*9*
パチパチと木の枝がはじけ、夜空へと火の粉が舞う。
漆黒の草原がざわめく中、優はトラと共に炎を前にして座っていた。
明滅する光の陰影が、半眼で虚空を見つめる優の時間を巻き戻している。
カップをこちらに差し出しながら笑いかけるアゴ。
保存食に悪態を吐く翔。
黙々と座るルダ。
記憶の中の彼らから、気配と息遣いさえ感じる。優は言い様のない温かさと懐かしさ、そして胸苦しさに顔を歪めた。揺れる光が滲んでいく。
優は顔を拭い、トラの柔らかな毛並みに体を沈める。そして剣をしっかりと抱き、風の音とトラの寝息を遠くに聞きながら目を閉じた。
*
枯れた草の上で、水滴が鈍く輝いている。
夜露にぐっしょりと濡れて目覚めた優は、トラの腹から顔を上げて大きなくしゃみをした。驚いて頭を起こしたトラに詫びを述べながら、ぼんやり顔であたりを見回す。頭上にかすかな青空が見える以外は、朝霧で何もかもが白い。
やがて手早く身支度を終えた一人と一匹は、真っ白な世界を歩き始めた。日が昇るにつれて霧は急激に薄くなり、彼らの行く手から退いていく。そこには深い森と、雪を頂く険しい山脈が横たわっていた。
枯れ草を踏みしめながら緩やかな斜面を登っていくと、だんだんとあたりに紅葉した木々が生い茂りはじめる。それから小一時間ばかり歩けば、周囲はもう森だ。
爽やかな香りを吸い込みながら、優は無数の色彩に染め上げられた木々を見上げる。
清浄という言葉がこれ以上なく似合う森だ。何度来ても、心が洗い清められるように感じる。
隣を歩くトラも上機嫌だ。いつもよりも弾む足取りで歩き、舞い落ちる枯れ葉に飛び付いて遊んでいる。
この世界に広くはびこっている危険な毒草や食肉植物は見当たらず、ひねくれた醜い低木も存在しない。まっすぐに並び立つ無数の広葉樹が秋の澄んだ空を力強く彩り、柔らかな苔が地面を瑞々しく覆っている。時折見かける細い川は幾万の輝きを帯びて心地よい音を反響させ、玉砂利や岩を洗い続ける。
ここが大好きだ。
主である彼女の心を形にした、この場所が。
だが皮肉な事に、この森は忌々しい場所でもある。
少しばかり開けた場所で立ち止まった優は、腰の剣に手を置いて緩んだ表情を改める。彼は胸一杯に空気を吸い込み、あらん限りの声を張り上げた。
「翳ちゃん!!」
鳥が飛び立つ音が、山々の間を反響して消えていく。返事を待つことなく、優はさらに叫ぶ。
「これが最後だ!!僕はもう二度と、ここには来ない!!」
山彦が消えるまでの間に、森のざわめきが急に途絶えた。
日が雲に隠れた訳でもないのに、あたりの空気が冷たくなっていく。
トラも変化を感じ取ったのだろう。毛を逆立て、うなり声を上げ始めた。
優は知っていた。ここは翳そのもの、彼女の心が生み出し、育てた森だ。今まで優しさと清浄さにあふれていた空気が、急激に刺々しさに満ちたものに変わっていく。その意味するところが物凄く恐ろしいが、優は敢えて強気に振舞っていた。
「朗報だろ?!もう僕を追い返す苦労をしなくて済むんだからさ!!」
鞘からスラリと刀身を抜き放ち、優は身構えた。
「だけど簡単には行かないぞ!!これが最後なんだ、僕は死ぬつもりでやる!!絶対に、君を連れて帰る!!」
再び息を吸い込み、これを最後と絶叫する。
「追い返したければ、殺す気でこい!!」
落ち葉を蹴って走り始める。
今から始まる戦いは、道具や人数を揃えれば何てことは無いものなんだろう。
だけどそれじゃ無意味だ。自分自身の力を全てぶつける事でしか、翳に気持ちを伝えることはできない。
始まった。前方の地面から鉄砲水のように大量の土砂が吹き出し、見る間に高さが三メートルはある人の形を作り出す。完成した十体以上の泥のゴーレムは、優の視界の中で見掛けによらない機敏な動きを見せはじめる。その姿はナミの土人形を思い起こさせた。
毎度の事なので、驚きはしない。
トラを従えて、優は高々と剣を振り上げた。その刀身が、木漏れ日を受けて一瞬だけ輝きを放つ。
超自然的な切れ味を失ってはいたものの、この古びた剣は既に優の肉体の一部に等しかった。つかみ掛かってきた人形の左足を斬り飛ばし、返す刀で倒れてくる胴体を両断する。ツバキの動きに少しでも近づくべく、優は何十年も剣を振り続けてきた。今や彼は、本人の知らぬ間に達人の域に差し掛かっていた。
背後から覆い被さってきたもう一体をトラが押し倒している間に、右側面からの敵に向かって剣を滑らせる。
つむじ風の如く剣を閃かせながら、優は泥の山を築きはじめた。
*
日は傾き、森の中は闇に満たされ始めている。
半日は頑張っただろうか。泥に刺した剣に体を預け、優は汚れた額に汗の川を作っていた。肺は裂けそうだし、足も痙攣を始める一歩手前という感じだ。
その隣で、トラもまた意気消沈していた。毛繕いする元気もなく、泥だらけのまま背を丸めている。数時間前の迫力は微塵も感じられない。
これが、この門前返しの辛いところだ。
殺意が感じられない泥人形が、文字通りの泥仕合を延々と仕掛けてくる。疲れ果てて泥に飲まれたあとは、森の外まで運ばれて終了だ。とにかく穏便にお帰り願いたいらしい。
突然出て行って山に籠ったかと思うと、こんな調子で三十年以上会ってすらくれない。
男女関係ってこんなに難しいものなのか?いくらなんでも難易度高すぎだろ。理由すら教えてくれないんだから、無理ゲーもいいとこだ。みんなどうやって凌いでんだ?
優はブツブツと呟きながら忌々しげに剣を引き抜き、袖で泥を拭ってから鞘に納める。
重い足をひきずって再び歩きだした彼は、荷物入れを肩から下ろして中をまさぐり始めた。取り出したのは、掌に収まる程の大きさの羅針盤だ。ここから先は未知の領域で、どこに向かうべきかすら分からない。この道具は翳の居場所を教えてくれるはずだった。例の風見鶏付きヘルメットの進化版といった所か。アレに比べればだいぶマシになったものだ。
盤の指す方向に足を動かす事だけに集中していると、隣を歩くトラが急に足を止めた。不審に思い顔を上げた優は、激しい衝撃に打たれて羅針盤を取り落としてしまう。
呆然としたまま、視線をさらに上へと向ける。そこにあるものに何度も目を疑うが、事実は変わらない。
夕陽を浴びてエメラルド色に輝くそれは、長く太い首をもたげているドラゴンだった。その知性に溢れる瞳が、朱色の空を背景にして枝越しにこちらを見下ろしている。
「ここから去りなさい」
見た目と相容れない可愛らしい声が、すこしばかり震えながらドラゴンから放たれる。その強大な音圧に髪を翻弄されながら、優は血が滲むほど強く唇を噛んだ。
こんなのを引っ張り出してくるなんて、どんだけ僕が嫌いなんだよ。
胸が深くえぐられる。
凍りつく心に反して、両目がどんどんと熱くなっていく。優は辛うじて涙を堪えると、剣を抜き払った。
それでも、僕は君に会いたい。
例え横顔でも構わない。
もう一度、翳ちゃんの顔が見たい。
悲嘆と絶望を押し殺して剣を振り上げる優に、ドラゴンは再び何事か話そうとしているかに見えた。だが、思い違いだろう。ぱっくりと割れた口からは言葉ではなく、濃密な白煙がほとばしり出てきたからだ。枯れ葉を強く踏んで打ち掛かる寸前だった優は、頭からまともに風圧を浴びて背後へと押し倒された。
何度も回転してようやく止まった真っ白な視界が、一瞬で黒に変わっていく。突然に襲ってきた激烈な眠気が意識を消し飛ばす寸前、優は剣の柄で自分の頭を力の限り殴り付けた。暗闇に星が散り、なんとか意識が繋がる。だが眠りへと引きずり込む重力は暴力的なまでの強さで、頭を殴った程度では焼け石に水もいいところだった。
以前の成功を体が覚えていたのか、優は殆ど無意識のうちに柄を逆手に持ち、自らの太腿あたりに剣の切っ先を突き刺していた。
不気味なほど、何も感じない。ならばと、彼は朦朧とした意識の中で考える。
もう一度!
もう一度!!
だが、体は何の痛みも、それどころか一切の感覚を伝えて来なかった。




