16.ゴエティア
そんなミーティアの肩を、マルキリスが相変わらず楽しそうな笑顔でポンと叩く。リラックスさせようとしているのかただの地なのか、彼はだいたいにおいて笑顔を崩さない。こんなときでも笑うのかとあきれることもあるが、実際ミーティアの気持ちを軽くしてくれることがあるのも事実で、今などはまさにそうだった。
顔をあげたミーティアの肩をもう一度なだめるように叩いたマルキリスはリベルトへと合図を送る。
リベルトはミーティアにはわからない言葉を呟きながら、指先を使って一筆で宙に四角形を描いた。
「何を……?」
既視感を覚えつつ思わず呟いてしまったミーティアの問いを受けて、リベルトは一瞬だけミーティアに顔を向けた。あまり表情をあらわにしないリベルトにしては珍しくいかにもなにかを企んでいますと宣言しているような笑み。楽しくてたまらないのか、やけに瞳が輝いているようにさえ見える。
リベルトはすぐに顔を戻すと、宙に描いた不可視の四角形をあたかもそこに何かがあるかのように無造作につかんだ。そしてそのまま手元に引き寄せる。
そうして顔の横に掲げられた手には、いつの間にか一冊の本。ちょうど宙に描いた四角形と同じ大きさの本だった。
ミーティアはそれを薄く口を開けたままぼんやりと見つめていた。
そんなミーティアの態度はリベルトの予想通りだったようで、彼は満足そうに口元を緩ませた。そしてそれはマルキリスも同じだった。
「どうしたんだミーティアちゃん?」
どう反応していいのか判じかねているのだとわかっていながらマルキリスはにやにやと笑いながらそんなことを言う。
「魔法魔術で別空間に隠しているものを取り出せるのはヴォルだけじゃないんだぜ」
実際に取り出したのはリベルトなのだが、マルキリスは我がことのように胸を張って親指を立てた。
「しかもリベルトのやり方のほうがかっこいいだろう?」
なにを張り合っているのか。項垂れ、ため息をこぼすミーティア。肩までがっくりと落として背後には哀愁が漂いまくっている。なんとも言えない虚脱感に襲われたミーティアに対して、リベルトもくすりと笑った。
「せっかくの好意をふいにするつもりか?」
「好意?」
胡散臭い、と顔に書いたミーティアがリベルトとマルキリスを見返す。さきほど断った『復元された予言書』を再び持ち出してきてなにを言おうとしているのか。
「そう、好意だ。――この本は『ゴエティア』。『グリモワール』の一つで『レメゲトン』もしくは『ソロモン王の小さき鍵』の第一書とも呼ばれている魔術書だからな」
どうやらパッと見は同じような本だったが実はまったく別のものだったようだ。どちらも暗い闇色の表紙に装飾文字で題名らしきものと文様らしきものが書かれていたのであろうが、すれてしまってわずかにそうした形跡を残すのみとなっている。大きさも厚みもほぼ同程度の本を、今回初めて表紙をちらっと目にしただけのミーティアでは当然見分けることなどできるはずもなかった。
改めてそのゴエティアを眺めてみる。
『グリモワール』とは悪魔・精霊・天使などを呼び出して願い事を叶えさせるための手順を記した魔術書である。そのグリモワールの中の一つで、ソロモン七十二柱の悪魔を使役するために必要な護符を含めたすべての手順がゴエティアには記されている。
掲げている本を注目させるように軽く振るとリベルトは目を細めた。
「これがあれば誰でも悪魔を使って願いを叶えることができる。どの悪魔を呼び出せばその願いを叶えることができるのか。実際にどうすれば呼び出すことができるのか。そういったことがすべて書かれている。読んで書かれた通りに実行するだけ。ただそれだけのことだ」
欲しくないか?
軽く首を傾げたリベルトからそう問いかけられた気がした。いや、実際に問うているつもりなのだろう。
嫌々『勇者』なんてことをしなくとも悪魔に願えばいい。ことは簡単に解決。勇者から開放されてそこから訪れる自由を満喫すればいい。ただそれだけ。
返事を促すようにリベルトが再度魔術書を小さく左右に振った。
目を伏せて軽く息を吐き出したミーティアはやや俯きぎみに顔を伏せて首を横に数回振った。
瞬きに紛らすようにほんのわずかに瞑目したリベルトとマルキリス。その様子は下を向いていたミーティアにはどちらにしても見ることができなかったし、見えていても気づくことはなかっただろう。それほどに短い時間だった。
「ええ!? ほんとにいらないのか? これさえあれば怖い思いも痛い思いもしなくて済むんだぜ? ほんとーにいいのか?」
詰め寄ってくるマルキリスに気圧されるように上体をのけぞらせたミーティアは、それでも表示した意思を撤回することはなかった。
「理由は?」
興味深げに尋ねるリベルトに対してミーティアはちょっとだけ躊躇したものの、乾いた唇を湿らせるように一度舐めてから口を開いた。
「だって……。悪魔と契約するということは引き換えに魂を捧げないといけないのでしょう? それは苦しみが永遠に続くってことですし、それじゃ意味がないです」
「このゴエティアに書かれているとおりにすれば魂と引き換えにしなくても願いを叶えることができるとしても?」
このゴエティアを欲しがる人間が多いのはそうしたリスクの回避の仕方すら丁寧に解説されているからだ。どう対処したとしても魂を差し出さなくてはならない悪魔ももちろんいるが、そういう悪魔はきちんと注意事項にはっきりとその旨を記載されているので呼び出さないようにすればいいだけだ。それでもいらないというのだろうか。
そうしたリベルトの補足説明を聞いたあともミーティアはどうしても受け取る気にはなれなかった。なにかに押さえつけられたかのように腕が上がらず挙手ができないといった状態に近いかもしれない。
気持ちが向かわないわけではないのに欲しいとはまったく思わない。思えない。
こんな歯がゆい思いを経験するのは初めてだったミーティアは困ったように顔をしかめた。
「私にも理由はわかりません。でも……どうしても体が受け取ろうとしない。なにかわからないものがだめだと、そう言っているようで……」
そこまで言ってミーティアは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「ごめんなさい。せっかく言ってくれたのに。私にもほんとなぜだかわからないけど……でも受け取ることはできません」
そしてミーティアはもう一度二人に向かって頭を下げた。
二人はそうかといってとりあえず引き下がるそぶりを見せた。マルキリスが椅子の背もたれに体を投げ出すようにして伸びをする。
「まあいらないっていうもんを無理やり押し付けてもせっかくのゴエティアが無駄になるだけだしな。ほかに必要としているやつに譲ることにするよ」
その言葉にしっかりとうなずいて答えたミーティアを見たマルキリスとリベルトは今度こそ納得したようだった。
「ミーティアちゃんがそれでいいっていうなら俺たちはこれ以上なにも言うことはない。やりたいようにすればいいさ。まあ頑張れよ」
言い方聞き方によってはかなり投げやりなせりふだったが、これがマルキリスの口から発されると素直に応援してくれていると思えるから不思議だ。
ミーティアは笑顔で応えた。
「はい」