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田疇考察  作者: 田子 泰
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190~193年 田疇長安行  劉和考察を兼ねて

史書の【袁術】、無茶苦茶悪く書かれているんですよね。

【公孫瓚】もよく書かれているので、解釈しましょう。


今回は田疇伝、に見せかけた【劉和】考察です。


本作品は短編並びにカクヨムにも転載しています。

―――田疇考察 長安行―――

長安に行くことは別に。鮮卑の支配下を通り抜けた事を驚いている記録があるあたりも勇敢な行軍だった分、苦労もしたと不思議はない。

問題はどれだけ長安に滞在したのか、と言う事。


【田疇】は190年、【劉虞】に使者として送り出されて、長安に辿り着く。

その後帰還するも【劉虞】に会う事は出来なかった。


【劉虞】処刑の193年冬、三年半の長期任務、不自然なんですよね。長すぎる。

それを纏めていきます。



その空白を埋めるため、【劉虞】の息子侍中【劉和】を考察します。

【資治通鑑】の【劉和】関係の時系列はかなり微妙。ただし、行動は整理してくれてる。

時系列を整理する鍵は【孫堅】。



〇劉和の援軍請求

(【資治通鑑】初平二年(191年)十月)

【献帝】の侍中【劉和】は武関から出る。

途中の南陽の【袁術】に止められて、【袁術】から【劉虞】に援軍を要請する。

【劉虞】はそれに答えて数千騎を派兵。

【公孫瓚】は【公孫越】千騎を派兵。【袁術】陰謀が後付け理論なので不要。


※この地点で【袁術】と【袁紹】が敵対しているので、【劉虞】の軍、【公孫越】は【韓馥】・【劉岱】の支配地域を通り抜けたと推測。【劉岱】が192年に【公孫瓚】軍の援軍【范方】に脅される話があるので【劉岱】は【袁紹】【劉虞】に両属状態だったと思われる。【韓馥】も【袁術】に反発してたかどうかは微妙。


その後、【公孫越】が【陽城の戦い】で【孫堅】の救援のために【袁紹】軍【周昂】と戦い、負けて戦死して、【界橋の戦い】に繋がる。



この時、【田疇】は長安へ向かっているが、【劉和】の出立に【田疇】が間に合ってないのではないか。【資治通鑑】を書いた【司馬光】も何故、【劉和】は【田疇】と共に関を出なかったのかと記している。

(資治通鑑考異_若爾當令和與疇俱還,不應出武関_もし本当に【田疇】の到着を契機に【劉和】を出したのなら、【劉和】は【田疇】と一緒に帰るはずではないか。なぜ【劉和】だけ武関から出ているのか?)



〇【劉和】【田疇】の長安行推論まとめ


推測時系列で整理すると、

1.【劉虞】は【献帝】の忠誠を誓う使者として従事【田疇】従事【鮮于銀】を出発させる。(190年)

2.【献帝】が【劉虞】に洛陽帰還の援助を要請するため、侍中【劉和】を出発させる(190年10月)

3.【劉和】が【袁術】に保護されて【劉虞】に援軍要請をする。

4.【田疇】らが長安に到達、【献帝】に【劉虞】の意思を伝える。(191年)

5.【劉虞】に使者が到着。【劉虞】は【田疇】の任務が完了したと見て、【劉和】に向けて数千騎を派兵。話を聞いた【公孫瓚】は【劉虞】に戦功を取られる事を危険視し、【袁術】に恩を売るため弟【公孫越】千騎を派兵。(191年)

6.【劉虞】の出した数千騎、【公孫越】千騎が【劉和】【袁術】に合流する。(191年)

7.【公孫越】が【袁術】の援軍として【孫堅】軍に派遣。豫州を争う袁紹軍【周昂】と戦い戦死する。【陽城の戦い】(191年)

8.【公孫瓚】が【公孫越】の戦死から【袁紹】を明確に敵視。【界橋の戦い】に繋がる。【公孫範】渤海太守など。(191年)

9.【董卓】暗殺(192年4月23日)

10.【袁術】は西進しない。主力だった【孫堅】は南で【劉表】と戦い戦死。(192年5月)

11.動かない【袁術】に痺れを切らした【劉和】は勤王計画を起こそうとした【朱儁】【陶謙】に合流しようと脱出する。(192年)

12.【朱儁】は朝廷内部から動く事にして、【朱儁】中心の計画は崩壊。【劉和】は【袁術】の下に戻れないため、父の下に戻ろうとするも【袁紹】に捕まる。(193年)

13.【劉和】の計画が失敗した事を確認した【田疇】は【献帝】の返書を受け取り帰還する。帰りは間に会わない。(193年)

14.【劉虞】が【公孫瓚】に負けて処刑される(193年冬)

15.【劉和】は【鮮于輔】の要望で【袁紹】から帰還。【公孫瓚】との和睦によって動けない【袁紹】の代わりに【麹義】を私兵部隊として派遣する。(194年)




1.【劉虞】は【献帝】の忠誠を誓う使者として従事【田疇】従事【鮮于銀】を出発させる。(190年)


朔方など鮮卑地域を通るため、移動は遅い。この辺検討しようにも難しすぎるので省略。

まぁ、ここの大事な事は【劉虞】は【献帝】に臣従を誓いに向かっている事。



2.【献帝】が【劉虞】に洛陽帰還の援助を要請するため、侍中【劉和】を出発させる(190年10月)


【資治通鑑】の年表は瞬間移動している想定になるため、ここの劉和を1年早めてもいいぐらい。

【献帝】は洛陽に帰りたいから行動を起こす。【資治通鑑】だと上記【田疇】の到着有無を書いていない。

だからここは、【献帝】が自発的に動いた。


 <補足>

【献帝】から動いている事は 後に【劉璋】の【劉焉】への救出要請を出している(【劉璋】留め置きされる)事からも【劉和】の前例があっても不思議ではない。

後、【劉和】【劉璋】三兄弟はそれぞれ幽州牧【劉虞】益州牧【劉焉】の地方中央連絡役としても採用されていた側面はありそう。

だから私は【劉和】をボンボンと評価する。

【劉和】は【献帝】【劉虞】の威光だけしかないから。【献帝】への忠誠は多少あった、ぐらいしか読み取れない。



3.【劉和】が【袁術】に保護されて【劉虞】に援軍要請をする。


<<【劉和】は武関を脱出して南陽を通った。南陽太守の【袁術】に捕まる>>

「捕まる」??元々予定通りでしょ。

そもそも【劉和】が戦乱中の中原河北突っ切って幽州に行く方が非現実的。

【資治通鑑】著者【司馬光】も何故【田疇】が同行していない?と疑問視注釈をしているぐらい。

千キロをボンボンが走破出来るわけないだろ。

【劉和】は当時、反董卓連合において一番積極的に活動、洛陽を掃除中の【孫堅】を抱えた【袁術】を頼る。【献帝】は洛陽に帰りたいんだから、洛陽で戦う【袁術】【孫堅】を頼るのは至極当然。



4.【田疇】らが長安に到達、【献帝】に【劉虞】の意思を伝える。(191年)


4,5は入れ替わってもいい。

大事なのは【劉虞】【献帝】両方から連絡を取りに行った事。

【田疇】は後手になる。


だから【田疇】は【劉和】に同行出来ず、返答も【劉和】の行動の結果を待つことになる。

洛陽帰還が出来ず、進行中ですで返答を貰っても情けないよね?


【田疇】が【公孫瓚】に返書を渡さなかった理由、この時の返書なら見せても問題なさそうと言うのもある。


滞在が長くなるから【田疇】に【騎都尉】に推挙するが拒否する。田疇的には任務達成出来ていない感覚なのかもね。

【鮮于銀】は費用的な問題からかはわからないが【騎都尉】を受諾する。まぁ、長安滞在するとどうしても滞在費が必要だし。



5.【劉虞】に使者が到着。【劉虞】は【田疇】の任務が完了したと見て、【劉和】に向けて数千騎を派兵。話を聞いた【公孫瓚】は【劉虞】に戦功を取られる事を危険視し、【袁術】に恩を売るため弟【公孫越】千騎を派兵。



<<【袁術】が【劉虞】の軍勢を手に入れるために、【劉和】に手紙を書かせて援軍を要請させたところ、【劉虞】は数千の騎兵を派遣することに決めた。【公孫瓚】は【袁術】に二心ありと反対したが、【劉虞】の決心が変わらなかったため、自身も【袁術】の歓心を得るため、従弟の【公孫越】に千の騎兵を率いさせ、【劉虞】の軍に同行させた>>


この解説を一番歪ませる史書記録。AIと議論する上で一番AIの頭が固くなる場所。

【袁術】が二心ありと【公孫瓚】が言って引き留めた、何故?


【袁術】悪しで歴史が書かれているんだよ、後の僭称した男が悪だって。


3項でも書いたが、当時、一番反董卓連合で積極的に動いていたのは紛れもなく【袁術】【孫堅】。

【劉虞】は反董卓連合の諸侯、特に皇帝即位を促した【袁紹】を警戒しているのは【田疇】の動きからも読み取れる。


当時正当に動いて洛陽復興もしていた軍に援軍。

そりゃ【劉虞】も賛同する。


面白くないのは【劉虞】に武功を立てられると面目丸つぶれな【公孫瓚】だ。

軍事こそ自分の専門分野で【劉虞】の明確な苦手分野なのに、その苦手分野でも負けたら【公孫瓚】は立場崩壊である。

援軍を阻止しようとしたが、阻止できなかった。ならばどうするか。

自分が戦功を立てに行くしかない。従弟の【公孫越】に劉虞軍に負けるなと派遣する。


【袁術】の歓心を得るため?それもあるだろうけど、第一優先は【劉虞】に戦功で負けたくないから猛アピールする。そりゃそうだ。



閑話休題。

使者は幽州【劉虞】の下に到着。

【劉和】では走破不可能でも【袁術】軍ならばどうにかこうにか走りきれたのだろう。

伝令、早馬で15~20日程度。【資治通鑑】だと【孫堅】戦死までがこの191年に入るため、この移動は絶対に成立しない。


<補足>

【袁術】が伝令したのは【劉岱】の下だった節、これは否定していいかなと。

【程昱】伝より兗州刺史【劉岱】の下に【公孫瓚】配下【范方】以下2千騎がいたとある。ただし、【公孫範】が【袁紹】から渤海太守を譲られたのは【公孫越】戦死後。それまでは【公孫瓚】が南下出来たのかと言う疑問があるため、【劉岱】経由で【公孫瓚】【劉虞】に報告されたのは否定的。



6.【劉虞】の出した数千騎、【公孫越】千騎が【劉和】【袁術】に合流する。(191年)


劉和の第一目的【劉虞】からの戦力引き出しに成功。

これで後は【袁術】【孫堅】と共に【献帝】を救出するだけ。

【劉和】の目の前にはそんな未来があったのだろう。


ただ、ここに横やりを入れるクソ野郎がいる。【袁紹】だ。



7.【公孫越】が【袁術】の援軍として【孫堅】軍に派遣。豫州を争う袁紹軍【周昂】と戦い戦死する。【陽城の戦い】(191年)



【孫堅】を妨害するのもあるだろう、豫州刺史に【周昂】を動員。

豫州刺史として臨時の地盤にしていた【孫堅】の背後を脅かす。

他でもない【献帝】奪取の切り札である【孫堅】が倒れるとあっては計画倒れになる可能性もある。


大事な手駒を失う訳にもいかない【袁術】は【公孫越】を派遣する。

【劉和】だって否定はしないだろう。本当は【献帝】奪還のための兵だけど、その主力たる【孫堅】が弱ってしまっては困るのだから。ボンボンだから言葉巧みに乗せられた可能性は否定できない。


結果、【公孫越】は【周昂】との戦いで戦死する。



【劉和】の援軍が到着して、生きている【孫堅】の援護をした事。

AIはここで孫堅の生死は関係ないと主張してくる。あるわボケ。



8.【公孫瓚】が【公孫越】の戦死から【袁紹】を明確に敵視。【界橋の戦い】に繋がる。【公孫範】渤海太守など。(191年)


これが【袁紹】と【公孫瓚】の火種となるが、これは【劉和】の話。

あくまで時系列を確認するための戦い。

渤海太守の話はここ。その後、公孫瓚は青兗州に青州黄巾討伐に動く。

【劉岱】の援軍の話もこの時の話が自然。援軍撤退後に青州黄巾に殺されているし。



9.【董卓】暗殺(192年4月23日)


そして、【孫堅】の後方支援の最中【董卓】が死亡。

【呂布】【王允】によるもの。

正直、本題ではないので省略。

時系列確認。



10.【袁術】は西進しない。主力だった【孫堅】は南で【劉表】と戦い戦死。(192年5月)


【袁紹】は【劉表】と手を結び【袁術】を攻撃。その対応中【孫堅】は戦死してしまう。

【袁紹】の余計なちょっかいで【袁術】は全く動けない。


【孫堅】の戦死については191年から193年でぶれるが、192年5月を採用。



11.動かない【袁術】に痺れを切らした【劉和】は勤王計画を起こそうとした【朱儁】【陶謙】に合流しようと脱出する。


ここは完全に推測。

<<【劉和】は【袁術】から逃げ出した、北に行った>>。

ただ【袁術】から逃げた理由は何?となる。

【袁術】から逃げた理由はとなると【献帝】の救出意思がないと言う事。


【献帝】の救出意思、それが【孫堅】の存在ではないか?

【孫堅】戦死は【袁術】を見切る契機となったと見る。


逃げる先は北。北でも【南陽】の北。【中牟】。


【董卓】死後実は同時期に動いていた連合。

【董卓】から出奔した【朱儁】を中心にした【陶謙】【孔融】【応劭】【徐璆】【鄭玄】らが協力して【献帝】を救出しようとする計画が存在した。


【劉和】はどちらが【献帝】救出に頼りになるか。

それを判断した結果【劉和】は【袁術】を見限り、【朱儁】を頼る。



12.【朱儁】は朝廷内部から動く事にして、【朱儁】中心の計画は崩壊。【劉和】は【袁術】の下に戻れないため、洛陽付近に奪還勢力がいない事もあり、幽州にいる父の下に戻ろうとするも【袁紹】に捕まる。


<<【李傕】達は太尉【周忠】と尚書【賈詡】の計らいで【朱儁】を中央に招聘した。【朱儁】は天子の招聘を受けたら応じるのが臣下としての務めであること、また、【李傕】や【郭汜】達はつまらない人物であるから乗じる隙もあるだろうと考えそれに応じ、【陶謙】達と袂を分かち入朝した>>


【劉和】合流前後、既に中心となる【朱儁】が引き抜かれてしまい、連合が崩壊する。

【袁術】と喧嘩別れしたのもあったため、父【劉虞】を頼ろうとして北上中【袁紹】に捕まる。


保護??交渉材料でしょ??

ただ、交渉材料になる前に【劉虞】が死んだだけで。


13.【劉和】の計画が失敗した事を確認した【田疇】は【献帝】の返書を受け取り帰還する。帰りは間に会わない。


【朱儁】が来た事で【劉和】の失敗を悟った【田疇】。長安長期滞在も【劉和】の計画失敗を受けて【献帝】の返答を受ける。

【献帝】も次の手として【劉範】【劉誕】【劉璋】兄弟が動き始める。

【劉璋】が長安から益州へ向かうのもこの時期でしょう。



14.【劉虞】が【公孫瓚】に負けて処刑される(193年冬)


【献帝】から引きはがされたことで【献帝】の恩恵がなくなり、

【劉虞】も死んだことで【劉虞】の恩恵も半減。でも半分でもまだボンボンには使い道があったと。


死んだ【劉虞】>【劉和】って才能ぇ・・・。


15.【劉和】は【鮮于輔】の要望で【袁紹】から帰還。【公孫瓚】との和睦によって動けない【袁紹】の代わりに【麹義】を私兵部隊として派遣する。(194年)


【袁紹】が動けない理由が193年の和睦が原因。




【田疇】は長安に長期滞在をしており、任務を失敗したと思っている。

だから、官位受け取りを拒否し、返答を待って幽州に戻った。


ただ、田疇自身の任務としては献帝と劉虞の連携強化ではあるため、成功はしているのだが、本人がどう思うかは別だと思います。



史書考察において、邪魔なのは袁術悪人と公孫瓚主体。

後は年数が書いてあるとAIがアホほど引っ張られるので喧嘩する。


後、瞬間移動や並行処理をしたがるのでAIとはめっちゃ喧嘩しました。


195年以降の【劉和】については記載が消える事もあって考察不可能なので、ここまで。



劉和評価?

【献帝】に忠誠心があるが、能力のないボンボン。

【劉虞】死後ですら【劉虞】に頼る能力しかない平凡な人。妨害をする無能ではないが、有能でないのは否定しない。


劉和考察、

他にも【劉和】は宗室か属尽か?

【劉虞】は明確に宗室と記載されている。

属尽は王族離脱後5世代後とされている。

【劉虞】は【劉秀】>【劉彊】>【劉政】>□>【劉嘉(順帝時代|142年頃の光禄勲)】>【劉舒】>【劉虞】>【劉和】


劉嘉(順帝時代|142年頃の光禄勲)については

【『後漢書』百官志二の蔡質『漢儀』】より

「蔡質《漢儀》曰:正月旦,百官朝賀。光祿勳劉嘉、廷尉趙世各辭不能朝。高賜舉奏:『皆以被病篤困,空文武之位


【劉嘉】【趙世】はここでしか名前が出ないのですが、

また、光禄勲・廷尉が同時期に記録がない時期を調べると141,2年である事がわかる事、批判した【高賜】が永和年間(136年~141年)に南陽太守であったことから、この時期に【劉嘉】が老境であった事が推測できます。


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