無自覚なのが一番厄介
白須賀の「私も、ちゃんと本気なんだから」という言葉は、その日の午後ずっと頭の隅に残っていた。
残っていた、というより、無理に残さないようにしても消えてくれなかった、というほうが近い。
ただ、だからといって僕に何かできるわけでもない。
あの言い方が冗談だったのか、本気だったのか、あるいはトップアイドル特有の距離感の詰め方だったのか、僕には判断がつかなかった。白須賀沙也加みたいな人間は、たぶん普通の物差しでは測れない。僕みたいな凡人があれこれ考えたところで、結論なんて出るはずがなかった。
結局、僕はいつも通りに振る舞うしかなかった。
けれど、周りはそうはいかなかったらしい。
翌週に入ってから、教室での空気はまた少し変わった。
白須賀が朝から僕へ挨拶をし、昼は屋上へ来る。そこに天雨まで自然な顔で混ざるようになったせいで、僕の席の周辺だけ妙に人通りが増えたのだ。
女子たちはあくまで何気ない顔で近づいてくる。プリントを回収するついで、提出物を確認するついで、あるいは白須賀へ話しかけるきっかけを探すついで。理由はいくらでも作れるらしい。
ただ、その「ついで」の中心に僕の机があること自体が、ひどく落ち着かなかった。
「沢渡くん、消しゴム貸して」
「……昨日も貸したよね」
「そうだった?」
そう言って首を傾げる女子は、消しゴムを借りたあと、案の定そのまま白須賀へ話しかけていった。
また別の休み時間には、
「沢渡、白須賀さんって炭酸飲む?」
「知らないけど」
「じゃあ天雨さんは?」
「なんで僕が知ってる前提なんだよ」
そんなふうに質問されることも増えた。
誰も彼も、僕自身にはたいして興味がない。
白須賀と天雨、その二人へ近づくための足場として使われているだけだ。そう考えれば気は楽なはずなのに、実際には妙な疲れが溜まっていった。
しかも、天雨は最近になって、その手の女子たちを静かに牽制するようになっていた。
「それ、沢渡くんに聞く必要ある?」
柔らかい声なのに、不思議と刺さる。
言われた側の女子は「あ、うん」と曖昧に笑って引いていくのだから、天雨の静かな圧力はかなり効いているらしい。
そんな場面を何度か見ているうちに、今度は白須賀まで面白そうに口を挟むようになった。
「美鈴ちゃん、最近ちょっと厳しくない?」
「別に。無駄に沢渡くんを使わないでほしいだけ」
「へえ」
白須賀はそこで必ず、僕を見て意味ありげに笑う。
その笑みの意図を理解しきれないまま、僕はだいたい目を逸らすしかなかった。
たぶん全部、白須賀の影響だ。
トップアイドルが学校に来て、その隣にいる人間が少しだけ注目される。そこまでは分かる。分かるのだけれど、その余波が思っていた以上に広く、しかも厄介な方向へ広がり始めていることに、僕はまだきちんと気づけていなかった。
※ ※ ※
「沢渡くん。少し時間をもらえるかしら」
昼休みの終わり際、僕の席の前に立ったその女子を見て、教室の空気がまた一段ざわついた。
柊綾乃。二年生の生徒会副会長。
校内で知らない者はいない、という類の有名人だった。成績優秀、品行方正、教師受けも生徒受けもいい。長い黒髪を低い位置でまとめた姿は妙に絵になっていて、歩いているだけで「ちゃんとしている」という印象を与える人だ。派手さはないのに、近づきがたい美しさがある。
そんな人が、よりにもよって僕に用があるらしい。
「……僕ですか」
「ええ。あなた以外に誰がいるの」
言い方がいちいち端的で、言葉を無駄にしない。
天雨の静かさとはまた違う種類の鋭さだった。
僕が席を立つと、柊先輩は教室の外へ視線を向けた。話をここではしたくない、という意味らしい。廊下へ出ると、彼女は手にしていたクリアファイルを軽く持ち上げた。
「白須賀さんの編入に伴って、学校案内の補足資料と来月の見学会の導線を調整しているのだけれど、本人の意向確認が必要な点があるの」
「それなら直接、白須賀さんに聞けば……」
「聞いたわ。でも、周りに人が多すぎて途中で話が流れたの。あなた、彼女と一番自然に話せるのでしょう」
否定しづらい言い方だった。
実際、白須賀に気軽に声をかけられる人間が学校内でどれだけいるかと考えると、たしかに僕のほうがまだ話しやすい立場なのかもしれない。
「放課後、生徒会室に来て。十分で終わるわ」
「……分かりました」
「助かる」
そう言って去っていく後ろ姿まで隙がなかった。
教室へ戻ると、白須賀がすぐにこちらを見た。
「誰だったの?」
「生徒会の柊先輩。君のことで確認したいことがあるって」
「あー、副会長さんか。まじめそうな人だよね」
「まじめそうっていうか、たぶんまじめな人そのものだと思う」
「ふふっ。沢渡くん、ちょっと緊張してる?」
「してない」
即答したのに、白須賀はなぜか満足げだった。
その横で天雨が小さく眉を寄せる。
「放課後、生徒会室?」
「うん」
「一人で?」
「まあ、そうなるけど」
答えた途端、天雨はほんの少し考え込む顔になった。
けれど何かを言う前に予鈴が鳴ってしまい、それ以上の会話は途切れた。
※ ※ ※
放課後の生徒会室は、僕が想像していたよりずっと慌ただしかった。
机の上には資料の束がいくつも積まれ、壁際には未開封の段ボールまで置かれている。見学会の準備だの、部活動予算の仮集計だの、校内行事の調整だの、紙だけで空間が埋まりそうなくらいだった。
「来たのね。そこ、座って」
柊先輩はすでに作業中だった。
袖をまくったブラウスの手首が細い。普段は隙のない印象なのに、仕事に追われている今は少しだけ近寄りやすく見えた。
「白須賀さんには確認を取ったわ。今日は見学会の件ではなくて、別件を頼みたいの」
「別件?」
「この名簿、学年ごとに仕分けてホチキスで留めてほしいの。三十分で終わる」
「……最初の話と違いませんか」
「状況が変わったの。人手が足りないのよ」
悪びれない。
生徒会室の隅を見ると、他の役員らしい男子二人が「じゃ、部活あるんで」と言ってさっさと出ていくところだった。どうやら本当に人が足りていないらしい。
「断る?」
そう聞かれて、机の上の資料の山を見る。
柊先輩一人で片づける量ではない。しかも彼女はそれを当然のように抱え込んでいる。ここで断るのも気が引けた。
「……やりますよ」
「えらいわね」
「子ども扱いしてません?」
「少しだけ」
言いながら彼女はペンを走らせ続ける。
その横顔は相変わらず綺麗で、作業の手つきは無駄がなかった。生徒会副会長が似合いすぎる人だな、と、妙なところで感心する。
作業自体は単純だった。
名簿を学年ごとに分け、欠番がないか確認し、まとめて留めていく。黙々と進めていると、柊先輩が時々こちらへ資料を滑らせてくる。
「あなた、意外と手際がいいのね」
「単純作業は嫌いじゃないので」
「そう。助かるわ」
その「助かる」が、彼女の口から出ると妙に本物に聞こえた。
褒められ慣れていない身としては、反応に困る。
しばらくして、壁際の段ボールから必要な書類を取ろうとした柊先輩が、ふいにバランスを崩した。
足元にあった別の箱へ、ヒールの先が引っかかったのだ。
「あ……っ」
細い体がぐらりと傾く。
しかも、その拍子に上の棚へ仮置きされていたファイルの束まで滑ってきた。
考えるより先に立ち上がっていた。
僕は倒れかけた柊先輩の肩を引き寄せ、自分のほうへ抱き込むみたいにして避ける。同時に、頭上から落ちてきたファイルがばさばさと床へ散らばった。
紙の音が部屋中に広がる。
「……大丈夫ですか」
腕の中にいることに気づいて、慌てて距離を取る。
柊先輩は一拍遅れて目を見開いた。
「……ええ。大丈夫」
そう答えた声は落ち着いていたが、耳だけが少し赤かった。
「すみません、段ボールそのままで」
「いえ、僕ももっと早くどけておけばよかったので」
「あなたが謝ることではないわ」
いつもの調子に戻ったはずなのに、彼女はしばらく僕から目を逸らしていた。
床に散ったファイルを二人で拾い集める。紙に触れる指先が何度か重なりそうになって、そのたびに妙な沈黙が落ちた。
ようやく作業が終わるころには、外はすっかり夕方になっていた。
「本当に助かったわ」
生徒会室の鍵を閉めながら、柊先輩が言う。
「あなたがいなかったら、今日は帰れなかったかもしれない」
「大げさですよ」
「いいえ。私、借りを作るのは好きじゃないの」
廊下の窓から差し込む橙色の光が、彼女の横顔を薄く照らしていた。
その視線が、まっすぐこちらへ向く。
「だから、何かあれば言って。できる範囲で返すわ」
「そんな大したことしてないです」
「しているわ」
言い切られて、僕は返せなくなる。
柊先輩は数秒だけ黙って、それから少し声を落とした。
「……それに、あなたはもう少し、自分が人に与える影響を自覚したほうがいい」
「影響?」
「ええ。無自覚なのが一番厄介」
意味がよく分からず首を傾げると、彼女は小さく息をついた。
その仕草に、普段の完璧さとは違う疲れが滲む。
「気にしなくていいわ。ただ、これから私が呼んだ時は、なるべく優先して来て」
「生徒会の手伝いってことですか」
「……そういうことにしておく」
最後だけ、妙に曖昧だった。
※ ※ ※
翌日から、僕の周りはさらに騒がしくなった。
朝から天雨が僕の机に小さな紙袋を置く。
「これ、朝に焼いたクッキー。甘すぎないはずだから」
「急にどうしたの」
「余ったの」
言いながら、余ったにしては丁寧すぎる包装だった。
そこへ白須賀が後ろから身を乗り出してくる。
「え、手作り? 美鈴ちゃんすごい」
「白須賀さんの分もあるけど、沢渡くんの分とは別」
「ふーん?」
白須賀は笑っている。笑っているのに、その「ふーん」だけが妙に長く尾を引いた。
さらに一時間目の休み時間には、今度は柊先輩が教室の前へ現れた。
「沢渡くん、昨日の続き。今日も放課後、少しだけいいかしら」
その一言で、クラス全体の視線が一斉に僕へ集まる。
胃が痛い。
「……昨日で終わりじゃなかったんですか」
「終わったけれど、別件ができたの」
「別件、多くないですか」
「人気者は大変ね」
教室の後ろから白須賀が楽しそうに茶化してくる。
天雨は無言だったが、僕の机の端を指先で軽く叩いていた。あれはたぶん、彼女なりに不機嫌な時の仕草だ。
昼休みには、屋上のベンチがいつも以上に狭く感じた。
白須賀が僕の右隣、天雨が左隣。そこへ遅れてやってきた柊先輩が「少しいい?」と当然みたいな顔で前に立つ。
結果、僕は三人の美少女に囲まれる形になった。
どう考えても落ち着ける状況ではない。
「副会長さんも来るんだ」
白須賀がにこやかに言う。
「たまたまよ。沢渡くんに確認事項があっただけ」
「へえ。確認事項」
「ええ。あなたに逐一説明する必要はないでしょう」
笑顔のまま、言葉だけが少し鋭い。
天雨はそんな二人を見比べて、静かに口を開いた。
「沢渡くん、食べづらそう」
「ものすごく食べづらい」
正直に答えると、なぜか三人とも一瞬だけ黙った。
次の瞬間、白須賀が吹き出す。
「ふふっ、沢渡くんって、ほんと変わんないね」
「変わる要素あった?」
「いっぱいあるのに」
そう言いながら、白須賀は僕の肩へ軽くもたれかかった。
反対側では天雨が僕の弁当箱の横へさりげなく水筒を置く。前方では柊先輩が細い目でその様子を見ていた。
その視線の意味を考える余裕は、僕にはなかった。
ただ一つ分かったのは、全部きっと白須賀の影響だということだけだ。
トップアイドルが僕なんかに構うから、天雨や柊先輩まで妙に距離を詰めてくる。たぶん、そういうことなのだろう。そうとでも思わないと、この状況を説明できなかった。
でも、その考えがどれだけ甘かったのかは、放課後になって少しだけ理解した。
昇降口で靴を履き替えていると、白須賀が僕のネクタイを指先で整えながら、ひどく自然な声で言ったのだ。
「沢渡くん、あんまり増やしすぎないでね」
「何を」
「自分の近くに来る子」
意味が分からず見返すと、白須賀はいつもの完璧な笑顔を浮かべていた。
「だって、順番はちゃんと守ってほしいもん」
その後ろで、天雨が僕の腕をそっと取る。
さらに少し離れた場所では、柊先輩がこちらを見たまま足を止めていた。
たぶんその時の僕は、ひどく間抜けな顔をしていたと思う。
けれど三人とも、そんな僕を見て、なぜか少しだけ満足そうにしていた。
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