終幕
「ね、ねえ! あそこにいるのタイヨウくんじゃない?」
午前7時半。通勤通学で混みあうバスの中、橙のスカーフを巻いたセーラー服の女子2人組が、最後列の席の隅っこでひそひそと話す。いくら声量を落としても、早朝の静粛とした空間では、メガホン使用レベルの爆音に該当する。
「タイヨウ?」
「ほら、『オンステージ 2nd』に出てた。超美形の!」
「あー、『SIESTA』のバクの子?」
「そうそう! 最近テレビで見なくなっちゃったけどその人ぽくない?」
「ええ〜? 芸能人がこんなとこいないっしょ」
「めっちゃ似てるんだって。見て。あそこ。立ってる、背の高い、黒マスクの」
「どれどれ?」
高校生らしき女子2人が、運転手席近くをこっそり見やる。
「ね? ねっ?」
「うーん……あんな陰キャだったっけ? あの子ってもっと元気印みたいな感じじゃなかった?」
「そうかなあ。あの八頭身スタイル、そうそう見ないと思うんだけど」
「いるでしょ。『GaoR』のオーガとか」
「オーガくんもかっこいいけどお、身長あんまないから……ぎり七頭身?」
「あれ、来週だっけ? 『GaoR』の記者会見って」
「『GaoR』てか、事務所のね。何すんだろうね。『オンステージ』第3弾発表かな!?」
「うわー、ありそー。女の子版とか」
「えーやだー。イケメンが見たいー」
イケメンいんじゃんあそこに、と前方を視線で指し、きゃっきゃとはしゃぐ。金曜夜でしか感じられないような活気に、バスに乗車するサラリーマンが目も心も閉ざす。
「あ。八頭身イケメンいたわ」
「え、どこどこ」
「昨日ドラマ出てた、センリくん? あのオス顔イケメン」
「ぅえっ!? 観たの!? 『オセロ シーズン2』!?」
「あー、そんなタイトルだった気ぃする。ひまつぶしに観たんだけど、やぁばいね。ちょいワル先輩いかつすぎ。元子役なんだってね、そりゃうまいわ。ガチ恋しそう」
「んもう~~! だから言ったじゃん! あんた絶対センリくんタイプだから、オンステ2観なさいって!」
「遅くなりました。おじゃまします」
「あはは! はーい、いらっしゃーい」
話題はすっかりセンリに移ろい、まったくよそ見しなくなる。
運転手席の横で背を丸くしていた俺は、ひそかにほっと息をついた。しかし油断は禁物。黒い不織布マスクを目下まで上げ、黒いニット帽を目上まで下げる。
握りしめていた携帯が、ビクビクと痙攣した。画面を見れば、何件かメッセージが届いていた。すべて発信者がちがう。『おい。話ってなんだ』とイラついている人もいれば、『もしよければ』とミュージカルのチケットを手配する人、『もうすぐかな? 待ってるね!』とお日様の絵文字付きで送信する人もいる。つい失笑してしまい、咳払いでごまかした。
次の通過点が表示され、停車ボタンを押した。
雪だったものにまみれた薄紅のつぼみが、車窓を一時的に額に見立て、美麗に飾られる。ガタンとバスが揺れ、俺はすぐさま手すりにつかむ。ごきげんな気配があっという間に通り過ぎ、指先がかじかんだ。
総合病院前のアナウンスに、俺はハッとして股下に挟んでいたスーツケースの持ち手を携えた。バス停前で停車すると、前後の扉が自動的に開かれる。冷凍庫を開けたときに似た冷気がバス内にすべりこむ。
俺を含め数人が下車すると、それ以上の人数が乗車した。パンパンに箱詰めされたバスは、ガスを吐きながら走り去る。
俺とともに降りた人たちは病院のほうへ歩いていく。俺はひとり、逆方向にスーツケースを引きずった。
信号をふたつ過ぎると、入り組んだ住宅街に差しかかる。ランドセルを担いだ子どもたちと会釈をし、ごみを出しに行くおばさんや青年とすれちがいながら、俺は進んでいく。
低い空、限界まで伸びた雲、道端に咲く名も知らぬ野花。自然と足取りが軽くなる。スーツケースがなければスキップをしていた。歌も口ずさんだりして、秘密のミュージカルが始まっていたかもしれない。
プップー!
上演の合図のようなクラクションが鳴った。いつの間にか車が背後に迫っていた。
上の空だった俺は、白線もない細道の電柱に急いで身をくっつけた。カーキの軽自動車がスピードを落として横切る。
ほっとしたのもつかの間、先を行った軽自動車が俺の目的地で停まったではないか。思わず凝視すると、車から降りた人物もこちらに振り向いた。
「あなたとはこういう運命みたいね」
襟足のすっきりしたショートヘアの女性が、声を張って俺に話しかける。
「み、都さん!」
俺は駆け寄って、しどろもどろに挨拶をした。
彼女の羽織るマキシ丈のロングコートがはためいた。ポケットからアイトウエンターテイメントの社員証がはみ出ている。顔・名前・所属を漏洩するソレをじっと見つめれば、都さんははたと気づき、ばつが悪そうにポケットに押しこんだ。
「もしかして都さんもあの家に用が?」
「記者会見前にあらためてご挨拶をと思ってね」
俺たちは正面にある一軒家を見上げた。このあたりに似たような造りの家は何軒もあるが、俺たちが迷うことはまずない。くすんだ白色の壁が、陽に当たって発光していた。実家以上のやさしさ、そして、褪せることのない哀愁がある。
今日が特別な日というわけでもないのに、示し合わせたように都さんとここにいる。
はじめて会ったときも、そうだった。
10年前、桜前線の控えたころ。
俺たちは今日と同じようにここで鉢合わせた。当時名前も知らなかった彼女は、身なりも世代も境遇もちがう俺とまったく同じ言葉、同じ感情、同じ罪を背負っていた。
俺のせい、私のせいだと、正面の家に向かって近所迷惑もいとわず一緒になって泣き叫んだ。
帰り際、鼻水をたらした彼女に呼び止められた。あなたはこれからどうするのか、と。
――太陽になるよ。
何も考えていなかった。でもするりと言葉が出た。
俺の来世はとうに決まっていた。
あの日から俺と都さんは傷だらけの縁をつないでいる。
「それにしても、その黒装束みたいな恰好はなに? 辛気臭いわね」
「黒衣さんみたいで目立たないと思ったんですが」
「あなたの容姿じゃ無理よ、あきらめなさい」
バスでのことを思い出し、ぐうの音も出ない。
「あなたはとてもかっこいい人よ。芸能人の自覚を持ちなさい」
「ありがとうございます。でも都さん、俺は今は一般人ですよ?」
「あら。まだ1週間ほど契約期間が残っているわよ?」
「あっ。あはは。そっか。そうでしたね」
とっさの作り笑いに、都さんの眼が尖る。ちらりと俺のスーツケースを一瞥すると、やるせなく目尻をゆるめた。
「……それでも行くのね」
「はい。仕事はすべて片付けましたし、社長やマネージャーにも話は通してあります」
「そう……」
「役目は、終わったんです」
「そう、ね」
真偽が入り混じる特異領域、芸能界。
真実を偽物のように扱うこともあれば、偽物を真実にだってできてしまう。
だから俺は、やりたいようにやれた。俺のじゃない偽名で、本物として振る舞い、存在を刻みこむ。名前は世界にとどろいた。
ここにいた証を、きっとこれからも語り継いでくれる。
「あなたの“太陽”は、想像していたよりもずっと、まぶしかった。できることならこのまま、もう少し、見ていたかったくらい」
「俺も、貴重な経験ができて楽しかったです。でも」
「ええ、わかっているわ」
どこでも変わらず日は昇り、沈む。
真実とは何か、わかるときがくる。
俺も、俺に、戻らなければいけない。自分の以上に大事な名前が、誰かに穢されてしまう前に。
「用が済んだら、そのまま空港に行くの?」
「いえ、その前に新宿に」
「新宿?」
「霧矢くんと会うんです」
「霧矢くんって、『オンステージ 2nd』の?」
「はい。彼、今、記者やっているそうなので。来週の会見にちょうどいいかなって」
「余念がないわね。あなたらしいわ」
俺らしい。それを面と向かって言えるのは、業界にふたりといないだろう。
ありがとうございます。そう言うと、都さんはふしぎそうに表情を和らげた。
ガチャリ。くすんだ白色の壁に取り付けられた玄関の扉が、内側から押し開かれた。中から現れたのは、彫りの浅い顔の、同年代の女性。物心つく前から付き合いのある幼なじみだ。
「話し声が聞こえると思ったらやっぱり! ふたりで来たんだね」
「いいえ、会ったのは偶然よ」
「偶然? つくづく気が合うねえ、ふたり」
下世話にからかう幼なじみを軽くあしらいながら、俺は家に上がらせてもらった。
「おじゃまします」
「これ、手土産。駅前のケーキ屋さんの。おいきそうだったからよければ食べて」
どこに隠し持っていたのか、用意周到な都さんは白い箱を差し出す。ふわっと甘い香りが舞った。
反射的に俺は自分の両手を見つめた。スーツケースの持ち手しかない。気まずくなって都さんの影に隠れる俺に、幼なじみは水を口に含んだように笑った。
「お兄ちゃん会いたがってるよきっと。早く行ってあげて」
俺はためらいがちにマスクと帽子を外し、小さな子どもみたいにほほえんだ。玄関にスーツケースを置き、脱いだ靴をそろえたあと、燈の気配の漂う仏間へ一直線に向かった。
もうひとりの幼なじみが笑顔で待っていた。手作りの写真立ての中で。
つぶらな一重にちょこんと忍ぶほくろがチャームポイントの、幼さのある顔。色褪せた高校の制服。
親友であり、俺にとっても兄のような人だった。
ひさしぶり、と声をかける。愛らしい笑顔が動くことも、おしゃべりだった口が開くことも、ない。代弁するように心臓がドクンと熱を打つ。
何年経っても慣れない。
そこで物言わず笑っているのは、本当は、俺のはずだった。
・
死後の世界があるならこんなふうがいい。
医薬品の匂いが縫いつけられたベッドの上で、何回、何万回と想像した景色が、視界全面を彩った。
イギリスの片隅、テムズ川のほとりに位置するロンドン。ノーブルな趣ある市街地を南に遠のいた先にある、昔ながらの田舎町。
繊細に澄んだ河辺に、草木とともに年月を重ねた石造りの家々。人の手を加えられながら歴史を守ってきた形跡が見受けられる。
観光客の姿はめっきり見なくなり、前世からゆかりのありそうなくらい仲睦まじい住人たちがなまりのあるイギリス英語をぽんぽん弾ませていた。
日本、正確には新宿駅から丸1日かけ、ついにたどりついた地で、俺は顔に貼りついた黒の不織布マスクを捨て、フライト疲れした身体を休めた。
町のパン屋で、昼夜兼用にちょうどいいボリューミーなサンドイッチを買った。鳥の休むベンチでぺろりと平らげる。
冬の名残の濃い空気が、満タンの胃袋を落ち着かせる。気持ちよくてつい居眠りしてしまった。
鳥につつかれてはっと目を開ける。5分も経っていなかった。
うすい膜を張るように町を染めていく夕日で、感覚を完全に冴えらせる。
井戸端会議をする野兎を横目に住宅街を離れていった。
辺りが暗くなってきた。
ふと、孤島みたくそびえ立つ建物を見つけた。両翼を羽ばたかせる鳩の大群が描かれた壁面。無作為に柱の浮き出た外観は、鳩の向かう空に奥行きを持たせる。
表の看板には、等間隔に『810s』の文字。その真下に開かれた出入口は、思いのほか人でにぎわっていた。扉横に貼られたポスターと写真を撮っている。
『REVIVAL STAGE WHITE』
ちょうど今から上演される、白黒で写る舞台のイメージ図。重厚なドレスの女を護衛する軍服の男。俺は浮き足立って入口をくぐった。
受付にいる女性スタッフは、一見キャストと見間違えたくらい優美な容姿をしていた。和装がよく似合いそうな彼女は、おそらく新人なのだろう、省略のない英語でチケットの説明をする。
「Standing room only……」
「立見席、チケット余ってるんですか?」
「Yeah,ticket……え、日本語?」
日本語で尋ねた俺に、彼女はびっくりしていた。紅の際立つ彼女の口は、とたんに文法を崩した日本語をほとばしる。
手際よく立見席のチケットを会計した。日本円でたったの3000円だった。
劇場は満員御礼。1階のみの平等な客席は地元の人々で買い占められ、毛並みのいい犬まで座っていた。客席の両脇と後方に急遽設けられた立見のエリアにも老若男女が密集していて、俺はじゃまにならないよう最後列の端にもぐりこんだ。バスのときと同様スーツケースを両足に閉じこめ、規則的に穴の空いた壁に肩甲骨を寄せる。
開演するや、まとまりのない声援が沸き起こった。楽しいのがわかりきった、遊園地のアトラクションのような空気感。観劇2回目以上の人の割合が極端に高いんだろう。すごい人気っぷりだ。俺は手を高らかに打った。
比較的幅の狭いステージに、中世ヨーロッパを基盤としたオリジナルの世界観が繰り広げられる。王女と呼ばれた女性は、ウェディングドレスをモチーフにした衣装に合わせ、気品あふれるオーラをまとっている。軍服に剣を差した男性は可憐な顔立ちでありながら、勇敢な男性性が表情や言動の節々に表れている。
スタッフのレベルの高さからキャストへの期待値が爆上がりしていてもおかしくないが、それを易々と超えてくる容姿端麗さと演技の完成度。劇場の規模感やチケットの価格帯と、いい意味で、まったく釣り合っていない。
それでも舞台を見る限り、経営が十分に成り立っているどころか、資金が潤沢していることも予想つく。
演者も観客も、みんな、楽しそうだった。
この地域で生まれ育った生粋の英国人ばかりの客席に比べ、主役のふたりを筆頭に、入れ替り立ち替り登場するキャストには、明らかに日系の血が通っている。身体の色、骨格の差異、ときおりセリフに混ざった外来語の言い回し。ところどころ親近感を覚える。
しかし、ここに国境はない。
観客はそんなことより物語に夢中だ。
どんな人でも最高水準の演劇を身近に体感できる場所。それがここ、劇団『810s』。
「王妃殿下、あなたのそばにいられることが、何よりの幸せでした」
恋情よりも忠義を取った騎士のセリフで完結すると、盛大な喝采が天井を揺らした。降り注ぐ拍手が、次第に息をそろえていく。
カーテンコールの前に、主要キャラクターを演じきった役者たちが端的なパフォーマンスを始める。観劇の感謝と地域交流の意味合いをかねた、『810s』ならではの風習だ。内容は合唱、手品、バレエなど、そのときの演者によって変わる。今回はダンスのようだ。
観客の手動で伝えるリズムがばらつき出し、思い思いに口や指を鳴らしたり、役名や本人の名前を呼んだりしている。
俺もノリに乗って、ステージに向かって叫んだ。
「寿亀ー!」
対格側にファンサービスをしている騎士役の俳優に、手を振ってみる。きっと気づかれない。気分を味わえただけで満足した俺は、早々に手を下ろす。
と同時に、彼の瞳が俺を捉えた。まるで月食のように視線が重なる。
彼は衝動的に舞台を飛び下りた。騒ぎ立つ観客をかき分けながら、真っ直ぐ俺のほうへ詰めてくる。
「ひ、寿亀……?」
俺より縦も横も短い騎士役の彼を、顎を引かずとも注視できる間合いになると、彼はため息をついて静止した。
「はぁ……おまえさあ」
「え? え?」
ガッと手首を鷲掴みにされた。有無を言わさず俺を舞台へかっさらっていく。
客席の間の通路を引きずられるようにして歩けば、左右に座る観客が悲鳴を上げる。騎士ではなく、俺の横顔に目を凝らして。
「り、リッカ……?」
「リッカ・ハルイエ!?」
どこかなつかしさのあるおじさんやおばさんが、感極まった様子で俺に手を伸ばす。すれちがいざま髪を撫でられ、背を叩かれ、腕を触られた。俺の存在に確証を得られると、涙ながらに歓声を吠える。
壇上のセンターでようやく拘束を解かれた。
スポットライトを浴びて俺と対峙した寿亀は、やれんだろ? と言わんばかりにブレイクダンスを仕掛ける。俺はニット帽とコートを脱ぎ捨て受けて立つ。
踊る。
踊る。
目が回るくらい踊る。
心臓も、躍る。
上下する胸に手を当てる。布越しに指の腹が引っかかる。でこぼこした縫い目の跡。胸の内がざわりと粟立つ。
いや、まだいける。まだまだ動ける。
筋肉の凝り固まった身体でも、難なく主役についていける。体育の授業は原則見学だった昔の俺が知ったら、どんな反応をするだろう。たぶん信じてくれないな。
ここまで来るのに何年かかったか。
地道に、本当に少しずつ、体力をつけた。技術を習った。表現を磨いた。
俺のなりたいものになれるように。
死ぬ気で生きた。
心音が熱く弾ける。我が身を抱きしめるようにターンを決めた。汗の滴る板が激しく振動する。
快晴の照明が、俺たちを称えた。
清々しく破顔する俺に、メイクをわずかに崩した寿亀は体当たりする。よろける俺と肩を組むついでに、一緒に客席を向く。
みんな、俺を見ていた。摩擦で寒さをかき消すほどの拍手が響き渡り、心身をあたためてくれる。
「おかえり」
隣から聞こえたつぶやきは、にぎやかな劇場の中でただひとり、俺しか受信できない。
肩にかかる力が強まる。俺はこつんと隣に寄りかかり、重みを半分預けた。
俺の赤裸々な視界が、きらめいた。
「ただいま」
思い描いていたとおりの天国だ。
end




