プロローグ
誰かが言った。
――アイドルは、永遠で、不滅で、清廉潔白でなければならない。
けれど別の誰かは、鼻で笑うようにこう返した。
そんな存在が、今まで本当にいたのか、と。
たしかにその通りだ、と僕も思っていた。
永遠も不滅も、清廉潔白も。そんなものは舞台の照明が作る幻で、客席から見上げる者だけが信じられる都合のいい偶像だ。
人は生きている限り揺らぐし、迷うし、間違える。だったら、完璧なアイドルなんて最初から存在しない。
少なくとも、あの日までは。
※ ※ ※
「みんな、こんにちは! 白須賀沙也加です! 知ってる人も多いと思うけど、アイドルやってます。今日からよろしくね!」
その日、僕のクラスにやってきたのは、テレビの向こう側にいるはずの存在だった。
教室の空気が、一瞬で変わる。
ざわめきは波みたいに広がり、誰かの息を呑む音まで聞こえた気がした。無理もない。白須賀沙也加という名前は、芸能に疎い僕ですら知っている。
ここ数年で一気にスターダムを駆け上がった、現役最強格のトップアイドル。
整いすぎて非現実的にさえ見える顔立ち、作り物みたいに均整の取れたスタイル、それでいて笑えば一瞬で人を安心させる華がある。同性にも異性にも支持され、世代を問わず名前が通る。そんな人間が、本当にこの教室に立っていた。
白須賀は壇上の横で、慣れた所作で小さく手を振った。たったそれだけの仕草なのに、教室の温度が上がったように感じる。
人の視線を集めることに、彼女はあまりにも慣れすぎていた。
「じゃあ白須賀さんの席は……沢渡の隣だな」
担任が何気なく言って、教室のあちこちから微妙な空気が漏れた。
よりにもよって、僕の隣。
羨望、嫉妬、納得いかないという無言の圧力が、まとめて突き刺さってくる。まるで僕が何か悪いことをしたみたいだ。もちろん、した覚えはない。
彼女はそんな空気さえ気にした様子もなく、まっすぐ僕の机の横まで歩いてきた。
ふわり、と甘い香りがした。香水というより、シャンプーみたいな自然な匂いだった。
「よろしくね、沢渡くん」
目が合う。近い。近すぎる。
テレビ越しでは分からなかったけれど、この人は画面の中よりずっと人懐っこい顔で笑う。
「……ど、どうも」
情けない返事しかできなかった。
それでも彼女は気を悪くしたふうもなく、むしろ少しだけ楽しそうに目を細めた。
その笑みが、なぜだか妙に印象に残った。
※ ※ ※
昼休み。
僕はいつも通り、一人で屋上にいた。
別に気取っているわけじゃない。教室で机を寄せ合って食べる相手がいないだけだ。購買のパンと紙パックのコーヒーを持って、人の少ない場所に避難する。それが僕の日課だった。
屋上は風が強いし、ベンチは少し古いし、特別居心地がいいわけでもない。けれど少なくとも、無理に誰かの輪の外側を意識しなくて済む。
だから僕にとってここは、静かで都合のいい場所だった。
――この日までは。
「あ、いたいた」
屋上の扉が開く音と同時に、明るい声が飛んできた。
聞き覚えがありすぎるその声に、僕は反射的に顔を上げる。
逆光の中に立っていたのは、やっぱり白須賀沙也加だった。
春の風に長い髪を揺らしながら、彼女はまるで最初からここに来るつもりだったみたいに、迷いなくこちらへ歩いてくる。人気のない屋上に、その存在だけがひどく浮いて見えた。
「し、白須賀さん……? どうしたの、こんなところに」
「沢渡くんを探してたの」
あまりにあっさり言われて、思考が止まる。
探していた。僕を。
クラスの中心にいて、昼休みだって誰かに囲まれていそうな彼女が、わざわざ。
理解が追いつかないまま固まっていると、白須賀は僕の隣に腰を下ろした。ベンチが小さく軋む。距離が近い。逃げ場がない。
「教室にいなかったからさ。もしかして一人でどこか行っちゃうタイプかなって思って」
「……だいたい合ってる」
「やっぱり」
くすっと笑う声は軽い。けれど、僕の返答を当てられたことより、僕の行動を読まれていたことのほうに少しだけ落ち着かなさを覚えた。
屋上には僕ら以外、誰もいない。
金網の向こうで校庭の喧騒だけが遠く響いている。こんな場所で、国民的アイドルと二人きり。現実味がなさすぎて、変な夢でも見ているみたいだった。
「ねえ、沢渡くんって、いつも一人なの?」
悪気なく、けれど核心を外さない声音だった。
「まあ……そうだね。友達とご飯食べるタイプじゃないし」
「タイプじゃない、じゃなくて、いないんでしょ?」
「……う」
図星だった。
僕が言葉に詰まると、白須賀は意地悪く追及するでもなく、ただ面白そうに僕を見た。その目に見下した色はない。ないのに、変に逃げられない。
「友達、いないから」
結局、観念してそう答える。
口にしてしまうと情けなさが増して、僕はパンの袋に視線を落とした。こんなこと、わざわざ人気者に申告してどうするんだと思う。
すると彼女は、ほんの一拍だけ黙ったあとで、
「じゃあ、私が友達になろっか」
と、あまりにも軽く言った。
「……へ?」
思わず間の抜けた声が出た。
彼女はそれを気にした様子もなく、ベンチの背にもたれて空を見上げる。雲ひとつない青空だった。その横顔は広告みたいに綺麗で、こんな冗談めいた台詞さえ不思議と様になってしまう。
「いいじゃん。沢渡くん、面白いし」
「いや、どこが」
「反応が素直なところ。あと、変に媚びないところ」
「そんな立派なもんじゃないよ。ただ、どう接すればいいか分かってないだけで」
「それでもだよ」
即答だった。
白須賀は僕のほうへ向き直る。
さっきまで教室で見せていた営業用の笑顔とは少し違う、柔らかい表情だった。作っていない、というより、作る必要がない時の顔に見えた。
「私ね、肩書きで人を見るの、あんまり好きじゃないんだ。陰キャとか陽キャとか、人気あるとかないとか、そういうのって外から見たラベルでしかないでしょ」
風が吹いて、彼女の前髪が揺れた。
彼女はそれを指先で押さえながら、当たり前のことを話すみたいに続ける。
「人って、仲良くなってみないと分からないところがいっぱいあるし。趣味も、考え方も、得意なことも、案外ぜんぶ違う。だったら最初から切り分けちゃうの、もったいないなって思うんだ」
その言葉には、不思議なくらい説得力があった。
綺麗事のはずなのに、綺麗事として聞こえない。たぶん彼女は、こういう台詞を“正しく言える”人じゃなくて、“本気でそう思っているから言える”人なんだろう。
だからこそ、まぶしかった。
教室の中心で笑っていられる人間は、生まれつき別の生き物なのだと思っていた。けれど今、僕の隣にいる彼女は、少なくとも僕を最初から切り捨てるような人ではないらしい。
「……でも、僕みたいなのと関わって、白須賀さんに得あるの」
半分は自嘲で、半分は確認だった。
彼女ほどの人が、わざわざ僕に構う理由なんて思いつかない。
すると白須賀は、少しだけ目を丸くして、それからおかしそうに笑った。
「得って。沢渡くん、友達ってそういう計算で作るものだと思ってる?」
「少なくとも、君みたいな人は周りに困らないでしょ」
「そうだね。困らないよ」
肯定の仕方が妙にあっさりしていて、逆に刺さる。
けれど彼女はすぐ、言葉を継いだ。
「でも、“誰でもいい”わけじゃないもん」
その一言だけ、なぜか少し重く聞こえた。
僕が顔を上げると、白須賀は笑っていた。いつも通り、明るくて、親しみやすい笑顔。
なのに一瞬だけ、その目の奥に別の色が見えた気がした。気のせいだと思うには、妙に印象に残る何かが。
「どう? 沢渡くんさえ嫌じゃなければ、私と友達になってくれない?」
差し出された言葉は軽い。
けれど断った場合を、なぜかうまく想像できなかった。
彼女の瞳はきらきらしていて、期待に満ちていて、ただそれだけのはずなのに、僕の逃げ道だけを綺麗に塞いでくるみたいだった。
たぶん普通なら、ここは悩む場面だった。
相手はトップアイドル。住む世界が違いすぎる。関われば面倒が増えることくらい、少し考えれば分かる。
それでも僕は、その場の空気に押されるように、あるいは彼女のまっすぐさに絆されるように、口を開いていた。
「……なる」
一拍遅れて、自分がとんでもない返事をしたのだと理解する。
白須賀は、ぱっと花が開くみたいに笑った。
「ほんと? やった」
その声は心底うれしそうで、僕はますます断れなくなる。
ただの“友達になろう”にしては、少し大げさなくらいに。
けれどその時の僕は、まだ深く考えていなかった。
国民的アイドルに懐かれた、くらいの軽い認識でしかなかったし、それがどれだけ周囲の温度を変えるかも、彼女自身がどこまで本気だったのかも、何ひとつ分かっていなかった。
青空は、見えるぶんだけ高かった。
そしてたぶん、人の感情もまた、見えている範囲だけがすべてじゃない。
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