0 プロローグ
ルクスは、朦朧とする意識の中で思った。
――これは、絶望なのか。
それとも、闇の力が支配するこの世界から、ようやく解放される喜びなのだろうか。
「久しぶりに人間を見かけたと思ったら……なんだ、もう死にかけているのか」
闇の底から、女の声が聞こえた。
まぶたを開くことすら、もう叶わない。全身を苛む痛みも、傷口から流れ出す血の温もりも、少しずつ遠ざかっていく。
命の灯火が、今にも消えようとしていた。
そんなルクスを見下ろすように、ひとりの女が佇んでいた。
漆黒の部屋に残されたわずかな光さえ、吸い込んでしまいそうな存在感。
月光を紡いだかのような、混じり気のない純白の長い髪。生気を感じさせないほど白く、陶器を思わせる滑らかな肌。
そして、その冷ややかな美貌を際立たせる、深紅の瞳。
女はルクスを見つめ、興味深そうに目を細めた。
「今どき珍しい、光の魔術師か」
その声には、わずかな驚きと、退屈を紛らわせる玩具でも見つけたような響きがあった。
女神の加護がほとんど失われたこの世界で、光の魔法を操れる人間はごくわずかだ。
ルクスは、そんな微かな力にすがりながら、どうにか生き延びてきた。
だが、もう限界だった。
これ以上、抗う力は残されていない。
――これで、ようやく終われる。
不思議なことに、死を前にして恐怖はなかった。ただ、長く続いた苦しみから解放されることに、安堵さえ覚えていた。
「……よい」
女が、ふいに呟いた。
「おまえを、この吸血令嬢の眷属にしてやろう」
言い終えるより早く、女の姿が消えた。
次の瞬間には、もうルクスのすぐそばにいる。
足音も、気配の揺らぎもない。まるで闇そのものが形を変えたかのようだった。
ひやりと冷たい指先が、ルクスの首筋に触れる。
そして――。
鋭い痛みが走った。
「っ……!」
声にならない息が漏れる。
首筋から何かが抜き取られていく。耳の奥では、心臓の鼓動だけが異様なほど大きく響いていた。
どくん──。
意識が沈んでいく。
このまま、すべてが終わる。
そう思った、その瞬間だった。
脳裏に、あり得るはずのない光景がよみがえった。
それは、ルクスの知らない記憶。
見たこともない場所。聞いたこともない声。
それなのに、懐かしい。
遠い昔、確かに自分がそこにいたのだと、魂が告げていた。
――はるか太古の記憶。
*
「光の巫女よ。魔王は討伐され、世界を覆っていた闇の大半は消滅しました」
厳かな声が、白亜の神殿に響き渡った。
「しかし……今度は、強すぎる光が世界の均衡を崩そうとしています」
その言葉を受け、ひとりの少女が静かに目を伏せた。
光の巫女。
光の女神に選ばれ、その加護を一身に受けた存在。
魔王が討たれ、闇が消え去った世界で、彼女の力はあまりにも強大だった。
闇が失われたことで、世界は光に満ちすぎていたのだ。
均衡を失った光は、やがて世界そのものを侵食し始めていた。
それを防ぐため、光の女神が示した術がある。
世界にあふれる光を一時的に封じ、その干渉を止める禁術。
ただし、その代償は術者自身の命に及ぶ。
「巫女自身の生命力を代償とする封印術です」
告げる者の声が、わずかに震えた。
「あなたは……その覚悟がおありですか?」
少女は迷わなかった。
「光の巫女として神託を受けたあの日から、この身は女神さまに捧げております」
穏やかな微笑みだった。
恐怖も、後悔もない。
ただ、世界の未来を願う、ひとりの少女の微笑み。
「……そうですか」
声の主は深く目を伏せた。
「すみません。あなたに、未来を託します」
少女は両手を広げた。
指先から、胸の奥から、魂の深奥から、まばゆい光があふれ出す。
それは世界を救うための光。
同時に、自らの命を捧げる光でもあった。
「世界の暁に静寂を――聖光封印」
瞬間、世界を満たしていた光が静止した。
時が止まったかのように、あらゆる輝きが少女のもとへと収束していく。
やがて、その身体は淡い光に包まれ、輪郭さえも失われていった。
最後まで微笑みを絶やさなかった少女を見届けながら、光の女神は祈るように語りかけた。
「光の巫女よ。あなたの献身は、いつか大きな環となり、必ずあなたのもとへ帰ってくるでしょう」
「それまで、どうか安らかな眠りを」
*
――そして、今。
闇の力が再び強まりつつある世界で。
「理の円環から外れし者よ」
声が響いた。
それは、どこから聞こえてくるのかもわからない、不思議な声だった。
「失われし光の力を宿す者よ」
沈みかけていたルクスの意識が、何かに呼び戻される。
「時は来ました」
その瞬間。
「ぐっ……あ、ああああああああっ!」
身体の内側で、何かが弾けた。
熱い。
いや、熱いなどという言葉では足りない。
魂そのものを焼き尽くすような奔流が、胸の奥から全身へと駆け巡った。
そして――。
光が、あふれた。
ルクスの身体から、まばゆい光が噴き上がる。
それは暗闇を切り裂き、部屋の隅々にまで広がっていった。
傷つき、血にまみれていた四肢が、光に触れるそばから癒えていく。裂けた皮膚が塞がり、失われかけていた生命力が満ちていった。
死に瀕していた身体が、急速に息を吹き返していく。
まるで、世界そのものが彼を生かそうとしているかのように。
「おまえは……っ?」
ルクスを抱きかかえていた吸血鬼の女が、驚愕に目を見開いた。
だが、問いかけの続きを口にすることはできなかった。
ルクスから放たれた光が、彼女の身体までも包み込んだからだ。
白銀の髪がふわりと舞い上がる。
深紅の瞳が大きく見開かれる。
次の瞬間、光はさらに強さを増し、彼女の全身を呑み込んだ。
砕け散った光の粒子が、ゆっくりと宙を舞う。
その幻想的な光景を切り裂くように、甲高い悲鳴が響き渡った。
「きゃああああああああああああっ!」
*
どれほどの時間が経ったのだろう。
やがて光は収まり、部屋には再び静寂が戻ってきた。
あれほど満ちあふれていた輝きは、跡形もない。
ただ、砕けた星の名残のような光の粒子が、ひとつ、またひとつと床へ降り注いでいた。
その中心で、二人は抱き合ったまま固まっていた。
やがて、ルクスがゆっくりと目を開く。
「……あれ?」
身体が軽い。
先ほどまで全身を苛んでいた痛みも、息をするだけで感じていた苦しさも、嘘のように消え去っていた。
何が起きたのか、まるで理解できない。
ルクスは戸惑いながら、腕の中にいる彼女へと視線を落とした。
彼女もまた、ゆっくりと顔を上げる。
そして――二人の視線が、真正面からぶつかった。
「「……え?」」
間の抜けた声が、ぴたりと重なった。
ルクスは、ぽかんと口を開けたまま動けなかった。
無理もない。
つい先ほどまで腕の中にいたのは、息を呑むほど美しい、大人の女性だったはずなのだ。
それなのに。
そこにいたのは、まるで別人のような姿をした少女だった。
月光を思わせる白銀の髪も、透き通るような肌も、深い輝きを湛えた深紅の瞳も変わっていない。
けれど、その顔立ちは驚くほど幼くなっていた。
華奢な肩。小さな手。大人の女性だった面影を残しながらも、明らかに縮んでしまった身体。
どう見ても、十代前後の少女にしか見えない。
ルクスは何度も瞬きをした。
目の前の少女もまた、自分の手を見つめ、身体を確かめるように視線をさまよわせている。
やがて、自分の異変を理解したのだろう。
少女の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
「ちょ、ちょっと待って……!」
声まで、先ほどとは違っていた。
甲高く、幼さの残る声。
少女は自分の頬に触れ、髪をつかみ、信じられないものを見るように目を見開いた。
「な、何これ!? 私、どうしてこんな姿に……!?」
わなわなと肩を震わせる少女。
その深紅の瞳には、先ほどまでの余裕も、冷たい威厳も、欠片ほども残っていなかった。
「うそでしょ!? なんで!? どういうことなのよおおおおおおっ!?」
闇に包まれた部屋に、吸血令嬢の悲鳴がいつまでも響き渡った。




