年にわたる戦いを言葉にして語るのはそう簡単じゃない。アサガオの育て方を解説するのとはわけが違う。それでも俺はなるたけ丁寧に、主観を排して話をした。それが可能なのは――柏木の代弁をしてやれるのは――世界で俺ただ一人だけだ。
恭一は終始、神妙な顔つきで俺の声に耳を傾けていた。時にまぶたを閉じ、時に唇を噛んで。
「そういうわけで晴香は去年の12月、誤って屋上から転落し、記憶を失ってしまったんだ」
俺が話を終えて深呼吸すると、恭一は患部を冷やしていた氷のうを卓上に放り投げて立ち上がった。
「どこに行くの?」と母が聞いた。
「タバコ持ってくる」
「だめよ。禁煙するって誓ったばっかりじゃない」
舌打ちしながらも、恭一は諦めて再度あぐらをかいた。そして言った。
「なるほどな。それがオレが兄ちゃんに殴られた第二の理由ってわけかい。ちきしょう、こいつは面白くねぇな。おい晴香。どういうわけでおまえは『生きていること』が怖くなっちまったんだ。父さんに聞かせてみろ。おまえの口から」
「それこそが、あんたが殴られた三つめの理由だ」と俺は言ってやった。「柏木、どうする?」
「わたしが言う」と彼女は少し考えてから答えた。そしてテーブル越しに二人を睨んだ。「お母さん、死んだんだよ。あんたらがわたしのお母さんを殺したんだ」
「デタラメ言うなよ」
長い沈黙の後で恭一が発したのは、そんなどうしようもない言葉だった。平静を装ってはいるが、動揺は如実に目に表れている。
「デタラメなんかじゃない!」と柏木はすかさず言い返した。「4年前、アナタが有希子さんと一緒に逃げた直後、うちの台所で首を吊って自殺したんだよ!」
「自殺――」恭一の声は消え入る。
「死んだの死んだの死んだの! もうこの世にはいないんだよ、お母さんは! 返してよ、わたしのお母さんをっ!」
何かを言いかけた恭一だったが、途中で絶句した。そして力なくうつむいた。
これが自分を困らせるための悪趣味な作り話でも茶番劇でもないことを、ようやく理解したらしい。
俺はいずみさんから預かっていた柏木の母親の手紙をバッグから取り出し、それを無言で恭一の前に差し出した。「あなたをいつでもそばで見守っています」という娘への言葉で結ばれていた、例の遺書だ。
恭一はのそりと顔を上げ、卓上の便せんを手に取った。表情の変化は、遺書を読み進めてすぐに起こった。広い眉間はしわで満ち、口元は大きく歪んだ。
「私はあなたのお父さんのことを愛していました」
その一文に心を揺さぶられたのか、と俺なりに推し量った。俺は富山に来るまでに、何度も遺書を読み返して、内容を一言一句暗記していた。
恭一は便せんを閉じ、それをそっと座卓の上に置いた。それから「すまねぇ」とつぶやいて立ち上がった。「ちょっくら席を外すわ。外の空気を吸ってくる」
母は今回ばかりは恭一の行動を止めなかった。理由も尋ねなかった。
♯ ♯ ♯
無表情の雛人形たちに見つめられているのは、あまり良い気分とはいえなかった。
しかしそれよりも不愉快だったのは、目の前の女が雛人形と同じく能面をいまだに崩さないことだ。
「よくもまぁ、さっきからそうやって涼しい顔をしていられるよね」と俺は言った。「あんたらの身勝手きわまりない行動によって、多くの人間が人生を狂わされた。彼女と彼女の母親は、その代表的な犠牲者だよ。そして今あんたは、恭一を失った母子の顛末を知った。それでも何も感じないか?」
母はすげなく耳たぶを数秒触ってから、喉の調子を整えた。
「私がここで取り乱して謝罪なり反省なりをすれば、晴香ちゃんは救われるの? もしくは夏子さん――晴香ちゃんのお母さん――は蘇るの? そうじゃないでしょ?」
「開き直る気?」と柏木がなかば呆れて言った。
「そうじゃないわ」と母は即座に返した。一対二の数的不利をものともしていなかった。「結論から言ってしまえば、私は、自分のとった選択が間違っているとは思っていないし、少しだって後悔はしていないの。だから開き直るという表現は正しくないのよ」
柏木は言葉を失った。きっと彼女にとってはあまりに想定外の返答だったのだ。
「ごめんな柏木」と謝らずにはいられなかった。「俺たちが会いに来たのは、こういう人なんだよ。幸せな4年間を過ごしたことで少しは変わったかと思ったけど、何も変わってなかった。俺はまだ免疫があるからいいけど、おまえは驚いちゃったよな」
母は俺の嫌味を当然のように聞き流すと、卓上の遺書に視線を移した。
「私が読んでもいいのかしら?」
柏木はぶっきらぼうに「どうぞ」と許可した。
母は相変わらず表情ひとつ変えず遺書の文面を目で追った。やがて便せんを卓上に静かに戻してから、柏木の顔を見た。
「夏子さんが自ら命を絶ったことは本当に残念だし、それによって晴香ちゃんが苦労してきたのは気の毒だと思うわ。それでも私は、ごめんね、自分の行動を反省するつもりはないの。だって私には、そうするより他に、あなたのお父さんを救う術がなかったのだから」
「わたしのお父さんを……救う?」
「そうよ。晴香ちゃん。きっと今のあなたに必要なのは、私の涙でも謝罪でもない。ただ一つ、真実を知ること」
「なんだよ、真実って」
俺だって無関係というわけではない。
「いいわ」
そこでようやく、母の表情が少し和らいだ。
「あなたたちに教えてあげる。なぜ私と恭一が何もかもを捨てるようなかたちで富山までやって来たのか。二人はそれを知るべきよね」
知るべきだ、と俺は頭でそれを認めた。俺と柏木は知らなきゃいけない。真実を。




