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切ない ―後宮に消えた忠誠と復讐の記録―  作者: 雪燈
第2章 欲と愛が交差する後宮
20/22

第20話 余熱

※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。


苦手な方はご注意ください。


朝は、静かに始まった。


目を覚ましたとき、雪瑶はすぐには起き上がれなかった。


背に痛みはない。


——それでも、動けない。


振り上げられた杖の影が、脳裏に焼き付いている。


落ちてくるはずだったそれが、 まだ背に触れているような錯覚。


生きている。


——それだけが、残っていた。


しばらく天井を見つめる。


——終わらなかった。


安堵はない。


ただ、続いてしまったという感覚だけがあった。


やがて、静かに身を起こす。


ここはもう、雑用係の寝所ではない。


恵玉妃の宮の一角。 仮に与えられた部屋。


“仮”であるはずなのに、 外へ戻る道は、もう残っていない。


着替えを済ませ、外へ出る。


廊下は、いつもと同じように整っていた。


乱れがない。


まるで、昨日何も起きなかったかのように。


すれ違う女官たちは、一瞬だけ視線を寄こす。


だが、すぐに逸らす。


距離を測る目。


受け入れるでも、拒むでもない。


ただ、様子を見ている。


雪瑶は何も言わず、頭を下げて通り過ぎる。


その時。


「……動けるの?」


不意に、明るい声がした。


振り向くと、一人の女官が立っている。


年は近い。 表情が柔らかい。


「昨日のあれ、見てたから」


気安い口調。


「無理しない方がいいよ。倒れられても困るし……」 少しだけ肩をすくめる。 「……面倒見るの、私になるし」


言葉は軽いが、視線には気遣いがあった。


「……問題ございません」


雪瑶は短く答える。


女官は少しだけ目を細めた。


「そっか。強いんだね」


ふっと笑う。


「私は明鈴。ここで側仕えしてるの」


名乗りが自然だった。


壁を作らない。


「……雪瑶でございます」


「知ってるよ。今いちばん話題の子でしょ」


からかうように言う。


だが悪意はない。


その時、もう一人の女官が近づいてきた。


足音は静か。


無駄がない。


「明鈴、仕事中です」


淡々とした声。


明鈴は肩をすくめる。


「はーい、分かってますって」


その女官は、雪瑶へと視線を向けた。


冷たいわけではない。


だが、温度がない。


「……静雲です」


それだけ。


名乗りも簡潔だった。


「本日より、あなたも内側の仕事に入ります」


説明のように告げる。


「規則は守ってください。それだけで結構です」


必要以上の言葉はない。


雪瑶は頭を下げる。


「承知いたしました」


静雲はわずかに頷き、先に歩き出す。


明鈴が小声で言う。


「気にしないでね。あの子ああいう性格なの」


くすりと笑う。


「でも仕事は一番できるよ」


その言葉に、静雲は振り返らない。


ただ、歩みを止めない。


三人で歩く廊下。


距離は近いのに、均等ではなかった。


やがて仕事が始まる。


雪瑶は言われたことだけを行う。


余計なことはしない。


それでも——


「それ、そっちじゃなくてこっち」


「紐、逆」


明鈴が軽く声をかけてくる。


責める言い方ではない。


直せばいい、と言うように。


静雲は何も言わない。


ただ、視ている。


間違いも、動きも、すべて。


雪瑶は気づいていた。


この宮では、


“見られていること”が前提だと。


昼を過ぎた頃。


一息ついたとき、明鈴が隣に座る。


「昨日、怖かった?」


あまりにも率直だった。


雪瑶は一瞬だけ言葉を選ぶ。


「……終わることが、恐ろしかったです」


正直な答え。


明鈴は少しだけ驚いた顔をする。


「そっか」


そして、小さく笑った。


「でも大丈夫だよ」


軽い調子で言う。


「恵玉様は、誰も見捨てないから」


その言葉は迷いがなかった。


信じている声。


その少し後ろで、静雲が手を止めずに言う。


「……当然です」


わずかに間があった。


「恵玉様は、そういうお方です」


肯定。


だが、どこか定義のような言い方。


雪瑶は、何も答えなかった。


ただ、その言葉を受け取る。


——誰も見捨てない。


その言葉が、胸の奥に沈む。

消えずに、残る。


……本当に?


胸の奥で、何かが引っかかる。


昨日の光景。


あの場に、恵玉が来なければ。


考えるまでもない。


それでも。


“誰も”なのか。


ふと、そんな思いが過る。


夕刻。


一日の仕事を終え、部屋へ戻る。


静かな空間。


外の音も届かない。


目を閉じると、すぐに浮かぶ。 振り上げられた杖。


落ちる直前の空気。


止まった一瞬。


息が詰まる。


守られた。


確かにそうだ。


だが——


守られるということは、


どこかに属するということだ。


恵玉の宮。


恵玉の庇護。


そこから外れれば、どうなるのか。


考えなくても分かる。


天井を見つめる。


後宮は広い。


だが、


居場所を与えられるほどに、


逃げ場は消えていく。


目を閉じる。


静かな息を吐く。


温もりは、まだ遠い。


ーーそれでも。


進むしかない。


もう、ここまで来てしまったのだから。


次回更新は【金曜日22時】を予定しています。

よろしくお願いいたします。

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