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白鷺の剣~ハクロノツルギ~  作者: 友崎沙咲
第三幕
8/14

岡田以蔵

◆◆◆◆


頭を動かすと、ザリッという音が耳元で聞こえた。

なんだか腕が下に引っ張られるような感覚に、思わず私は眉を寄せた。

いや、誰にも掴まれてない。けど腕がブラーンとして重い。

頭も痛い。瞼を閉じているにも関わらず、明るい日差しを感じて私はうっすらと眼を開けた。

……真っ青な空が見える。異常に近い距離に立派な枝も見える。……松の枝だ。

独特の針のような葉が懐かしい。

子供の頃遊んだよ。松の葉を使って引っ張り合って、割けなかった方が、勝ち……。

……というか、アイツ!あの、三流武神め。ここって、木の上じゃないのっ!なんでこんな場所に……クソッ。

私は舌打ちしながら手近の枝を掴み、そろりと少しずつ身を起こした。

……あれ、私……着物着てる……。


『俺からの心付けだ。受け取れ』


頭の中にミカヅチの声が響いた。


……着物をくれたのはありがたいけど、木の上ってのは……。

もういいや。ミカヅチは何というか、雑っぽいし。

私は息をついてから太い枝の上に立ち上がって辺りを見渡した。

……全然何処か分からない。すぐ近くに川が見える。水の色からして深いように感じる。

辺りをもっとよく見ようとして、私は少しだけ眼を細めた。

川の両岸には隙間なく建物が建っていて、多分色んな店が並んでいるのだと思う。

街中らしく行商人が行き交っていて、すぐ近くの道には露店商も多数見受けられた。

……賑わってる。なんというか商人が多くて活気があるけど、ここが何処なのかまるで解らない。けれど怯んでなんかいられない。止まってなんかいられないのだ。岡田以蔵を探さなきゃならない。

私は下を見て高さを確認すると、枝を持つ手に力を込めてから松の木を降りはじめた。


◆◆◆◆


多分だけど二時間ぐらい後……。


「じゃあ、今から働いてもらえるかい?!あんた異人じゃない割にはやけに髪が橙色だねえ。まあ遊女上がりでもないみたいだけど……酒の席の接客は出来るのかい」


私はニッコリと微笑んで目の前の太った女性を見つめた。


「播磨の方で一年間、御食事処で働いてました。料理も得意だし接客も大好きです」


嘘だけど。一日で白鷺に辞めさせられたけど。


「そうかい!ここは大坂だ。色んなところから様々な人間がやって来る街だよ。うちは料理屋だからね、粗そうのないように頼むよ。大きな声じゃ言えないけど……気が荒い浪士が最近多いんだ」


大坂って、私が知ってるあの『大阪』だよね?!岡田以蔵は今、大阪にいるの?私は女将さんにはい、と返事をしてタスキを受け取りながら考えを巡らした。

……気が荒い浪士。


「あの、女将さん、今って文久二年ですよね?」


女将さんは私を不思議そうに見た。


「そうさ、文久二年七月末だよ。あんた、二階の北側の部屋をお使いよ」

「ありがとうございます。お世話になります。あの、二階のお座敷を見せていただいてもいいですか?」

「ああ、構わないよ。二階の座敷は夜しか客を通さないからね、今は誰もいないよ」


……良かった、文久二年は最初に私が白鷺と出会った年だ。季節的にも合ってる。

私は二階の北側の部屋へと向かいながら、はめ殺しの窓の外を眺めた。

幅の広いこの川に架かる橋には沢山の人々が行き交っていて、その人々をよくよく見ると商人らしき人、観光客のような人、帯刀した武士のような人と様々だ。

私は少し唇を噛んだ。……どうやって岡田以蔵を探そう。やっぱり、店に来た客から情報を収集した方がいいかな。

何だか凄く嫌な予感がする。

私の喉元に懐剣をピタリと当てた岡田以蔵の、悲壮な顔を思い返した。


『それでも俺は……進まなきゃならないんだ』


彼の言う『進む』というのは……分かる。

彼は心から慕う武市半平太の為に人を斬るのだ。

でも、分からない。それはいつ?!どこで?!ああ、こんな事なら幕末大好き女子の堀北さんの話、真剣に聞いてりゃ良かった。

分かっているのは岡田以蔵が白鷺の日本刀『白鷺一翔』で、人を斬ろうとしている事だ。

そして今彼は恐らくこの大阪にいる。

大阪のどこに?焦りを感じてジワリと背中に汗が伝う。


「柚菜ちゃん、仕込み手伝ってもらえるかい?」

「はあい!」


私は一階から呼ぶ女将さんに返事を返しながら、手の汗を拭いた。


◆◆◆◆


その日の夜。

ボソボソと、一階の端の座敷から話し声がする。

店内は賑わっていて客も多かったけど、私は何故かその隅の座敷が気になって仕方なかった。

こんなにざわついた店内なのに、その一角から聞こえる声はボソボソとしたぐぐもった小声で、やたらと回りを気にしているようであった。


「女将、大事な話をするから障子は絶対閉めておいてくれ」


来店してきた際、二人の浪人風の男性は開口一番にそう言うと、頷いた女将に酒を注文して個室の中へと入ってしまった。

鋭い眼差しに、緊張ぎみの頬。ただ料理を食べに来ただけではない雰囲気。

……私のシックスセンスが何かを捉えた。捉えたというか、感じた。……彼らは似ているのだ、岡田以蔵に。


「女将さん。あのお座敷のお侍さん達、熱燗ですよね。私がお持ちします」

「ああ、頼んだよ」


私はお盆に熱燗を二本乗せると、次第に激しく脈打ち始める胸をなんとか押さえながら座敷に足を向けた。

何かを情報を得られるといいのだけど……。

私は出来るだけさりげなく、閉じられた障子に身を寄せた。


下横目(しもよこめ)の井上がまだしつこく嗅ぎ回ってる」


……聞こえる。


「武市さんからは、早々と決行するようにとの事だが……岡田と久松はどうした」


武市……岡田……。

つくづく歴史に疎い自分を呪ったけど、私は当たりクジをひいたような気分だった。

ビンゴな気がする。

彼らは土佐藩士で、同じ土佐出身の岡田以蔵と知り合いなんじゃないだろうか。武市という名も出たし。


「岡田ならほどなくして来るはずだ。久松とは昨日会ったが東洋殿の件を逆手に取り、井上を呼び出す算段を立てている」


なんの事だかイマイチ分からないけど…武市さんの指示で、井上とかいう人を呼び出そうとしてるって事だよね。

私は眉を寄せながらジッと障子の向こうの会話に集中した。

その時中から勢いよく障子を開けられ、私は驚いてガチャリとお銚子を鳴らした。


「す、すみません」


二人のうち、障子を開けた男性にグッと強い眼差しで見下ろされ、私は思わず頭を下げた。どうしよう、怪しいと思われたかも。


「……女、顔を上げろ」


ビクッとし、更に上がる心拍と手の汗。

落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ!何も知らないただの店の者だと思われるようにするには。私はゆっくりと顔をあげながらフワリと笑った。


「申し訳ありません。実はお酒のご注文を何処にお運びしていいのやら迷ってしまいまして……女将さんに聞き返して怒られるのが嫌で躊躇してしまいました。ごめんなさい」


私がそう言いながら男性を見つめると、彼は僅かに鋭い瞳を細めた。

口を開く代わりに、舐めるように私を見回す。ダメだ、怪しまれてるかも。


「……変わった髪色だな。髪も結ってないとは……何処の出だ?」


私はゴクリと鳴りそうになる喉を必死でこらえた。未来から来ましたなんて、とてもじゃないけど言えない。


「出身は播磨で、先月まで城で仕えておりました。父が姫路藩主のメチャクチャ遠縁で、そのコネ……じゃないつてで」

「播磨の城?姫路の?」

「はい」


もう、思いっきり嘘だけど。


「城での仕事は?」


う、嘘が嘘を呼ぶとは、正にこういう事だ。もう、どうにでもなれ!

私は半分ヤケになりながら、更にニコニコと笑った。


「城ではその、催し物の企画及び機材……じゃなかった、準備物の手配を統括しておりました」


なんだよ、それ。自分でも呆れたけど、二年間イベント会社でバイトした経験から、私は堂々と嘘をついた。もう話題を変えなきゃ。


「あの、お酒は二本でよろしいでしょうか」


私が微笑みながらそう言うと、男性はニヤリと笑った。


「変わった女だが、さほど怪しくもないようだ。もう行っていいぞ」

「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」


私は机にお酒を置くと、一杯だけ二人に酒をついで座敷を後にした。

はあー、緊張したーっ!

お盆を抱えるようにしてその場を離れると、私は思わず大きく息をついた。何とか上手くごまかせて良かった。この分じゃ今夜中に岡田以蔵と会えるかもしれない。もし会えたら潜伏場所を突き止めて刀を返してもらおう。

私は強く決心した。背中に流れる冷や汗を感じながら。


◆◆◆◆


結局、男性達が座敷を後にするまで岡田以蔵は現れなかった。

確かにあの座敷の男性達二人のうちの一人が、『以蔵ならほどなくして来る』っていってたのになぁ。聞き間違いだったのかな。

私がそう思いながら空いた皿を片付けていると、女将さんに声をかけられた。


「柚菜ちゃん、二階の座敷に酒と肴を運んでおくれ。南側のツツジの間だよ。間違えないでおくれ」

「はい、女将さん」


一階の端と端には二ヶ所の階段がある。


「ツツジの間はこっちの階段のが近いよ」

「はい」


私は女将さんから受け取ったお盆を手に、急な階段を慎重に上がった。

一階はやたらと明るいけど、二階はそんなには明るくなく、廊下には部屋の間隔毎に行灯が置かれていた。

部屋の名前が入り口の手前の柱に彫られていて、私はツツジの間を見付けると外から声をかけた。


「ツツジの間のお客様、お酒をお持ちしました」

「入れ」


すぐに返事が返ってきて、私は少し安心すると襖を開けた。


「失礼します」


行灯のそばに一人の男性が胡座をかいて座っていたけど、私はその男性を見て息を飲んだ。そんな私に男性が少し笑う。


「さっきはあまり話せなかったが」

「……はい」


彼はあの男性だった。

武市さんや以蔵さんの話をしていたあの二人のうちの、障子を勢いよく開けたあの男性だ。

六畳ほどの部屋に、小さな机と布団。なに、この人此処に泊まるの?てっきり帰ったと思ったのに。

私が驚いて見ていると、


「座って酒を注げ」


そう言って私の手からお盆を取り上げた。


手を引かれると男性のすぐそばに座らされて、私は取りあえずお銚子に手を伸ばした。


「柚菜というらしいな」


内心ギクリとしたが、私は男性を見て少し笑った。


「はい」


なんか嫌な予感がするんだけど。うす暗い部屋に男性と二人きり。

敷かれている一組の布団。

私は男性に一杯だけ酒を注ぐとフワリと微笑んだ。


「では、私は仕事がありますのでこれで失礼いたします」


一刻も早く、ここから出たい。


「待て」


立ち上がろうとした私の腕を男性が掴んだ。


「きゃあっ」


強く引かれてバランスを崩し、私は男性の胸の中へ強引に抱かれた。


「お前の仕事は俺の相手だ」


男性は私を至近距離から覗き込むとニヤリと笑った。


「ちょっと待ってっ!あの、私はそういうのじゃなくてっ」


焦る私をものともせず、男性は私を布団の上に組敷くと帯に手をかけた。


「女将は二つ返事だったぞ。ただ柚菜は上玉だから二倍の値だと言われたがな」


う、嘘でしょ、なにそれ?!


「あの、やだ、待ってっ」

「焦る顔がソソられるが……俺は待つ気はない」

「きゃああっ!」


そう言うや否や、男性は片手で私の両手を束ねて持つと、空いている手で着物を荒々しくはだけさせた。

そこに顔を埋められて、寒気が全身を包む。


「やだ、やだ、やめて」


どうしよう、どうしようっ!!

男性の力が強くてどうにも出来ない。


「柚菜、おとなしくしろ。すぐによくしてやるから……」


嫌だ怖い、こんなの嫌っ!


「お願い、やめて!」


やめてくれそうにないけど私はそう言うしかなくて、必至で声を張り上げた。

やだ、誰か、助けてっ!!

その時、パァン!と音を立てて襖が勢いよく開いた。


「誰だっ!?」


男性が気色ばみ、一瞬の隙をついて私は這い出るようにして彼から距離を取った。


「嫌がる女をどうにかするのが趣味とは……」


フッと笑ったその月のような目差しに、私は確かに見覚えがあった。

ああ、会えたんだ。

私の目の前の人は……岡田以蔵、正にその人だった。


「以蔵さん!」


以蔵さんは私を見つめて一瞬唇を引き結んだが、直ぐに男性に視線を止めて静かな声で言った。


「これは俺の馴染みの女だ。連れて帰る」

「以蔵の知り合いだったのか?!」


男性が信じられないと言った風に私と以蔵さんを交互に見つめた。


「ああ。播磨で知り合った」


男性がチッと舌打ちしたがそれを無視し、以蔵さんは部屋へ入ると私の腕を掴んで引っ張り上げた。


「行くぞ」

「は、はい」


がっしりとした手で私と手をつなぐと、以蔵さんは早足で歩き始めた。


「あれ、柚菜ちゃん?!」


女将さんが焦ったように私達を見た。


「あの女狐め」


階段を降り終えた私に女将さんが小走りで近づく。


「あのお侍さんはどうしたの」

「女将」


以蔵さんは私と女将さんの間に肩を割り込ませると低い声で言った。


「俺の女を貸し座敷に上げるとはどういう事だ」


女将さんが竦み上がる。


「そんな事、知りませんでしたよ。今日からうちで預かる事になった娘で……」

「連れて帰る。文句なら聞くが……」


言いながら以蔵さんは腰の刀をスルリと撫でた。

それを見た女将さんが息を飲んで口を開く。


「けっ、結構ですよ、柚菜、これは今日の払い分だよ」


私の手に何かを握らせると女将さんは脱兎のごとく店の奥に消えた。


「行くぞ」

「は、はいっ」


店を出て暫く歩くと、岡田さんは私の手を離した。


「じゃあな」


は?!

暗い橋の上で、私は焦った。こんなところで放り出されちゃ困る。かといって店には帰れない。


「私、以蔵さんを探しに来たんです。白鷺の刀を返してもらえるまでは傍を離れません!」


背を向けて立ち去ろうとしていた以蔵さんは、足を止めてこちらを振り返った。


「お前一人で俺を追いかけてきたのか」


私は頷いた。……ミカヅチに運んでもらったんだけど。


「白鷺一翔を返して」


瞬間、以蔵さんが眉間にシワを寄せて私を見据えたかと思うと、一気に距離を詰めて私の着物の首元を掴み上げた。


「いい加減に」


もう、一か八かだ。私は大きく息を吸い込むと力の限り叫んだ。


「きゃあーっ!!誰かーっ、このお侍さんが、私の胸をーっ」


たちまち橋の上で人々が立ち止まり、私達を見た。


「捕まえてくださいっ!」

「バカかっ!来い!」

「きゃああっ!」


手を繋がれたまますごい早さで走られて、私は転びそうになりながらも必死で以蔵さんに付いていった。多分騒いだ私を置き去りにして、素性がバレちゃまずいんだと思う。

大きな通りから狭い裏通りを抜け、私達は散々走った。


「以蔵さん、もう無理っ」


疲れすぎて息が上がり、足が絡まりそうになって私はギュッと眼を閉じた。その直後、以蔵さんが漸く足を止めた。

ハアハアと無言で荒い息を繰り返して、以蔵さんは私を睨んだ。

……メチャクチャ怒ってるし。


「入れ」


何処をどう走ったのかはまるで分からなかったけれど、以蔵さんは長屋のような家々が立ち並ぶ中、一つの細い戸口を開けて私にそう言った。

く、暗い。やだ、怖いんだけど。足下がまるで見えないし……。


「早く入れっ」


ドンッと背中を押されて焦り、私は思わず叫んだ。


「押さないでよっ!暗いんだから何かに躓いたら……」

「知るかっ!」


以蔵さんはかなり機嫌が悪いらしく、更に私の背中を突いて家の中へ入れた。


「見えないんだけどっ!以蔵さん、電気……じゃない、行灯つけて」


チッと以蔵さんの舌打ちが聞こえたけど、暫くすると少し部屋が明るくなった。思わずホッと息をつく。


「あー、怖かったあ!ありがとう」


そう言って眼をあげると、以蔵さんは実に恐ろしい眼で私を睨んだ。


「女」

「柚菜です」


更にムッとした以蔵さんは、額に玉のような汗を浮かべていた。そりゃ走ってきたから当たり前だけど……なんだか息もまだ荒い。

その時、以蔵さんの身体がグラッと傾いた。

咄嗟に彼の腕を掴むと、


「触るな」

「だ、だけど……」


私の手を振り払おうとした彼が再びよろけた。


「以蔵さん、危ない」


私は慌てて以蔵さんに抱きつくと背伸びをし、彼の額に手を当てた。嘘でしょ、どうしよう。凄い熱だ。


「以蔵さん、部屋に上がって!」

「やめろ、離せ……」

「ダメ!」


私は以蔵さんを引きずって部屋へあげると、無理矢理着物を掴んで床へ座らせた。


「布団持ってくるからね、待ってて」


そう言って彼の顔を覗き込むと、やはりびっしりと額に汗が浮いていた。部屋を見回すと、隅に折り畳まれた布団らしき物が見える。

私は急いでそれを運び、以蔵さんの傍に広げた。


「はい、ここに寝て」

「余計な事をするな」

「いいから」


私が少し乱暴に布団へ追いやると、眉間にシワを寄せながら荒い息をして、以蔵さんは布団へ力なく倒れた。私は以蔵さんの刀に手を伸ばしながらそんな彼を見つめた。


「刀、腰から全部抜くね」


瞬間、以蔵さんは私の身体を抱えるようにして布団の上へ組敷くと上から睨み付けた。


「刀を盗んだら……斬る」


ゾクッとする程冷たい眼差しだけど、それに負けちゃダメだと思いながら私は言葉を返した。


「大丈夫だから。そんな卑怯なことはしないわ。だから安心して」


私はそう言うと以蔵さんの瞳を見つめた。


「今は休んで」


私が言い終える前に、以蔵さんの身体が沈んだ。フワリと彼の髪が首筋にかかる。


「以蔵さん?」


ダメだ、高熱で朦朧としてるんだ。


「……寒い」


以蔵さんがポツリと呟いた。


「……待ってて、以蔵さん」


私は以蔵さんの下から這い出て起き上がると、彼の腰から刀を引き抜いて側に置いた。

それから布団を掛けると、持っていた手拭いで彼の額の汗を拭う。

夏の蒸し暑さも今の以蔵さんにはただ寒いだけらしく、ガタガタと震えている。ダメだ、こんな薄い掛け布団じゃ。

私は手拭いを土間の水瓶の水で濡らすとギュッと絞り、以蔵さんの額に置いた。

それから行灯を引き寄せ、以蔵さんの枕元に置くとその顔を覗き込む。

端正な顔が苦しげに歪んでいて、どうしていいものかと焦りだけが大きくなり、私は以蔵さんの手を握った。寒いからか手までがガタガタと震えている。


「まだ寒い……?」


無意識なのか、以蔵さんが眼を閉じたままコクンと頷いた。

ええい、仕方がない。いやらしいと思われるかもしれないけど、温めるのはこれしか思い浮かばない。


「以蔵さん、今から身体を温めるけど後で怒らないでね」


私は意を決すると以蔵さんの着物を腰まで脱がせた。


それから……今思い返しても死ぬほど恥ずかしいんだけど、私は着物を脱ぎ、自分の着物と布団を以蔵さんに掛けて、彼の隣に滑り込むとその身体を抱きしめた。


「明日になったらこの事は忘れてよね」


私は小さな声でそう言うと、裸の以蔵さんの背中を擦った。


ギュッと抱き付くとよほど寒いのか、以蔵さんは私の身体に手を回した。暫くそうして以蔵さんの身体を抱き締めていると、徐々に彼の呼吸が整ってきた。それに伴い、ガタガタと震えていた以蔵さんの身体が次第に落ち着いてきたような気がして、私はホッと息をついた。この分じゃ、夜が明ける頃には熱が下がるかも知れない。

私は以蔵さんの額から手拭いを取るとパタパタと風で冷し、折り返して再び彼の額に乗せた。

僅かに眉を寄せているものの、その表情も些かマシになってきたみたいだし。


「大丈夫だからね」


私は以蔵さんにそう話しかけると、彼を抱き締めて眼を閉じた。


◆◆◆◆◆


ん……?


……なんか風が顔にかかる。誰かに頭を撫でられてるし。そうかと思えばギュッと抱き締められるように身体が圧迫されて、私はうっすらと眼を開けた。


は?

あっ!!


「い、以蔵さんっ、大丈夫?!」


私の掠れた声に、以蔵さんがゆっくりと身体を離した。

途端に至近距離に以蔵さんの整った顔が現れ、私は息を飲んで彼を見つめた。

それから恐る恐る声をかける。


「……以蔵さん、あの……熱は?」


私は以蔵さんの額に手を置くと、ホッと息をついた。


「……下がってる。良かった!昨夜、ひどい高熱で」

「ふせった俺を脱がせて同じ布団に潜り込むとは……」


私の声を遮って以蔵さんはニヤリと笑うと、布団を片手で少し上げ、中を覗き込んだ。

ハッとして思わず私は布団を握りしめた。


「ちょっ、見ないでっ」

「もう見た」

「やだ、先に起きたならなんで着物着ないの?!」


私が焦ってそう言うと、以蔵さんは更にニヤッと笑った。


「お前が俺に抱き付いてるから、身動きが取れなかった」


……嘘だ、嘘に決まってる。

あの日、凄い力で私を白鷺の家の壁に押し付けたクセに。

私はニヤニヤ笑う以蔵さんの胸に腕を突っ張って距離を取ると、早口で言った。


「とにかく、病み上がりなんだからまだ寝てて」


言いながら意を決して起き上がると、布団の上の着物を掴んだ。


「こっち見ないでよね」

「フッ……!何を今更……」


言葉の途中で以蔵さんが口をつぐんだ。

着物を着終わり振り返ると、息を飲んで私を見つめている以蔵さんが眼に留まった。


「……なに?」

「刺青か?」


なんの事か分からず一瞬眉を寄せたけれど、私は直ぐに背中の事だと分かった。

ミカヅチに剣を押し当てられた私の背中を、以蔵さんは見たのだ。


「柚菜」


返事を催促するように以蔵さんは私を呼んだ。

実は私自身、自分の背中にどんな風にミカヅチの剣が描かれているのか知らない。ただあの時の、焼け付くような背中の痛みだけは今も鮮明に覚えている。

私はコクンと頷いた。


「何故だ?」

「……言っても信じてもらえない」


以蔵さんは唇を引き結んで私を見つめた。


「以蔵さん、まだ寝てなきゃダメよ。私、すぐ戻るから待ってて」


私は出来るだけ明るくそう言って土間に下り、引き戸を開けた。


◆◆◆


塩と卵と豆腐と川魚を買って戻ると、以蔵さんは少し驚いたように私を見た。


「言っとくけど盗んだんじゃないからね」


そう、これは昨日一日分の私の給料だ。


「塩と卵は二軒隣のお爺さんが分けてくれたし、豆腐は角が欠けた売れ残りを安くしてもらえたの。川魚は近所の親子連れがただでくれたしね、ラッキーでしょ」

「……ラッキー?」


聞きなれない言葉だったらしく、以蔵さんは眉を寄せた。


「幸運だったって意味。待ってて!今から朝ごはん作るから」


女将さんに返し損ねたタスキで袖を縛ると、以蔵さんは朝食が出来上がるまで何も言葉を発することはなかった。


◆◆◆◆◆◆


以蔵さんはものも言わずに私が作った朝食を食べた。

何故か鰹節だけがかまどの近くに放置されていたから、それを石で削いで出汁をとり、澄まし汁にしたんだけど以蔵さんはそれを私の分まで飲んだ。

頂きますも御馳走様も言ってもらえなかったけど、残されるよりはマシだと思った。


「……ここは誰の家ですか?食器もちゃんとあるし、とてもじゃないけど以蔵さんの家とは思えない」


私が部屋の中を見回しながらそう言うと、朝食を食べ終えた以蔵さんは素っ気なく答えた。


「誰の家か知らん。隣の爺さん曰く二日は帰ってないらしい」


なんですって?!


「それって、犯罪……」

「柚菜、こっち来い」

「……なに?」

「膝、貸せ」


半歩ほどの距離を膝で歩いて近付くと、以蔵さんは私を座らせて膝に頭をのせた。


「あの、以蔵さん……」

「……」


小さく私が名を呼ぶと、以蔵さんは私の手をギュッと握った。

え……?これって、なんで……?

ソッと顔を覗き込むと、以蔵さんは整った顔を私の膝に乗せて眼を閉じていた。

……もしかしたら、ずっと疲れていたのかも。だから熱が出ちゃったのかもしれない。


「あの……以蔵さん」

「…………」


返事はなかったけれど私は続けた。


「昨日は……助けてくれてありがとう」


あの時、以蔵さんがあのツツジの間に来てくれなかったら私はどうなっていたか分からない。押し倒されて着物の合わせ目を左右に開かれた時はゾッとした。


「…………」


以蔵さんは何も言わなかったけど、彼は私の手を握る指に少し力を込めた。だから私はそれが以蔵さんの返事だと納得することにした。


◆◆◆◆◆


「ねえ、以蔵さんったら」


いつまでも寝転がっている以蔵さんに、私は業を煮やして声をかけた。

相変わらず以蔵さんは私と話す気がないらしく、なにも言葉を発しない。けど、私の膝に頭を乗せたままだし、手も握ったまま。

……なんなんだ、これは。こんなの恋人同士みたいじゃん。そう思った瞬間、白鷺の顔が脳裏に浮かんだ。

白鷺は今頃どうしているのだろう。

あの人……粋に桔梗の着物を着こなしたあの美しい女性といるのだろうか。

……白鷺に会いたい。

思わず小さな溜め息が漏れた時、以蔵さんが低い声で私に問いかけた。


「お前は……西山白鷺とどういう関係なんだ」


心の中を見透かされているようなタイミングに、ドキンと鼓動が跳ねる。

けれど次に、グーッと胸が押し潰されるような苦しさを感じて私は眉を寄せた。


「……無関係」


以蔵さんはピクリと僅かに身体を揺らした。


「関係ない男のために、お前はこんなところまで俺を追ってきたのか」

「……うん。お金もないのに白鷺に剣を作って貰ったし、迷惑かけちゃったし、私に出来ることは何でもしたいの」


白鷺が好きかと尋ねられるかもと思ったけど、以蔵さんは何も言わなかった。


「……出掛けてくる。日暮れまでには帰るから家から出るなよ」

「なにそれ?自分の家じゃないくせに」


思わず突っ込みを入れてしまい、慌てて口をつぐんだけど、以蔵さんは一瞬眉をあげて私を見た後、僅かにムッとした。


「だ、だってそうじゃん」

「黙れ」


身を起こして私を正面から見ると、以蔵さんは握ったままの手を縮めて私を引き寄せた。


「きゃ」


トン、と額が以蔵さんの固い胸に当たったかと思うと、そのまま後頭部に手を回されてお互いが密着する。

男っぽい以蔵さんの身体と、フワリと漂う彼の香りに心臓が爆発しそうになり、私は身をよじった。


「あ、あの、以蔵さん」

「……待ってろ」


素早く私の頬に唇を寄せてそう言うと、以蔵さんは身を翻して家から出ていった。

なに、今の。

頬に残る以蔵さんの唇の感触。

何故かドキドキして仕方なかった。


◆◆◆◆


多分数時間後。

気が気じゃなかった。

以蔵さんが帰る迄の時間が恐ろしく長く感じて、私は落ち着きなく部屋を歩き回った。

だってここ、以蔵さんの家じゃないんだよ?不法侵入なんて、生涯を通して一回もやることないと思ってたのに……やってしまった。

こうしてる間に住人が帰ってきたらどうすりゃいいのよ。もうやだやだ、早く帰ってきて。

その時ガタンと戸口が鳴って、以蔵さんがユラリと姿を現した。ああ、やっと帰ってきた!


「以蔵さん……良かった」


私はホッとして以蔵さんに駆け寄ると、彼を見上げて息をついた。


「身体は大丈夫?」


すると彼は私の髪を撫でて屈むと、なんと額に口付けた。

へっ?!

私が驚いて見上げると、以蔵さんは少し決まり悪そうに咳払いをして、手に持っていた篭を私に手渡した。


「卵を茹でてくれ。今すぐ食いたい」

「あ、う、うん」


何だか気まずくて、私は小さく咳払いをすると炊事場へと足を向けた。

……悪い事をしているような気持ちになってしまう。

私は白鷺が好きなのに、白鷺以外の男の人とこんな風にひとつ屋根の下にいて。

しかも、他人の家に不法侵入だしな!


部屋に上がった以蔵さんをチラリと盗み見すると、私に背を向けて胡座をかき、何やら半紙みたいな薄い紙を広げて眼を通しているところだった。

今夜、お願いしてみよう。白鷺の刀『白鷺一翔』を返してって。


◆◆◆◆


「お注ぎします」


私がそう言いながらお酒を手に取ると、以蔵さんは静かに私を見つめた。日がすっかり落ちて、行灯の炎が頼りなく揺れている。

そんな中、以蔵さんは私を見て一瞬唇を引き結び、腕を伸ばして杯を差し出した。それから溜め息と共に私に告げる。


「……刀は渡さない」


……うっ……先読みされた挙げ句、拒否されたし。

静かにそう言って杯を傾けた以蔵さんは、私から視線をそらした。


「お前は……もうすぐ今の幕府が終わり、俺は新しい時代を見ることなく命を落とすと言ったな」


ギクリとした。


「そ、れは……」


どうしよう。白鷺一翔を奪われそうになって、この人が幕末の人斬りだと予感した時、私は確かにそう言ってしまった。


「……無責任なことを言ってごめんなさい。あれは……嘘です。ただ、自分を大切にして欲しいのは本当で……」


その時ガタンと激しい物音が響き、私は驚いて戸口を振り返った。

見るとそこには二人の男性が刀を抜いて立っていて、彼らはこちらを睨み付けて言い放った。


「土佐勤王党の岡田以蔵か?!」


既に立ち上がり、白鷺一翔を抜き放った以蔵さんは、グイッと手の甲で唇を拭ってから答えた。


「だったらなんだ」

「死んでもらうっ!」


二人のうちの一人が叫び、以蔵さんが私を背中にかばった。月のような冷たい眼差しが、一瞬だけ温かく私を捉える。


「心配するな」


それから男達に向き直り、低い声で告げる。


「わざわざ死にに来るとは……ご苦労だな」

「死ねっ!」


ザザッと土を滑る草履の音がしたかと思うと、二人の男が一斉に刀の切っ先をこちらに向けて走り込んできた。


「きゃああっ」

「遅い!」


勝負は一瞬だった。以蔵さんに無駄な動きは一切なく、ただ十字を描くように二度、刀を振っただけだった。

襲ってきた男性達は、土間にペタンと座り込んでいる。


「……なんだ?」


二人のうちひとりの男性は、そう呟きながら不思議そうに自分の身体を見下ろした。

その直後、眉間から一筋血が流れて、男性がまさかと言った風に笑った。

嘘……嘘でしょ?!


「きゃああ!」

「柚菜、見るな」


以蔵さんは焦ったように私を胸に抱いたけど、遅かった。

見てしまったのだ、私は。白鷺一翔の恐ろしさを。

ゆっくりと立ち上がった男性の身体が、真っ二つに分かれた。

斬られたところが分かれているのに、それに彼自身気付いておらず、立ち上がったのだ。

ようやく異変に気づいた男性が叫びながら倒れ、私はその音に身体が震えた。

もう一人の男性も同様に、立ち上がろうとした途端上半身だけが土間に転がり悲鳴をあげた。


「柚菜、ここを出るぞ」


早口でそう言って懐紙を取りだし白鷺一翔を拭くと、以蔵さんは眼を見開いた。


「な、んで」


思わず私は手で口をおおった。懐紙に血がついてない。行灯のあかりで白鷺一翔を見つめるも、一滴の血すら付いてはいなかったのだ。


「……以蔵さん……!」


その途端、白鷺一翔が青白く光った。


「以蔵さん、白鷺一翔が……」


以蔵さんは白鷺一翔を鞘に納めると、私の手を引いた。


「行くぞ。ここはもうダメだ」


このときの私は、まるでテレビの時代劇の中に入り込んでしまった気分で、目の前で人が死んだという事実が信じられず、ただ以蔵さんについていくしかなかった。



◆◆◆◆◆



「そろそろ行くぞ」

「……うん」


薄い板の壁の隙間から夕陽が糸のように差し込み、私はゆっくりと身を起こした。今日は何日なんだろう。確か私が大阪に来た日、女将さんは七月の末だと言った。

仮にあの日が三十日だったとしたら、今日は八月一日だということになる。

昨日は襲ってきた二人組を以蔵さんが斬って、私達は逃げた。

夜通し歩き回り、朝方に漸く空き家を見つけると、私たちはそのまま眠った。


「飯を食いに行くぞ」


以蔵さんはそう言うと帯を締め直して腰に刀を差し、私を斜めから見下ろした。


「……うん……」


一番近い食事処に入ると、以蔵さんは適当に食べ物を注文した。

暫くして運ばれてきた海苔の巻かれていないおにぎりを見つめていると、


「刀は返す」


私を見ずに以蔵さんはそう言って酒を注いだ。


「本当……?!」


私たち二人を照らしている小さな行灯の炎が細かく揺れた。

驚いて眼を見張る私に、以蔵さんは軽く頷いて続ける。


「ああ。白鷺一翔は殺しに不向きだ」


私は昨日の情景を思い返してゴクリと喉を鳴らした。……確かにそうかもしれない。あの男の人達はまるで、自分が斬られた事に気付いていないようだった。

早く相手を仕留めたい暗殺者にとって、確かに白鷺一翔は不向きかも知れない。


「だからお前はもう帰れ」


思わず私は以蔵さんを見つめた。


「だけど」


その先の言葉が言えない私を、以蔵さんが涼しげな眼で見た。


「俺は、どうしてもやらなきゃならないんだ」


冷たい月のような瞳には揺るがない決心が宿っていて、私はどうしていいか分からずに首を横に振った。

本当はもう一度言いたい。

土佐勤王党の党首、あなたが盲信している武市半平太は、あなたをただの殺人の道具にしてるだけ。

いずれあなたは捕らえられ拷問されて、武市半平太には見限られて捨てられる。

程なくしてやってくる明治維新を見ることなく、あなたは死んでしまう。


『君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後は澄み渡るべき』


こんな悲しい句を詠んで、あなたは死んでしまうのに。

その時、以蔵さんがクスリと笑った。


「そんな顔するな」


以蔵さんは箸を手に取って魚の身をほぐすと、私の口の前にかざした。


「美味いか?」


私がコクンと頷くと唇だけで笑い、彼は杯を傾けた。


「お前と食事をするのはこれが最後だ。沢山食え」


私にそう言うと、以蔵さんは浅く笑った。


「嫌だよ」


思わず拒否する言葉が口を突いて出て、私は以蔵さんを見つめた。湧き上がる涙を止めることが出来ない。


「嫌だよ以蔵さん、サヨナラなんて嫌。お願いだから人斬りなんて止めて。あなたの信念を否定したくないけど、でも間違ってる。あなたにこんな生き方、して欲しくないの」


古びた机は私の涙を飽きることなく吸い込み、私はそれに答えるかのようにハラハラと泣いた。


「以蔵さん……ねえ以蔵さん」


以蔵さんが苦しげに眉を寄せて顔を背けた。


「俺は……こういう生き方しか出来ない」


私はガタンと席をたつと机を回り、以蔵さんの真横の椅子に腰を下ろした。

驚いた顔で以蔵さんは私を見たけど、私は言葉を止められなかった。


「また叩かれるかも知れないけど、言わずにはいられない。以蔵さん、武市さんに恩があるのは分かるけど、あなたに人を殺させる武市さんはとてもじゃないけど」


その時突然、以蔵さんが荒々しく私の肩を抱いた。


「柚菜、これ以上泣くな。俺を止めるな。俺は……勘違いしそうになる」


次の瞬間、以蔵さんの唇が触れた。

私の唇に。

最初は優しく、それから唇を割るように深く口付けられて、私は眼を見開いた。

その直後、なにか苦い液体が口の中に広がり、私は顔をしかめて身をよじった。

けれど以蔵さんは私を抱き寄せたまま斜めに頬を傾けて強く口付け、鼻を塞いだ。

苦しくて思わずゴクリと喉が動く。

以蔵さんは苦い液体を私に飲ませ終わると、ゆっくりと顔を離して私を見つめた。


「い、以蔵さん……今のはなに……?」


徐々に身体が熱くなり、頭がボーッとしてきて私は夢中で以蔵さんを見上げた。


「少しの間、眠くなるだけだ」

「嫌だ、以蔵さん」


以蔵さんは悲しそうに笑った。


「……もっと早く出逢いたかった、お前と」

「以蔵さ……」


ろれつが回らなくなり、私は以蔵さんを止めたくて必死でしがみつこうとした。

以蔵さんはそんな私を抱き締めると再び口付けてから頬を寄せた。


「柚菜、白鷺一翔は返す。俺の分まで幸せになれ」


ああ、ダメだ、身体が……。


「柚菜、さらばだ」


以蔵さんの唇と、逞しい腕の感触だけが最後に残った。

真っ暗な空間に落ちていくように、私は意識が遠くなっていくのを感じながら重い腕を必死に上げた。


「以蔵さん……」


身体が言うことを聞かず、眠気が波のように押し寄せる。

何も分からなくなり、私はとうとう眼を閉じた。

彼が去っていくのを止められない私は、あまりにも無力だった。

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