7 白銀の大輪1
「ルクスさーん! ちょっとご相談があるんですがー!」
――バーンッ!
朝の静寂を盛大にぶち破り、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
現れたのは、ギルド職員のダリアだった。
……というか、最近の彼女はすっかり遠慮というものを忘れている。
せめてノックくらいはしてほしい。
「んもう、鍵くらいかけておかないと不用心っすよって……ん?」
ちう、ちう。
妙な音に気づいたダリアの視線が、ベッドへと向けられる。
そこには――。
「ティア……朝からちょっと……うぅ……」
困り果てた様子のルクスと、その首筋に夢中でかぶりついている小さな吸血鬼の姿があった。
寝間着姿のティアは、どうやら朝食の真っ最中らしい。
「ま、またえっちなことしてるんですけどーっ!?」
ダリアの絶叫が、部屋中に響き渡った。
「……む?」
ティアはようやく顔を上げた。
「なんだ、騒々しいのう。せっかくの優雅な朝が台無しではないか」
やれやれ、と大げさに肩をすくめる。
そして、口元についた血をぺろりと舐め取った。
「誤解するでないぞ。これは決して不埒な行いではない。いと尊き、神聖なる営みなのだ」
「じゃ、邪悪なる営みの間違いじゃないんですかーっ!?」
「失敬な。わたしの朝餉を邪悪呼ばわりするとは、なんたる無礼」
「朝餉!? ルクスさんが朝ごはん扱いされてるんですけど!?」
ダリアは思わず頭を抱えた。
「ティア……そろそろ離してくれると助かるんだけど……」
「むう。まだ足りぬというのに」
「足りなくても終わりですっ!」
すかさずダリアが割って入る。
「ええい、うるさいうるさい。品のない鼻たれドワーフは、あっちへ行っておれ」
「鼻たれ!? あたし、そんなに子供じゃないっすよ!?」
「ふん。人の朝餉に口を挟むようでは、まだまだ子供よ」
「いやいやいや! どう考えてもおかしいのはそっちっすよね!?」
ダリアはルクスへと助けを求めるように視線を向けた。
「ルクスさんも、なんとか言ってくださいよ!」
「えっ? あ、うん……。ティア、もう十分飲んだよね?」
「……むう」
ティアは不満げに頬を膨らませた。
しかし、ルクスにそう言われては仕方がないとばかりに、ようやく彼の首筋から離れる。
「まったく。せっかくの朝餉を邪魔されるとは……」
「なんであたしが悪者みたいになってるんすか!?」
「……あはは」
ルクスは曖昧に笑うしかなかった。
そんな彼の腕に、ティアが当然のように抱きつく。
「ふふん。まあよい。続きはまた今度にしてやろう」
「続きがあるんですか!?」
「ティア……」
「なんだ?」
「……できれば、もう少し普通の朝ごはんにしてほしいかな」
「ふむ。では、次からは食後にするとしよう」
「そういう意味じゃないんだけど!?」
ダリアの悲鳴が、再び部屋中に響き渡った。
こうして今日も、ルクスの平穏な朝は、騒々しく幕を開けるのだった。
***
「お待たせ、ダリアさん」
身支度を整えたルクスが戻ると、ダリアは待ってましたとばかりに駆け寄ってきた。
「ルクスさん、大丈夫っすか!? 貧血とか起こしてないっすか? お腹とか痛くないっすか!?」
「え? ああ、大丈夫だよ。最近は身体の調子もすごくいいんだ」
「そ、そうっすか……」
ダリアはほっと胸を撫で下ろした。
だが、何かを思いついたのか、再びルクスへと身を寄せる。
「で、でも! もしお腹が痛くなったら、あたしがなでなでしてあげてもいいっすよ?」
「えっ?」
「ほ、ほら! 手当てって大事じゃないっすか!」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「そ、そうっすか……」
差し出しかけた手を引っ込め、ダリアは少し残念そうに肩を落とした。
「……む」
その様子を見ていたティアが、じとりと目を細める。
「おい、鼻たれドワーフ」
「な、なんすか!?」
「今、何をしようとした?」
「な、なんでもないっすよ!?」
「ふん。油断も隙もないやつめ」
ティアはルクスの腕をぎゅっと抱え込んだ。
「ルクスの世話はわたしがする。おまえの出る幕などないわ」
「いや、朝から血を吸ってた人に言われたくないっす!」
「なにを言う。あれも立派な世話の一環だ」
「絶対違うっすよね!?」
「あはは……」
ルクスは苦笑した。
どうやら、この二人が仲良くなるには、もう少し時間が必要らしい。
「……あっ! そうだった!」
ダリアはようやく本来の目的を思い出したらしく、慌てて一枚の依頼書を取り出した。
「実は、ルクスさんにお願いしたいことがあるんです」
「僕に?」
「はいっす。最近、町外れの森にある湖の周辺で、魔素溜まりが発生しているんですよ」
「……魔素溜まり?」
ルクスの表情が、わずかに引き締まった。
魔素溜まり。
それは、大気中に漂う魔素が一か所に滞留し、異常な濃度にまで高まった場所を指す。
魔素は魔物の活動を活発にし、ときには新たな魔物を引き寄せる。
濃度が高まりすぎれば、周辺の生態系にまで影響を及ぼしかねない、厄介な現象だ。
「はい。最近、そのあたりで魔物の目撃情報が急に増えているんです。町の人たちからも、一度ちゃんと調べてほしいって相談が来てまして……」
「なるほど……」
「実は、すでに調査依頼を受けて出発された方が、おひとりいらっしゃるんですけど……」
ダリアはそこで言葉を濁した。
どうやら、少し言いづらい事情があるらしい。
「……援護に行ったほうがいい?」
ルクスがそう尋ねると、ダリアはぱっと顔を上げた。
「そ、そうなんです! できればルクスさんにも向かっていただけると、ギルドとしてはすごく助かるんです!」
「うん。わかった。僕たちでよければ行ってくるよ」
「ほ、本当っすか!?」
「もちろん。魔素溜まりなら、放っておくわけにもいかないしね」
ルクスは穏やかに微笑んだ。
「いつもダリアさんにはお世話になってるし」
「そ、そんな……」
ダリアの頬が、ほんのりと赤く染まる。
「ルクスさんって、ほんとそういうところが……」
「ん? どうかした?」
「な、なんでもないっす!」
慌てて首を振るダリア。
その横で、ティアがじとりと目を細めていた。
「……ルクスよ」
「ん?」
「わたしにも来てほしいのか?」
ちらり。
ティアが上目遣いにこちらを見上げる。
その様子は、まるで誘ってほしくて仕方がないと言わんばかりだった。
「もちろん。ティアが一緒にいてくれると、僕も心強いよ」
「……っ!」
ティアの肩が、ぴくりと跳ねた。
「そ、そうか……」
一瞬、嬉しそうに頬を緩める。
しかし、すぐにこほんと咳払いをして、いつもの尊大な表情を取り戻した。
「ふ、ふふん。そこまで言うのであれば、致し方あるまい。特別に同行してやろうではないか」
「ありがとう、ティア」
「うむ。大いに感謝するがよい」
ティアは満足げに胸を張った。
その口元が緩みっぱなしなのは、本人だけが気づいていないらしい。
(……なんなんすか、この子。めちゃくちゃ嬉しそうなんですけど)
ダリアはなんとも言えない顔で二人を見比べた。
「……こほん。それじゃあ、場所を説明しますね」
ダリアは依頼書に添えられた地図を広げた。
「この道を進んで森に入っていただくと、奥に湖があるはずです。魔素溜まりが確認されたのは、その周辺になります」
「うん。わかった」
ルクスは地図を確認し、頷いた。
「それじゃあ、行ってくるね」
「はいっす! どうかお気をつけて!」
ダリアが大きく手を振る。
ルクスも笑顔で手を振り返し、ティアとともにギルドをあとにした。
***
町を離れ、しばらく歩いた先。
二人の前に、鬱蒼とした森が広がっていた。
天を覆うほど高く伸びた木々。
幾重にも重なった枝葉が陽光を遮り、まだ昼前だというのに、森の奥には薄暗い影が落ちている。
「ここから森に入っていこうか」
「うむ」
ティアは短く頷いた。
二人は獣道に沿って、森の奥へと足を踏み入れる。
湿った土の匂い。
風に揺れる木々のざわめき。
どこからともなく聞こえてくる、鳥の鳴き声。
一見すれば、どこにでもある静かな森だった。
だが――。
「……ルクスよ」
不意に、ティアが口を開いた。
その声からは、先ほどまでの甘えた響きが消えていた。
「うん。僕も感じた」
ルクスは足を止め、周囲に意識を向ける。
木々の隙間。
生い茂る茂みの奥。
そこに、微かな魔力の気配があった。
それも、ひとつではない。
「……来るぞ」
ティアが静かに告げる。
――ガサリ。
前方の茂みが、大きく揺れた。
次の瞬間。
「ギギィッ!」
緑色の小柄な魔物が、茂みを突き破って飛び出してきた。
ゴブリンだ。
ぎょろりとした目に、醜く歪んだ口元。
手には粗末な棍棒を握り、獲物を見つけたとばかりに下卑た笑みを浮かべている。
「ギャギャッ!」
ゴブリンが地面を蹴った。
狙いは、ルクス。
棍棒を振り上げ、一直線に襲いかかってくる。
だが――。
ルクスは慌てなかった。
静かに腰へ手を伸ばす。
ジャラリ――。
澄んだ金属音とともに、銀色の鎖が解き放たれた。
『光縛の鎖』。
光の魔力をつなぎ留めるために用いられる、ルクス愛用の魔導具だ。
ルクスは鎖を握り、静かに詠唱を紡ぐ。
「――我が光よ、戒めとなりてその身を縛れ」
その瞬間。
鎖の一節一節に、淡い光が灯った。
白銀の輝きが連なり、魔力が鎖の隅々へと流れ込んでいく。
「――光縛!」
ジャラララッ!
解き放たれた鎖が、宙を駆けた。
まるで意思を持った白銀の蛇のように、鋭く軌道を変える。
「ギッ!?」
ゴブリンが異変に気づいたときには、すでに遅かった。
光の鎖が棍棒を握る腕に巻きつき、その勢いのまま胴体を絡め取る。
――ギャリィンッ!
鋭い金属音が、森に響き渡った。
「ギギィィッ!?」
ゴブリンの身体が、不自然な姿勢のまま宙に引き留められる。
四肢をばたつかせ、必死にもがく。
だが、鎖はびくともしない。
光の魔力によって強化された拘束は、並の魔物では容易に振りほどけないのだ。
「ティア!」
「ふん。言われずともわかっておる」
ティアが、ゆっくりと右手を掲げた。
その小さな手のひらに、漆黒の魔力が収束していく。
――ズズズ……。
周囲の空気が、重く沈んだ。
闇色の魔力は渦を巻き、次第にその密度を増していく。
小さな手のひらに収まるほどの魔力の塊。
だが、その内側に秘められた力は、決して小さくない。
ゴブリンが本能的な恐怖に駆られ、さらに激しく暴れ始めた。
「ギ、ギギィッ!」
逃れようと身をよじる。
しかし、光の鎖はそれを許さない。
ティアの深紅の瞳が、冷たく細められた。
「――消えよ」
ただ、それだけだった。
次の瞬間。
――ズンッ!!
凝縮された闇の魔力が、一条の奔流となって放たれた。
漆黒の一撃が空気を引き裂き、一直線にゴブリンへと迫る。
逃げ場はない。
防ぐ術もない。
「ギ――」
断末魔すら、最後まで響かなかった。
闇の奔流がゴブリンを呑み込み、その身体を一瞬にして消し飛ばす。
衝撃に周囲の草木が大きく揺れ、巻き上がった土埃が森の薄闇へと溶けていった。
……静寂。
あとには、ゆっくりと地面へ落ちる光の鎖だけが残されていた。
「……相変わらず、すごい威力だね」
ルクスは鎖を手元へ引き戻しながら、感心したように呟いた。
初めてダンジョンで出会ったときも、彼女の力には驚かされた。
しかし、こうして改めて目の当たりにすると、その魔力の質と威力はやはり桁違いだ。
「ふん。この程度、造作もない」
ティアは何事もなかったかのように右手を下ろした。
その表情には、わずかな緊張すら浮かんでいない。
「それよりも、ルクスよ」
「ん?」
「今の鎖、なかなかよいではないか」
「え?」
「相手の動きを封じ、わたしが仕留める。実に合理的だ」
ティアは満足げに頷いた。
「それに、おまえの光とわたしの闇。相反する属性でありながら、こうして互いを補えるというのも興味深い」
「……うん。そうだね」
ルクスは小さく笑った。
「これなら、いい連携ができそうだ」
「当然だ」
ティアは得意げに胸を張る。
「わたしとおまえなのだからな」
「……はは。そうだね」
「なんだ、その笑いは」
「いや、なんだか嬉しそうだなって」
「なっ……!?」
ティアの頬が、ほんのりと赤く染まった。
「べ、別に嬉しくなどないわ! ただ、わたしの力を存分に発揮できるというだけのことだ!」
「うん。頼りにしてるよ」
「……っ!」
ティアは一瞬、言葉を詰まらせた。
それから、ぷいっと顔を背ける。
「ふ、ふん! せいぜいわたしの足を引っ張らぬよう、精進するがよい!」
その口元が、わずかに緩んでいたことには触れないでおこう。
ルクスはそう思いながら、静かに鎖を腰へと戻した。
――そのときだった。
「……ルクス」
ティアの声が、低く変わった。
「……うん」
ルクスもまた、森の奥へと視線を向けていた。
先ほど感じた魔力の気配。
それは、まだ消えていない。
むしろ――。
「……増えている?」
ルクスは眉をひそめた。
周囲に漂う魔素が、先ほどよりも明らかに濃くなっている。
それだけではない。
森の奥から、何かが滲み出すような、重苦しい気配が伝わってきた。
「どうやら、先ほどのゴブリンは単なる前触れだったようだな」
ティアの深紅の瞳が、暗い森の奥を見据える。
その表情には、先ほどまでの余裕とは異なる、静かな警戒が浮かんでいた。
「……湖の方角だね」
「ああ。あちらに魔素の淀みがある」
風が止んだ。
先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声も、いつの間にか消えている。
不自然なほどの静寂。
まるで森そのものが、何かを恐れて息を潜めているかのようだった。
ルクスは再び、光縛の鎖へと手を伸ばした。
「……気をつけて進もう、ティア」
「うむ」
ティアは短く頷いた。
「何が待ち受けていようと、わたしがおまえを守ってやろう」
「ありがとう。でも、僕もティアを守るよ」
「……なっ」
ティアが思わず振り返る。
「そ、そういうことを、さらりと言うでない!」
「えっ? 何か変なこと言った?」
「……もうよい!」
ぷいっと顔を背けるティア。
しかし、その小さな手は、いつの間にかルクスの服の裾をきゅっと掴んでいた。
ルクスはその手を見て、少しだけ微笑んだ。
そして、再び森の奥へと視線を向ける。
――濃密な魔素が漂う、湖の方角へ。
二人は静かに歩き出した。
その先に何が待ち受けているのか、まだ知る由もなく。




