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>コマンド?  作者: オムライス
第九話
95/120

*10*




現実と夢の間にある苦痛という水面で、優は必死にもがいていた。


どれくらい溺れていただろうか。

大きな苦痛が浮力となって、優は呻き声を上げながら上半身を起こした。


流れ込む汗で歪む視界の中、強烈な疼きの源へと目の焦点を合わせる。何とか輪郭が重なってきた右足の太腿には、大きな傷がぱっくりと口を開けていた。濃緑色の軟膏がその穴を埋めるべく大量に塗ってあり、足の付け根には布がきつく巻かれている。混乱の跡が漂う処置の甲斐もなく、傷から流れ出る体液は川を作っていた。


優は苦痛に歯を食い縛る。こんなのは久しぶりだ。

激しくブレる右手を何とか胸元に運び、懐に乱暴に差し入れる。まさぐる指先に温かさを感じ、彼はその源を握りしめながらきつく両目を閉じた。


ツバキ、助けてくれ。


その祈りに応えるかのように、優の胸元から赤い光が漏れ出し始めた。熱源をつかむ右手から体の中へと温かさが流れ込み始め、それが苦痛を綺麗に溶かしていく。


表情を緩めながら深いため息をつき、懐に差し込んだままの右手をそっと開く。胸の上にペンダントが落ちるのを感じながら、彼は心の中でありがとうと念じた。





足を縛っていた布をほどき終えたあと、優はソファーに座り直して自分の太腿を見下ろしていた。軟膏がベトベトに塗られたままだが、傷は一つも残っていない。


人心地つくと、ようやく自分がどこにいるのか疑問に思い始める。


見渡した部屋は、二人住まいがちょうど良さそうな広さだ。

吊るされたランプの光で、すべてが暖かな色に明滅している。壁と天井は、大小の枝を隙間なく編み上げて作られていた。幾つかの丸い窓が嵌め殺しになっていて、そこに映る外の景色は既に夜だった。


調度品はテーブルと二人分の椅子、そして今座っているソファーが目についた。他は暗がりでよく見えない。床は細かな干し草で丁寧に編まれていて、踏むと羊毛のように柔らかかった。そこに優のズボンと、治療に使ったと思しき道具やツボが散乱している。


血だらけのズボンに足を通す気になれず、優は下着姿のままソファーから立ち上がった。


壁からランプを手に取り、部屋の中を歩き始める。

ここはリビングを兼ねた玄関のようだ。外に続いているらしい扉のほかに、もう一つ小さな扉がある。恐る恐るその前に立つと、ノブに手を置いてゆっくりと引く。


扉をくぐると、そこはまるでエルフやホビットの住む部屋だった。森の香りが鼻孔をくすぐる。木はもとより、草、花、ツタに苔など、あらゆる植物の素材で家具や壁が作られていた。その割にジメジメした感じはなく、むしろ温かで快適そうだ。


しかし残念な事に、部屋の中は少しばかり散らかっていた。優が中を歩くと、ランプは様々なものを照らし出していく。


使いっぱなしの素朴な糸巻き機と、転がっている毛糸玉。

低いテーブルの上には編みかけの子供服があり、その脇には何枚もの小さな肌着、手袋、靴下。

どれも凝った意匠で丁寧な造りだ。


壁際の作業机には、鮮やかな色の液体が入ったビンが並んでいた。近づいた優は、机の上に重ねて置かれているヨレヨレの紙を一枚拾い上げる。そこには大きく男の顔が描かれていた。上手くはないのに、モデルが誰なのかすぐに分かる。


自分だ。


水彩のタッチで描かれた不細工な顔は、明るく幸せそうな笑顔をこちらに向けている。小学生のような拙い筆致ではあったが、描く対象の良いところを一つも逃すまいという強い思いが伝わってくる。


食い入るように絵を見つめていた優は、玄関の扉が開く音で振り返った。慌ただしい足音が聞こえてくる。彼は紙を机に置くと、足を絡ませながら部屋を飛び出した。



枯れ葉や土まみれの翳が、トラを従えてそこに立っていた。



優の姿を見た彼女は、両腕に抱えていた大量の植物を全て床に落とした。

散らばる色鮮やかな草や葉、そして花の中心で、翳が震える声をかろうじて押し出す。


「・・・優さん、足は」


駆け寄ってきたトラの頭に手を置いた優は、笑みを浮かべて答えようとする。だが、何故か言葉が声にならない。

彼は何度か口を閉じたり開いたりと苦心した挙げ句、ようやく言う事ができた。


「・・・大丈夫だよ。心配かけて、ごめん」


それを聞くなり、翳はヘナヘナと床に崩れ落ちた。そのオレンジ色の瞳が潤んだと思った直後、彼女は森を揺るがすほどの大声で泣き始めた。





手渡されたガウンはぴったりな大きさで、優のために仕立てられたかのようだった。その着心地と肌触りに感嘆しつつ、優はテーブルの向こうに座る翳に視線を向けていた。


彼女は複雑な模様が編み込まれたローブを身に纏い、名実共に魔法使いのようだった。いつの間に懐いたのか、その足元にはトラが寝そべっている。


差し向いに座ったまま、二人は無言だ。


静まり返った室内に、森のざわめく音だけが響く。

翳は、目を腫らして俯いたまま動かない。その姿を眺める優の心は、久しく忘れていた平穏に満たされていた。


初めて出会った時も、こんな感じだった。

駅のハンバーガー屋で、どうしたらいいか分からずに固まっていた二人。


あれから四十年が過ぎた事が信じられない。今でも、全てが昨日の出来事のように思い出せる。そして、あの時の自分がどれほど幸せを感じていたのかも。

ずっとこうしていたい。どんな形でもいい、翳が近くに居てくれるだけで、こんなにも心が安らぎ、こんなにも嬉しい。


突然、翳が椅子を蹴って立ち上がった。そして部屋の一方へと歩く。


いずこからともなく、淡く白い光が翳の回りに漂いはじめた。その光に照らされて、かまどと棚が闇の中から浮かび上がる。


彼女はローブの袖をまくると、棚から次々と皿や食材を取り出していく。


しばらくすると、胃袋をギュウギュウに締め付ける香りが室内に漂い始めた。湯気の中で、翳は踊るように料理を続けている。その背中に見とれながら、優はこの時間が永遠に続けばいいのにと願った。





月は雲に隠れ、森は完全に闇に溶け込んでいる。

見渡す地平線の向こうに、うっすらと光が見える。ルダの街の灯りだ。


翳の家は、巨木の枝の間に建てられていた。子供時代に夢見た秘密基地のようだ。見晴らしは素晴らしく、月が出ていれば雲海のような森や広大な草原が眼下に広がっていた事だろう。今は暗い海の波音のように、葉がこすれ合うざわめきが響き渡るだけだ。


バルコニーの縁に、二人は並んで立っていた。トラは相変わらず翳の足元だ。


こうして冷たい風に吹かれていると、昔の事ばかりがやたらと浮かんでくる。展望台で、一緒に街の灯りを眺めた夜。抱き寄せた翳の体の温かさと共に、あの情景は今も全く色褪せていない。


翳はあの時、確かに言ってくれた。

うかつな事に、自分は未だそれに答えていない。


優は、少し離れた所で前を見つめ続ける翳に向き直る。そして大事な事を伝えるべく、その口を開こうとした。しかし。


「優さん」


翳の言葉が、それを寸前で遮った。


「私は、優さんが好き。自分の人生や命なんて、どうでもいいくらいに。だから、お願い」


彼女は優に向き直った。

闇の中で、その瞳だけが輝く。


「もう、ここには来ないで」


聞き間違いだと思いたかった。だが、その単純な内容に間違える余地など見当たらない。


急激に体が冷え始める。


優は言いたかった言葉を飲み込み、かわりに言いたくもない言葉を呆然と送り出す。


「・・・どうして」


答える翳の声は震えていた。


「私が手袋を投げたあの日から、優さんは、何度も、何度も辛い目に遭ってきた。私のせいで、かけがえのない大切な」


翳は胸を押さえながら言葉を飲み込む。

ようやく続けた声には、間違いようのない嗚咽が混じっていた。


「・・・大切な人まで失わせてしまった。その上、今日もまた、優さんを死なせてしまうところだった」


優は、先ほどまで自分を満たしていた幸せが、一気に身を凍らせる恐怖へと変わったのを感じた。


「なんでそうなるの、翳ちゃんのせいじゃないでしょ」

「私は、人と正しく向き合えない。だから、人を傷つける。だから、人を不幸にする」

「何言ってんの?!そんな訳ないだろ!!」


翳は無理やりに笑顔を作ろうとしているようだった。

彼女は作り物の明るい声を激しく震わせながら絞り出す。


「私はここから、優さんが生きている街を見ていたい。それだけで、いつも一緒にいられるから。私はここでずっと森を育てて、いつかこの星を緑で一杯にして・・・そして森を歩く優さんが、時々私を思い出してくれればいい」


優は胸をかきむしり、どうやったらこの思いを伝えられるのか、それを教えてほしいとあらゆるものに懇願した。


「いやだ!!」


思いの割には、あまりに貧弱な言葉だった。

だが、この叫びが全てだ。他に言うべき事などない。


「絶対にいやだ!!」


優は翳に詰め寄り、その両肩を強くつかんだ。そして顔を背ける彼女を激しく揺さぶりながら、更に叫ぶ。


「翳ちゃん、いつまでも僕と一緒に生きるって言ってくれ!!何がどうなってもいい、僕らにどんな事が起きたって関係ない!!僕を隣に置いてくれよ!!!」


そのまま、二人は動きを止めた。

翳の震えが手に伝わってくる。


風が吹き、雲が途切れる。月の光が明るく草原を照らし、森を照らし、そして二人を照らした。


翳は痛ましいほどの泣き顔をしていた。

その唇がかすかに動き、言葉を形づくりはじめる。


「さよ・・・」


その時だった。


雲が失せた空から、膨大な量の紫電が草原へと降り注いだ。

あたりは真紫色に明滅し、音圧だけで森が激しく揺さぶられる。


優はガウンの中に翳を抱き寄せ、その殺人的な音響と圧力に耐え続けた。



不意に、静寂が訪れた。



優は翳を抱いたまま顔を上げて、落雷のあった方角へと目を向けた。


「・・・翳ちゃん」


優はガウンを払い、顔を出した翳に前方を見るように促した。


広大な草原は、雷を受けて燃えていた。その焼け跡が、見紛えようのない文字を形作っている。



バ カ ヤ ロ ウ



大粒の涙をこぼしながら、優は笑い声を上げはじめた。


「・・・ツバキ」


翳も口元を両手で覆いながら、無数の輝きを瞳からあふれさせている。


遠雷が響いた。

優はきつく翳を抱き寄せ、そして翳もまた、彼の胸にその顔を埋めた。



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