第22話 位牌の前で
元司が龍安寺の門前で倒れてから、
京には静かな雨が降り続いていた。
その知らせが、
妻のもとに届いたのは三日後のことだった。
使者は淡々と告げた。
「桑潟武蔵守元司殿、討死にて候」
妻は泣かなかった。
泣けなかった。
ただ、
胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残った。
その夜、
妻はひとりで仏間に座った。
灯された蝋燭の火が揺れ、
新しく作られた位牌に影を落とす。
――桑潟武蔵守元司之霊位。
その文字を見つめるだけで、
胸が締めつけられた。
妻は、
そっと位牌に向かって手を合わせた。
「……殿」
声は震えていた。
「最後に……会いに来てくださったのですね」
あの日の朝。
突然訪れた夫。
不器用な謝罪。
温かい手。
そして、あの言葉。
――そなたに礼を言いたかった。
妻は、
その言葉を何度も胸の中で繰り返した。
「殿……
私は、あの朝のことを忘れません」
蝋燭の火が揺れ、
影が位牌の文字を撫でた。
「あなた様は……
いつも遠いところを見ておられました。
細川家のため、政元様のため、
そして……この国のため」
妻は微笑んだ。
涙はまだ落ちなかった。
「でも……
あの日だけは、私を見てくださいました」
その瞬間、
胸の奥に温かいものが広がった。
「殿。
あなた様は……
立派なお方でした」
妻は位牌にそっと触れた。
「私は……
あなた様の妻でいられたことを、
誇りに思っております」
ようやく、
涙がひとすじ落ちた。
それは悲しみではなく、
長い間胸にしまっていた想いが
静かに溶け出した涙だった。
「どうか……
安らかにお眠りください」
妻は深く頭を下げた。
その姿は、
誰に見せるでもない、
ただひとりの夫への祈りだった。
蝋燭の火がふっと揺れた。
まるで、
元司がそっと頷いたかのように。
その夜、
妻は初めて声を上げて泣いた。
泣きながら、
何度も何度も位牌に語りかけた。
「殿……
どうか……どうか……」
その声は、
静かな雨音に溶けていった。
――元司の妻の祈りは、
確かにあの世へ届いていた。




