田疇概要
ただの田疇伝。
武将紹介:田疇(子泰)
本貫:幽州右北平郡無終県(同郷武将:程普・魏攸)
生没年:169~214(46歳没|数え年)
魏の議郎。都亭侯(第20爵・列侯>第19爵関内侯|拒否)。
経歴:幽州従事(八品官相当)→騎都尉(五品官相当|拒否)→三公招聘(拒否)→下野(隠居)→司空戸曹掾(七品官相当)→蓨県令(六品官相当|赴任せず)→都亭侯(拒否)→議郎(七品官相当)
190年、22歳。
幽州牧【劉虞】に招聘されて幽州従事になる。
【劉虞】の使者として、従事【鮮于銀】と勇敢な食客20騎を連れて長安へと向かった。
西関(居庸関) → 北山 → 朔方 → 長安。
長安にて勅命によって騎都尉に任じられるも、【田疇】は天下騒乱の折りで天子も落ち着いていない情勢時に、自分だけ出世など出来ないとして固辞し、朝廷はその道義心に感心した。三公府から招聘されたが、これも全て辞退した。
返書を貰って幽州に帰還したが、【劉虞】は【公孫瓚】によって殺されてしまっていた。【田疇】は劉虞の墓に赴き、返書を読み上げて哭したが、その行為が【公孫瓚】の怒りを買って賞金首となり、捕らえられて殺されそうになるも、毅然とした態度で、幽州の人皆が敵になるぞと逆に脅して釈放される。
郷里に戻った【田疇】は、一族郎党数百人を全て引き連れ、徐無山に登って隠棲した。その人徳を慕って多くの人が集まり、数年のうちに家々が5000軒以上に膨れ上がった。
知識人も流れてきて、そのうちの一人が【邢顒】である。
指導者に推挙された【田疇】は、烏桓への復讐計画を表明し、皆からその同意を得て、法律や制度を二十数個整備し教育に力を入れた。やがて【田疇】の集落は北方地帯を服従させ、烏桓・鮮卑が使節を派遣して誼を通じようとする程の規模となった。その噂を聞きつけた【袁紹】や、その死後は子の【袁尚】が、何度も招聘して自陣営に【田疇】を引き込もうとしたが、全て固辞した。
207年、曹操が烏桓討伐の際、【田豫】を派遣して【田疇】を招聘した。【田疇】は即座に応じたので、部下が【袁紹】の時との違いを訝しんだが、【田疇】は笑って答えなかった。曹操の宿営地に到着すると司空戸曹掾に任命されたが、【田疇】と会見した【曹操】は「【田子泰」は吾の下役人としてよい男ではない」として撤回し、茂才に推挙して蓨県令に遥任した。烏桓討伐(白狼山の戦い)に随行し、道案内と計略によって討伐に大きく貢献した。その勲功によって亭侯の爵位を授けられるが、初志に反するとして固辞した。所轄の役人が、【田疇」の固辞する態度が頑なで道に外れているとして、免職とし刑罰を加えるよう【曹操】に進言したが、【曹操】は問題にしなかった。
その後、家族を引き連れて鄴に移り住んだ。しばらくして、かつて自分を招聘してくれた袁尚の首が鄴に届いたが、彼は禁令を犯して袁尚の遺骸を引き取り哭して弔った。その行為は本来死刑に値したが、曹操は彼の礼節心を嘉して、またもや問題にしなかった。
その後、荊州討伐から帰還した【曹操】は、【田疇】の先の功績が卓越していたのを思い出し、彼に爵位を与えなかったことを後悔した。【曹丕】【荀彧】【鍾繇】は【田疇】の意志を尊重するよう主張したが、【曹操】は諦めきれず、【田疇】の友人であった【夏侯惇】に、自分の名前は出さないように内示して、それとなく【田疇】を説得し爵位の件を受諾させるよう依頼した。内示を受けた【夏侯惇】は早速【田疇】宅に赴いて宿泊し、その帰り際に「【田疇】殿、このような事はあまり言いたくはござらぬが、主のご厚意を全く無視する訳には参りませぬぞ」と彼を諭した。しかし【田疇】は涙を流し「何という事をおっしゃるのか。私は本来世間から逃げ隠れした人間。今の立場でいられるのは僥倖に過ぎぬのです。故に徐無山の集落を売って爵位に替えるような真似は出来ませぬ。私を本来理解して下さっている筈の夏侯将軍ですら、そのような事を申されるか。かくなる上は、この首掻き切って命を捧げたいと存じます」と言って固辞した。【夏侯惇】がそれらをありのままに報告すると、【曹操】もついに【田疇】へ侯位を授けるのを諦め、議郎に任命することにした。
46歳で亡くなった。子供も早くに亡くなっていたという。【曹丕】が帝位に就くと、【田疇】の徳義を評価して【田続】を関内侯に封じ、後を継がせた。
陳寿評
「【田疇】の節義は、世俗を矯正するに充分である」
裴松之は【田疇】伝への注の中で、【田疇】が【袁尚】を哭して弔った行為について、【田疇】が烏桓討伐を手助けした結果、【袁尚】が捕まり殺されてしまったので「彼の哭した行為は偽善的である」と、批判している。
次からは考察集です。




