私が先に友達になったんだよ?
白須賀沙也加と友達になってから、学校での僕の立場は、良くも悪くも少しだけ変わった。
もちろん、いきなり人気者になったわけじゃない。そんな都合のいい話ではないし、僕自身の中身が劇的に変わったわけでもない。朝は相変わらず眠そうな顔で登校するし、授業中に目立つ発言をすることもない。けれど、少なくとも「教室の隅にいる誰か」ではいられなくなった。
理由は単純だ。白須賀が、妙に僕へ絡んでくるからだ。
朝、教室に入れば「おはよう、沢渡くん」と真っ先に声をかけてくる。休み時間になれば、後ろから机に身を乗り出してきて「その小説、何読んでるの?」と覗き込んでくる。昼になれば、当たり前みたいな顔で屋上までついてくる。
最初の二、三日は、クラス全体がその光景に慣れていなかった。男子はあからさまに僕を刺すような視線で見てきたし、女子も女子で、「なんで沢渡?」という顔を隠そうともしなかった。
ただ、そんな空気もずっと同じではいられない。人は強い違和感にも案外すぐ順応する。
そのうえ、白須賀自身があまりにも自然体だった。
彼女は僕と話す時だけ特別に声を潜めたり、周囲を気にしたりしない。誰に見られていようが、見られていまいが、同じ調子で僕の隣に来て、同じ温度で笑う。そういう距離の詰め方をされると、見ている側も「そういうものなのか」と認識を変えざるを得ないらしい。
もっとも、それは同時に、僕が彼女へ近づくための取っ掛かりとして扱われることも意味していた。
「沢渡くん、白須賀さんって普段どんな感じなの?」
「え、どんなって言われても……見たままだと思うけど」
「連絡先とか交換したの?」
「してない」
「えっ、してないの?」
していない。というより、僕から聞けるはずがないし、白須賀もわざわざそういう話をしなかった。友達になろうとあっさり言ったくせに、彼女は肝心なところで妙に慎重だった。
それがなんとなく意外で、少しだけ引っかかってもいた。
そんなふうに、クラスメイトたちが僕を経由して白須賀へ近づこうとし始めた頃、その中心にいたのが天雨美鈴だった。
天雨は、入学した時から有名な女子だった。
白須賀みたいな圧倒的な華やかさとは方向が違う。癖のない黒髪を肩の下まで真っ直ぐに下ろし、切れ長の目元にはどこか涼しげな気配がある。派手ではないのに目を引く、静かな美人。クラスの中でも話しかけづらいくらい整っていて、だからこそ遠巻きに憧れられているタイプだった。
その天雨が、ある昼休み、僕の席の前に立った。
「沢渡くん。少し、いい?」
声まで綺麗だった。澄んでいて、抑えめで、でも聞き取りやすい。
教室の空気が一瞬だけざわついたのが分かった。たぶん、僕が一番そう思っていた。
「……僕?」
「うん。あなた以外にいない」
当然のように言われてしまって、返答に困る。
天雨は視線を少しだけ横へ流した。その先には、ちょうど別の女子に囲まれている白須賀がいた。数人に同時に話しかけられながらも、まるで破綻しない笑顔で受け答えをしている。あの辺りだけ、教室というより収録現場みたいだった。
「白須賀さんと、話してみたくて」
「ああ……」
「でも、ああいう状態でしょう。今は入りにくいから」
言いたいことはすぐに分かった。
要するに、僕経由で近づきたいということだ。
少し前までなら、そんな頼み事をされること自体がなかった。けれど今はもう、驚いてばかりもいられない。僕は椅子から立ち上がり、白須賀のほうへ目を向けた。
「……一応、声はかけてみるけど」
「ありがとう」
その礼が妙に丁寧で、思わず天雨の顔を見る。
彼女は無表情に近い落ち着いた顔をしていたけれど、目だけは少し緊張しているように見えた。
結局、その日の昼休みは三人で屋上に行くことになった。
空は薄く霞んでいたが、風は気持ちよかった。屋上のベンチに僕が座り、反対側に白須賀、その隣に天雨が腰を下ろす。
どう考えても場違いなのは僕なのに、なぜか席の中心にいるのも僕だった。
「えっと、天雨さん、だよね? 話しかけてくれてうれしい」
白須賀は営業用とは少し違う、柔らかい笑みで言った。
天雨は小さく頷き、膝の上で指を組む。
「前から、応援していました。ライブ映像も、配信も見ています。特に去年の夏フェスのラスト、煽りの入れ方がすごく好きで」
「え、そこ分かってくれるの? うれしい! あれね、実は直前で少し変えたんだよ」
そこから先は、ほとんど二人の会話だった。
天雨は思っていた以上によく白須賀の活動を追っていた。雑誌のインタビュー内容まで覚えていて、出演番組のちょっとした所作にも言及する。白須賀のほうも、単なるミーハーではないと分かったのか、次第に楽しそうに言葉数を増やしていった。
僕はといえば、時々相槌を打つくらいだった。
ただ、その時間は不思議と居心地が悪くなかった。天雨は白須賀しか見ていないようでいて、僕が完全に置いていかれない程度には話題を振ってくる。白須賀は白須賀で、僕が黙っていても気にしない。三人の温度が、奇妙なくらい無理なく収まっていた。
それから数日、天雨はよく僕たちのそばにいるようになった。
最初は明らかに白須賀目当てだった。
休み時間も、昼休みも、彼女の視線は真っ先に白須賀へ向く。ライブの話、仕事の話、芸能界の話。興味があることがはっきりしているぶん、接し方にいやらしさがない。白須賀も天雨の真面目さを気に入ったらしく、わりと素の表情で話していた。
ただ、少しずつ変化もあった。
「沢渡くん、そのパン、また同じの買ってる」
「安いし外れがないから」
「もう少し栄養を考えたほうがいいと思う」
「いきなり保護者みたいなこと言うね」
「……放っておけないから」
そんな会話を、天雨とするようになった。
きっかけはたぶん、些細なことの積み重ねだ。僕が白須賀の前でも過度に媚びないこと。天雨が会話で詰まった時、僕が話題の継ぎ目を埋めたこと。屋上のベンチで、風に飛ばされかけた彼女のプリントを咄嗟に押さえたこと。
意識するような出来事ではなかったけれど、人と人の距離が縮まる時は、案外そういうものなのかもしれない。
事件が起きたのは、その週の金曜だった。
その日は白須賀が午後の途中で仕事へ向かうため、放課後にはもう学校にいなかった。教室に残っていた空気は、どこか気の抜けたものだった。中心にいた強い光が消えると、残された側は少しだけ、自分の位置を見失うらしい。
僕は帰り支度を済ませ、駅へ向かう道を一人で歩いていた。
校門を出てしばらく行った先、コンビニの前の角を曲がったところで、見覚えのある背中が視界に入った。
天雨だった。
彼女は二人組の男に声をかけられていた。どちらも大学生くらいだろうか。服装は軽く、笑い方は馴れ馴れしい。片方が道を塞ぐように前へ立ち、もう片方が横から距離を詰めている。
「だからさ、ちょっと話聞くだけでいいって」
「モデルとか興味ない? 絶対向いてるから」
「……急いでいるので」
天雨の声は落ち着いていたが、足元が動いていなかった。
断っているのに、押しの強さに押し返せていない。逃げる方向を失っているのが、遠目にも分かった。
僕は一瞬だけ足を止めた。
正直、怖かった。相手は二人で、僕は一人だ。喧嘩なんてしたこともないし、うまく追い払える自信もない。下手に出て面倒になる可能性だって十分ある。
けれど、天雨の顔を見た時、考えるより先に体が動いていた。
「天雨さん」
三人の視線が一斉にこちらへ向く。
僕はできるだけ平静を装って、天雨の横に並んだ。
「先生が探してた。連絡、まだだった?」
一瞬だけ、天雨の目が揺れた。
でも彼女はすぐに意図を汲んだらしく、小さく頷く。
「……ごめんなさい、今行こうとしてた」
「じゃあ行こう」
なるべく自然にその場を離れようとした。だが、男の片方が「あれ?」と笑いながら、また天雨の進路へ身を入れてきた。
「なに、彼氏?」
「違います」
「なら別によくない? ちょっとくらい」
言いながら、男の手が天雨の手首へ伸びる。
その瞬間、僕は反射的に彼女の腕を引いて自分の後ろへかばっていた。
「嫌がってるんで、やめてもらえますか」
声が少しだけ掠れた。
たぶん強くは聞こえていなかったと思う。けれど僕は、相手から目だけは逸らさなかった。
沈黙が数秒落ちる。
やがて、男たちは面倒そうに肩をすくめた。
「あーはいはい。マジメくんって感じ」
「つまんな。じゃ、いこ」
吐き捨てるように言って、二人は駅前のほうへ去っていった。
姿が見えなくなるまで待ってから、僕はようやく息を吐いた。手のひらが変に熱かった。
「……大丈夫?」
振り返ると、天雨はまだ少し強張った顔で立っていた。
いつもの涼しげな表情が崩れている。唇の色も少し悪い。
「ごめんなさい」
「いや、なんで天雨さんが謝るの」
「迷惑、かけたから」
「それは向こうが悪いでしょ」
そう言うと、天雨は一度だけ瞬きをして、それから小さく俯いた。
彼女は見た目の印象よりずっと、困った時に誰かへ頼るのが下手なのかもしれなかった。
近くの自販機で温かいお茶を二本買い、駅前のベンチに座る。
天雨は缶を両手で包みながら、しばらく何も言わなかった。夕方のホームへ流れていく人波の音だけが、遠くで途切れずに続いていた。
「私、ああいうの、すごく苦手で」
ぽつりとこぼれた声は、いつもより小さかった。
「断ってるつもりなのに、上手く逃げられないの。嫌だって言うと空気が悪くなる気がして、動けなくなって……」
「分かるよ、とは軽く言えないけど」
缶のプルタブを指で弄びながら、僕は言葉を選ぶ。
「でも、断って空気悪くなるなら、それは相手が悪いだけだよ。天雨さんが気にすることじゃない」
「沢渡くん、さっき怖くなかったの?」
「怖かったよ」
「……でも来てくれた」
「放って帰ったら、たぶん後悔すると思ったから」
それは格好つけた答えではなかった。
本当にそうだった。助けられるかどうかより、見て見ぬふりをした自分のほうが、たぶん後からずっと嫌になる。
天雨はその返答を聞いて、しばらく何も言わなかった。
やがて、じっと僕の横顔を見る。
「沢渡くんって、優しいんだね」
「たまたまだよ」
「たまたまで、あそこまでできない」
言い切る声は静かなのに、妙に真っ直ぐだった。
その日を境に、天雨の距離は目に見えて変わった。
翌週になると、彼女は白須賀がいない時でも僕の席へ来るようになった。朝の挨拶をする。授業で使うプリントをついでのように渡してくる。購買へ行けば、僕の分まで飲み物を買ってくる日すらあった。
「天雨さん、最近沢渡とよく話すね」
誰かにそう言われた時、彼女は一切慌てなかった。
「そうね。話しやすいから」
たったそれだけ。
なのに、その一言で妙に教室が静かになったのを覚えている。
白須賀はその変化に気づいていた。気づかないはずがない。
昼休み、屋上で並んで座っていると、彼女は意味ありげに笑った。
「美鈴ちゃん、最近沢渡くんに懐いてるよね」
「え……」
「いいことじゃん。沢渡くん、ちゃんと頼られてるってことだし」
軽い調子で言っている。
けれど僕の隣で、天雨の指先が弁当箱の端をきゅっと押さえたのが見えた。
「私は、懐いてるというより……」
天雨はそこで一度言葉を切り、白須賀ではなく僕を見た。
「ちゃんと見てるだけ」
「……何を?」
聞き返すと、彼女はわずかに目を細める。
「沢渡くんのこと」
その場ではそれ以上広がらなかった。
けれど、その言葉は妙にあとを引いた。
放課後、昇降口で靴を履き替えている時だった。
白須賀は先に仕事へ出ていて、廊下には部活へ向かう生徒たちの足音が響いていた。僕が鞄を肩に掛けたところで、天雨が隣に立った。
「一緒に帰ってもいい?」
「別にいいけど」
「よかった」
その一言の柔らかさに少し戸惑いながら、僕たちは並んで校門を出た。
沈黙が苦にならないのは、たぶん天雨の歩幅がこちらに合っていたからだ。彼女は必要以上に喋らない。でも、こちらが黙っていても不機嫌そうにはしない。
しばらく歩いたところで、天雨が不意に立ち止まった。
「沢渡くん」
「なに」
「この前、助けてくれてありがとう」
「今さら?」
「今さら。ちゃんと言えてなかったから」
彼女は僕のほうへ向き直る。夕方の光が横から差して、黒髪の輪郭を細く照らしていた。
綺麗だな、と、場違いなくらい率直に思った。
「私、あの日からずっと考えてたの」
声は小さいのに、逃げ道がない。
「白須賀さんに会いたくて、最初は沢渡くんに話しかけた。たしかにそうだった。でも今は、それだけじゃない」
心臓が一つ大きく鳴る。
「沢渡くんは、自分では何でもないみたいに言うけど、私にとっては違う。怖かった時に来てくれて、困ってる時に当たり前みたいに手を伸ばしてくれて……そういうの、忘れられるわけない」
天雨はそこで少しだけ息を整えた。
白い指が、鞄の持ち手を強く握っている。
「だから、これからは私も、沢渡くんの近くにいたい」
「天雨さん、それは……」
「重いって思う?」
先に言われてしまって、返答に詰まる。
彼女は微笑んでいた。静かで、綺麗で、でもどこか引き返せないものを含んだ笑みだった。
「それでもいい。私は、もう少し曖昧なままでいたくないから」
一歩だけ、彼女が距離を詰める。
「沢渡くんが誰にでも優しいの、困るの。あんまり簡単に手を差し出さないで。勘違いするから」
その言い方は冗談めいていない。
本気だった。少なくとも彼女の中では、すでに冗談で流せる段階を過ぎているのだと分かる。
僕が言葉を失っていると、天雨は最後に小さく付け加えた。
「……でも、もし差し出すなら、次も私にして」
そのまま彼女は先に歩き出した。
取り残された僕は、しばらくその場で動けなかった。
翌日。
昼休みの屋上で、僕はどこか落ち着かないままパンを開けていた。白須賀はそんな僕の様子を見て、面白そうに首を傾げる。
「どうしたの、沢渡くん。今日ちょっと変じゃない?」
「別に……」
「ふーん」
白須賀はそれ以上追及せず、缶ジュースのプルタブを開けた。
炭酸の抜ける音が、やけに大きく聞こえる。
しばらくして、彼女は空を見上げたまま言った。
「美鈴ちゃん、真面目だからね。一回好きになったら、まっすぐ来そう」
「……好きって」
「違うの?」
軽く返されて、言葉が詰まる。
白須賀はようやくこちらを見た。笑っている。いつもの、明るくて親しみやすい笑顔だ。なのに、なぜか温度が少しだけ低く感じた。
「沢渡くんってさ、優しいよね」
「昨日も同じこと言われた」
「うん。だから危ないんだよ」
彼女はベンチから少し身を乗り出す。風が吹いて、細い髪が頬にかかった。
そのままの距離で、白須賀は僕の制服の袖を指先でつまむ。
「私が最初に見つけたのに」
「……え?」
「友達にしたの、私が先だったでしょ?」
明るい声だった。
けれど、そのつまんだ指は思ったより強く、逃がさないみたいに布を捉えていた。
「沢渡くんが誰かに優しくするのは、たぶん止められない。でも、簡単に特別な顔しないでね。みんな本気になるから」
白須賀は笑う。
いつも通り、完璧なアイドルみたいに。
だけど次の瞬間、その瞳だけが少しも笑っていないことに気づいて、僕は息を止めた。
「私も、ちゃんと本気なんだから」
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