完璧なトップアイドルとして
その頃。
白須賀沙也加は、都内の大型スタジオで、何度目かも分からない通しを終えたところだった。
肩で息をしながら、壁一面の鏡へ映る自分を見る。
汗で前髪が少し張りつき、頬には薄く熱が残っている。それでも、姿勢は崩れていない。呼吸が荒くても立ち姿は綺麗なまま。ダンスのラインも、手先の角度も、十分すぎるくらい整っている。
なのに、さっきから誰も「今のがいい」と言わなかった。
「……もう一回いこうか」
演出チームの声が、少しだけ曖昧に落ちる。
ダメだとは言われない。
でも、決め手がない時の現場の空気というものは、言葉より先に肌で分かる。
白須賀はタオルを首にかけたまま、小さく「はい」と返した。
その返事すら、やけに綺麗に響いてしまうのが今は少し嫌だった。
東京ドーム単独公演が決まってから、練習量は明らかに増えた。
歌の基礎、ロングトーンの安定、ダンスの体幹、煽りの間、ステージ移動の歩幅、カメラに抜かれる角度。今までだってやってきたことを、もっと高い精度で、もっと大きい会場仕様に合わせて積み直している。
努力はできる。
体を動かすことも、同じ曲を何十回も繰り返すことも、白須賀は苦ではない。むしろそういう積み重ねで立ってきた人間だ。
だからこそ、今ぶつかっている壁が余計に厄介だった。
「沙也加ちゃん、今の、すごく上手いんだけどね」
少し休憩が入ったタイミングで、年上の女性スタッフがペットボトルの水を差し出してくる。
「ありがとうございます」
「うん。でも、なんていうか……綺麗すぎるかな」
その一言に、白須賀は水を受け取る手をほんの少しだけ止めた。
綺麗すぎる。
褒め言葉のようでいて、今この場では違う。
実際、さっきから自分でも分かっていた。振りも表情も、音の取り方も、全部きっちりしている。失敗しないように、崩れないように、きちんと正解へ寄せている。
寄せているのに、何かが足りない。
「東京ドームってさ、もちろん完成度は大事なんだけど」
別のスタッフも会話へ加わる。
「“上手い”だけで押し切れる場所じゃないんだよね。もっと、“この人じゃなきゃダメ”っていう瞬間が欲しい」
「……この人じゃなきゃダメ、ですか」
「うん。今の沙也加ちゃん、ちゃんとすごい。でも、なんか“優等生の正解”に寄りすぎてる感じがする」
その表現は、驚くほど正確だった。
優等生の正解。
白須賀はそこでようやく、自分が何をしていたのか、少しだけ輪郭を掴んだ気がした。
怖かったのだ。
失敗が。
足りないと思われることが。
東京ドームなんて大きすぎる舞台で、「思ったより普通だった」と感じられることが。
だから、間違えないようにした。
完璧にやろうとした。
いつも以上に精度を上げて、隙をなくして、誰にも文句を言わせない形を作ろうとした。
でもそのせいで、白須賀沙也加自身の“熱”まで綺麗に整えすぎてしまっていた。
「……最悪」
白須賀は小さく呟いた。
努力の方向を間違えたわけではない。
でも、努力がそのまま“らしさ”を削る形になっていたのだとしたら、それはかなり痛い。
白須賀沙也加は、ただ正確なだけの人間ではない。
笑った瞬間に空気を変えて、言葉一つで客席の温度を上げて、完璧なのにどこか人懐っこくて、だからたくさんの人に届いてきた。
なのに今の自分は、その一番大事な部分を“ブレ”だと思って消しかけていた。
※ ※ ※
その日の練習が終わったあとも、白須賀はすぐには帰らなかった。
スタッフが少しずつ撤収を始める中、一人でモニター席の前に座る。
通しで撮った映像が何本も並んでいて、リモコンを押せば、さっきまでの自分が何度でも再生された。
一回目。
二回目。
三回目。
どれも上手い。
どれも崩れていない。
なのに、途中から自分で見ていて飽きる。
「……これじゃない」
声に出して言うと、そのつまらなさが余計にはっきりした。
カメラに抜かれた自分は綺麗だ。
強いし、隙もない。
でも、見ているうちに予想できてしまう。次の笑顔も、次の目線も、次の煽りも、“上手くいく形”に収まりすぎている。
こんなの、白須賀沙也加じゃない。
本当はもっと、わくわくするはずなのだ。
次に何をするか分かっているのに、それでも見ていたくなる。
綺麗なのに親しみやすくて、強いのに少しだけ危うくて、その全部が混ざって“この人から目が離せない”になる。
それができるから、自分はここまで来たはずだった。
「沙也加、まだいたの?」
振り返ると、マネージャーがドアのところに立っていた。
白須賀はモニターを止めずに、力なく笑う。
「ちょっと反省会です」
「どこがダメだった?」
「ダメっていうか……優等生でした」
「へえ」
マネージャーは隣の席へ座り、少しだけ映像を見る。
そして、二十秒もしないうちに白須賀と同じ結論へ辿り着いたらしい。
「あー。なるほど」
「ですよね」
「ちゃんと出来すぎてるね」
白須賀は思わず頭を抱えたくなった。
出来ているのに、出来ているだけじゃ足りない。アイドルという仕事の厄介さが、こういう時に一番濃く出る。
「どうしよう」
「どうもしないよ」
マネージャーはあっさり言った。
「沙也加が“正しくやろう”としすぎてるなら、どこかで一回壊すしかない」
「壊すって、そんな簡単に」
「簡単じゃないから、今からやるんでしょ」
そう言って立ち上がると、モニターの画面を切り替えた。
映し出されたのは、数年前のライブ映像だった。
まだ会場も今より小さくて、衣装も少し幼い。けれど、そこにいる白須賀は今よりずっと荒くて、今よりずっと自由だった。
笑うタイミングも、煽りも、全部が少しだけ予定調和からはみ出している。
でも、そのはみ出し方がちゃんと熱になっていて、客席を引っ張っている。
「……若い」
「そこ?」
「いや、ほんとに若いなって」
思わず笑う。
笑った瞬間、自分の肩から少しだけ力が抜けたのが分かった。
マネージャーはそのまま映像を進める。
「今の沙也加がこれをそのままやる必要はない。でも、“失敗しない白須賀沙也加”だけでドームをやるのはもったいないと思うよ」
その言葉が胸に残った。
失敗しないこと。
それは確かに武器だ。
でも、それだけで東京ドームを満たせるほど、単独公演は甘くないのだろう。
※ ※ ※
翌日から、白須賀は練習の仕方を少しだけ変えた。
最初の一時間は、あえてステージ通しをしない。
代わりに、その曲で自分が一番楽しかった瞬間をノートへ書き出す。何が嬉しかったのか、どこで客席が一番動いたのか、自分が思わず笑ってしまったのはどこだったのか。
歌詞の意味を読み直す。
ただ綺麗に歌うのではなく、その曲で誰に何を投げたいのかを、改めて言葉にする。
そして、ダンスの稽古でも一曲に一回だけ、“正解を外してもいい”テイクを作ることにした。
きっちりしすぎない。
少しだけ遊ぶ。
少しだけ感情を先に出す。
怖いけれど、そのズレの中にしか、自分の熱は戻ってこない気がした。
もちろん、すぐに上手くはいかなかった。
「今のは遊びすぎ」
「そこはちゃんと締めよう」
「でもさっきより面白い」
そんな会話が何度も繰り返される。
正確さを保ったまま、自分らしさを戻す。口で言うのは簡単だが、実際にはかなり繊細な作業だった。
夜、喉のケアをしながら鏡を見る。
疲れている。足も重い。食事の時間も前より不規則だ。学校へ行っていた頃のほうが、ある意味では楽だったのかもしれない。
でも、今の自分のほうが、少しだけ前へ進んでいる実感もあった。
「……絶対、届かせる」
誰もいないホテルの部屋で、白須賀は小さく言う。
トップアイドルだから。
国民的って呼ばれたいから。
もちろんそれもある。
でも、それだけじゃ足りない。
あの東京ドームの真ん中に立つ時、自分が自分のライブに一番わくわくしていなければ、多分何も始まらない。
怖いままでもいい。足りないと知っていてもいい。
それでも、自分で自分の光を信じて押し出せるところまで行かなければ、あの広さには勝てない。
ベッドサイドのテーブルには、使い込まれた歌詞ファイルと、書き込みだらけの構成ノート。
その横に、何気なく置いたスマホの画面が一瞬だけ光る。
学校のグループ連絡だった。
課題共有の通知。どうでもいいような、でも確かに日常だったもの。
白須賀はそれを少しだけ眺めて、それから静かに画面を伏せる。
今は戻れない。
でも、その代わりに失いたくないものもある。
教室。
屋上。
いつもの席。
そして、あのどこか鈍くて、でも妙に欲しい言葉だけは外さない男の子。
「見ててね、沢渡くん」
小さくそう呟いて、白須賀はもう一度ノートを開いた。
東京ドームまで、まだ時間はある。
短いようで、長い。
長いようで、多分すぐ終わる。
だから今日も、白須賀沙也加は眠る直前までペンを走らせる。
努力で届くところまでは努力で行く。
それが自分のやり方だと、もうとっくに知っているから。
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