*13*
まるで体が泥になったようだ。
重い瞼を痙攣させながら持ち上げる。
ぼやけて薄暗い視界に、テントの天井が浮かび上がってきた。
見覚えがある。これはツバキのテントだ。
じゃあ僕はいま、ツバキと雪山で修行の真っ最中か。
言い知れない不安を感じた優は、まどろみを振り払うように顔をしかめながら、渾身の力で体を起こそうとする。その時右腕が何かに引っ張られ、優は視線を向けた。黄色いパジャマに包まれた細く白い腕が、優の体を離すまいとしているかのように絡み付いていた。視線で先を伝っていくと、そこには愛らしく、安らかな寝顔。
翳ちゃん。
優はたっぷりと十秒以上は固まった。
「お、目ぇ覚ましたか」
畳み掛けてくる更なる衝撃に短い悲鳴を上げ、優は声のした方へと慌てて振り返った。
テントの入り口から、プラスチック製の風呂桶を抱える浴衣姿のツバキが覗いていた。水の張られた桶の中にはタオルが揺れている。彼女はそれを下に置いてから平然とした表情で優の側までにじり寄り、すばやく彼の頭を両手で引き寄せた。
「おかえりだな、優」
圧倒されるほど美しい瞳が、息の掛かる距離にある。それがさらに近づいてきて、ピントを合わせることができずに視界がぼやけてしまう。
何が起こったのか、すぐには分からなかった。
滑らかな熱さと柔らかさに口をたっぷりと覆われて、痺れるような甘さが脳を貫く。
どれくらい続いたのか分からなかったが、唐突にそれは終わった。心地よい香りと共にゆっくりと体を離したツバキは、呆ける優の前で小さく艶やかな唇を軽く舐めた。
「これ、案外悪かねーな。どれもっかい・・・」
そう言いつつ再び体を寄せ始めたツバキの体が、砲撃を受けたかのように黄色い塊に吹き飛ばされて外へと転がっていった。桶がひっくり返って水が散乱し、テントが激しく波打つ。
「なな、何してんの!!」
物が転がる、倒れる、割れるけたたましい音のあとで、外から叫び声が響く。殺意が籠った怒声だった。翳の声だと一瞬分からなかった程だ。
「何って、おかえりの挨拶じゃねーか」
「欧米人なの?!ていうか、あんた優さんの事嫌ってたじゃない!」
「はぁ? いつの話だよ」
「ああもう・・・あああもう!!私が初めてになるハズだったのに!」
「あんなもん初めても二度目もねぇだろが。乙女かテメェは」
どうなってるんだ。
呆然とする優の足元でトラが頭をもたげ、気だるげに一鳴きする。振り返った優の脳裏に、その横顔を引き金にして無数の光景が生々しく甦りはじめた。
血の気が全身から引いていく。
ゲームマスターはどうなった!?
髪の毛を引っ張り合いながらガラクタの隙間に転がる二人は、突き破るようにテントを飛び出してきた優を見上げ、目を丸くした。
そこはバルルクタイルの宇宙にある大広間だった。所帯じみていた部屋の状況は更に悪化し、色んなガラクタで足の踏み場もない。寝る場所としてシミだらけのソファとテントが残るのみの、ゴミ捨て場所と見紛うばかりな無惨な有り様だった。
優は足元のガラクタをかき分けつつ、泣きそうな顔で二人に言う。
「ここはどこなんだ?!」
*
長い時間と試練を超えて再会したというのに、優には喜ぶ素振りすら無かった。
回廊を早足で歩く彼は、焦りで考えもまとまらない様子だった。翳もツバキも、彼に何か計り知れない事が起きた、あるいは起きている事を知っているため、それを責める気にはなれなかった。
半刻の後、三人と一匹は一つのドアを前にして立っていた。
その表面には、達筆な日本語でこう書かれている。
「小娘へ。
優ちゃんはこの先、一番上の階にいます。
優ちゃんをお願いします」
これを書いたのが誰なのか、すぐに分かった。
自分を優ちゃんなどと呼ぶ奴は一人しかいない。
だがどうやってアゴがこんな事を?
「・・・すぐに探しにいかないと。悪いけど、二人はさっきの所で待ってて」
逸る心を抑えることをできず、優はドアノブに手を伸ばし始めた。
「待てよ」
ツバキが、そこに自らの手を重ねる。
「慌てんな。今オレたちが居る場所は、時間の進み方が猛烈に速い。だからここで1日過ごそうが、このドアの先じゃさほど過ぎてないだろうさ」
翳が、優のボロボロの袖を軽く掴む。
「時間はたっぷりあります。まずは状況を知らないと」
「そうだぜ。こん先があぶねぇなら、慎重に動いたほうがいい」
筋の通った話だが、そんなもの全てかなぐり捨ててこの扉を開け放ってしまいたかった。だが、いつもこうして突っ込んでいき、回りを大変な目に遭わせてしまうのが自分だ。
優はしばらく葛藤していたが、ついに二人の真剣な目に負けて首を縦に振った。それを見た二人は、取り敢えずの安堵で小さく息をつく。
焦りを無理矢理に抑え込むと、腹が急激に空である事への不満を主張しはじめた。
「・・・なんか食べるものある?ずっとプラスチックみたいなものしか食べてなくてさ」
ツバキは顔を輝かせ、両腰に手を置いて薄い胸を張った。
「おう。俺が作ってやる。こいつさ、結局料理がうまくなんなくてよ」
ツバキに親指で差された翳の顔が、笑っているが笑っていない。
飯という言葉に反応したのか、トラが尻尾を真っすぐに立てて廊下を戻り始めた。
優は災難から逃げるように、そのあとを追った。




