*6*
その夜。
優はひとり、激しい動揺を抑えることに全身全霊を注いでいた。
動揺しすぎてそろそろ体力的に辛い。
そこは12畳の和室で、布団が二組並んで敷いてあった。優はその一つの上で、あぐらをかきながら体を揺すっていた。
廊下から軽やかな足音が響き、優は丸まった背中をピンと伸ばした。
背後でふすまが開き、ツバキの嬉しそうな声が響いた。
「デカい風呂最高だわ!」
ツバキに背中を向けながら、優は胸を押さえて冷や汗を流していた。その様子に気づかぬまま部屋に入ってきた彼女は、浴衣をひらめかせながらズカズカと歩いて自分の布団の上に座った。
優はそろそろと振り返った。
ツバキはあぐらをかいて満足げに目を閉じ、タオルで髪の毛を拭いている。まるで男がやるような、グシャグシャっとこする乱暴な拭き方だ。これでどうやってあんな綺麗な髪を保っていられるのか。
ツバキが目を閉じている隙に、その襟元を盗み見る。わずかに汗ばんだ細い首と鎖骨が見え、優は盗み見ておきながら慌てて視線を反らした。
「風呂スゲーだろ!温泉でおまけに源泉掛け流しだぜ!?まぁここにはアレしか長所がねーんだけどな」
優はツバキより先に風呂を頂いていた。たしかに良かったような気がする。ろくに覚えていないのは、ツバキと同室という事を知った時からずっとこんな調子であり、風呂の事なんぞ覚えている余裕がなかったからだ。
「だめだ・・・」
優が、息も絶え絶えにつぶやく。
アホな狂犬くらいに思っていたが、よく考えなくてもツバキは女の子であり、しかも黙っていれば非常に魅力的な女の子だ。今まで平気だったのは、その魅力に目を向ける気にならないほどツバキがアホだったからである。
一度意識してしまったら、密室で長時間一緒にいられる相手ではない。
ならば部屋を分けるしかないのだが、客間は一つしかなく、ほかに人が横たわれる部屋は居間と祖母の部屋だけだ。ツバキは何故か祖母と一緒に寝ることを嫌がった。どうせ明日から一緒に山籠りなんだから同室でもいいだろ、というツバキの言葉を飲んだのは、今となっては間違いだった。
「・・・ツバキ、ぼくは居間で寝たらだめかな」
「はあ?ここで寝りゃいいだろ」
「いやなんというか・・・」
ツバキは口ごもる優を怪訝な顔で見ていたが、やがて思い付いた事に顔を輝かせた。
「・・・さてはてめぇ、オレと同室で恥ずかしいんだな?!」
図星を指され、優は唇を噛んだ。
「なんだよ、おめーオレに興奮してんのかよ」
ツバキは優の前に物凄い速さで回り込み、ゲラゲラと笑いながら指差す。その浴衣は大きくはだけ、裾からは優美なカーブを描く長い足が丸出しになっている。優は目を何往復も泳がせた。
「オイオイ真っ赤じゃねーか!・・・優、オレが気付いてねーと思ってんだろうが、テメー俺をせいぜい犬ッころ程度に思ってただろぉ?!どうだ!これで思い知ったろうが!!」
犬どころか、アホな狂犬だと思っていた。
笑い声を浴びながら恥ずかしさを怒りに変換し、優は憤怒の表情で布団に体を滑り込ませた。
「・・・明日は早いんだから、早く寝るよ」
頭まですっぽりと布団に潜り込み、闇の中で煩悩を駆逐し始める。
だが、ツバキがそれを許さなかった。
「なんだよ、やせ我慢か?仕方ねーな、もっと見せてやるよ」
悩ましい声と共に衣擦れの音が聞こえ、優の脳裏に浴衣をはだけさせたツバキの姿が生々しく浮かぶ。
彼は布団の中で目を大きく見開き、うろ覚えの念仏を頭の中で唱え始めた。
「まだ意地張ってんのか」
すぐ近くで、衣擦れの音がもう一度聞こえた。
だめだ。これは無理だ。念仏も九九もまるで効果が無い。
赤熱するマグマの膨張を抑えきれず、心のなかで絶叫しながら優は布団を跳ね除けた。
彼は呆然とした。
すぐそこに居るはずのツバキは、離れたところで足を伸ばして座っていた。
伸ばした足が布団カバーを撫でている。衣擦れの音はこれだったようだ。
ツバキの顔には満面の笑みが浮かんでいる。当然ながら、浴衣には期待した乱れなど一切ない。
「やっぱ興味津々じゃねーか」
その言葉を聞く優の表情は、絶望のそれだった。
彼は静かに布団を手繰り寄せると、二枚貝のようにきつく頭に被せた。
*
疲れているのに眠れない。
外からは時折、竹が風に揺れてぶつかり合う乾いた音が聞こえてくる。
ツバキが寝返りを打つ気配を感じ、優は暗闇の中で視線を向けた。
なぜだか、ツバキもこちらを見ているのが分かる。
「お前、けっこう猫っ被りなんだな」
優がそう言うと、彼女が身じろぎしたのが伝わった。
「うるせー。誰の前でも素でいられっかよ」
「お前のはギャップがありすぎるんだよ」
廻や祖母の前でのツバキを思い出して優は含み笑いをもらしたが、彼女の怒りのオーラを感じて慌ててそれを引っ込めた。
しばらく会話が途絶えた。
時計の音がやけに大きく聞こえる。
「優、なんで急に強くなりたいとか言い出したんだよ」
沈黙を破り、ツバキがささやくように言った。
優はどう答えたものか考えた。
しばらく迷ったあと、恥ずかしくても、全部正直に話すべきだと思った。
ツバキがここまでしてくれている以上、うやむやにするのは違う気がする。
「・・・好きな子が居るんだ。その子の隣に、並んで立てる男になりたい」
沈黙が部屋に満ちた。
どれくらい時間が過ぎただろうか。
寝てしまったのかな、と思った優の耳に、ツバキの声がかすかに聞こえた。
「・・・いい子なんだろうな、きっと」
優は微笑んだ。
「うん。いい子だと思う」
それっきり、会話は途切れた。優はツバキのほうをじっと見ていたが、やがて布団を手繰り寄せると、長い息を吐いて目を閉じた。
*
朝目覚めると、隣にはツバキの姿が無かった。
優は目をこすりながらおきあがると、浴衣を脱いで着替え始めた。
階段を降りると、巨大なリュックサックに荷物を詰め込んでいるツバキの姿があった。
「おー優!おはようさん。さっさと準備すっぞ!お前はテントとシャベル、あとシュラフを運ぶ役だからな!」
異様に元気な彼女が指差す方向を見ると、筒状にまとめられたビニール製の荷物がいくつか置かれている。あれを運べということらしい。優はわかったと返事をすると、そばに置いてあったアルミ製の背負子に自分の荷物をくくりつけ始めた。
二人が老婆に別れを告げて出発したのは、それから1時間後だった。




