地獄
「すいません、店長。アタシ、仕事辞めます」
ピーク前のコンビニ。レジに立ちながら別の作業を進める店長に、アタシは投げやりに言い放った。
「え……え、江ノ上さん? あれ? 今日出勤じゃないよね? ていうか、え!? 辞めるってなんで……」
「働く意味が、なくなったので」
はじめアタシを客だと思った店長は、予想外のことが立て続けに起こり、大混乱に陥った。しどろもどろに説得にかかるが、アタシにはもう話すことも聞くこともない。
アタシだって被害者なのだ。
それは、突然の発表だった。
『GaoR』全国ツアー、王位継承の儀は、ついに最後の土地、大阪会場を残すのみとなり、アタシはつい先ほどまでそのためのパッキングをしていた。が、休憩がてらSNSを開いたとき、アタシの心臓は止まった。
『ファンの皆様へ、大切なお知らせ』
それは、『GaoR』のメンバーであるオーガの個人アカウントから全世界にさらされた。
グループ活動休止の宣告だった。
何のまちがいだろう。エイプリルフールにしては1か月早く、ドッキリにしては手がこんでいる。何より、ファン思いな『GaoR』が、こんなたちの悪い嘘をつくとは思えなかった。
そういえば、今日『GaoR』か事務所か、記者会見を開くという噂があったのを思い出し、急いでネットを駆けずり回った。
ウェブマガジンの『ティーンナイト』が、どこよりも早く記者会見の一部始終を報じた。その内容は、オーガの投じた文書をより詳しくしたものだった。
今月末、彼らは――アタシの推しは、眠りにつく。
今さら変えようのない決定事項だった。
アタシは携帯を投げ捨て、スーツケースを踏んづけ、混濁した意識のなかコンビニに立ち寄った。店長を見たら、マスクをつけていない口が勝手に退職を告げていた。
もう何もかもどうでもいい。
笑えない。笑ったって意味がない。
そうだった……人間って、そんなもんなんだった。
店長の話の途中で、アタシはふらりとレジを離れた。売場には制服姿の渚がいた。ビニール傘を持った彼を尻目に、アタシは店を出て行った。平和ボケの音波にまじり、アタシを呼び止める声がした。店長だろうか、まあいいか、二度と会うこともない。
日暮れ前だというのに空はねずみ色に汚染されていた。分厚い曇天に影を滅される。生きた心地がしなかった。
うしろから足音がする。近づいたり離れたりしながらも、けっしてアタシを追い越すことなく、あとをつけてくる。コンビニを出たときからずっと。
枯れ葉の散らばるアパート前にさしかかった。アタシは外付けの階段を鳴らさず、振り返りもせず、気まぐれにつぶやいた。
「……いつまでついてくる気」
ぐしゃ、と穴だらけの葉が粉砕する音が聞こえた。後方の気配をまざまざと感じる。腐臭を放つヨモギ色が目に浮かぶ。
「あ……え、江ノ上……」
案の定、渚の声がした。アタシはたまらず色のない唇を噛んだ。
「み、店、辞めんの? なんで……?」
「……ほっといてよ」
「ど、どうしたんだよ……。あの報道のせいか?」
「放っておいてって言ってるでしょ!?」
背後を睨みつければ、愁眉の渚が突っ立っていた。いつからか角刈りだった髪はなびくほど伸び、浅黒かった肌はいくぶん明るくなった。ビニール傘の先端はぼろぼろにすり減っている。今週か来週あたりに卒業式があるだろう。
本当に変わってほしかった根本は、ちっとも変わっていないのに。
「あんたはいつもそうだよね」
「え?」
「無神経に人の気持ちを荒らして、自分勝手につけこんで、迷惑かけていることに気づきもしない」
忘れたくても忘れられない、不幸の始まり。
――こいつ、江ノ上に告られたらしいよ。
そう言ったのは、渚、あんただったね。
渚のせいで、アタシはしなくていい苦労をいっぱいしてきた。目には見えない傷をなんとかこらえてきた。
アタシをどん底に突き落とした、その口で、あろうことか「俺にできることがあったらなんでも言えよ」って? 言えるわけがないでしょう。言ったらアタシは、あんた以下になってしまう。言わずにいてあげるから、何もしないでほしかった。
どうしてわからないの。
「店のクレーマーと一緒だよ!」
「お、俺、ご、ごめ……ただ、心配で……」
白濁した息が、突風にかき消されていく。風にあおがれた枯れ葉が、建付けの悪い階段におそるおそる降った。
「俺もさっき知った。活動休止とか、引退とか。それで江ノ上が心配になって……」
「っるさい!!」
うるさい! うるさい! うるさいっ!
アタシは両耳をふさいで叫び散らした。反射的に彼はあとずさる。
「なんで、みんな、アタシの気持ちをないがしろにするの」
好きだと告白するのはそんなにおかしなことだった?
忘れてもいいだなんて突き放すことが、いまどきの美徳?
永遠を夢見させたのは、そっちのくせに。
勝手に見捨てないで。
ずっとそばにいてよ。
アタシはただ、好きでいたいだけなの。
「……もう、やだ……。フーゴもいないし、がんばれない……」
フーゴがいたから、つらいことも耐えられた。働いて稼げば、グッズもチケットも手に入るし、会いに行くことだってできる。好きって言ったら、歌や踊りやファンサや笑顔で倍返ししてくれる。心の底から安心できた。
『ファンの皆様へ、大切なお知らせ』
あんな文面ひとつで楽園は奪われる。
アタシはいつまでたっても報われない。幸せなんか最初からどこにもなかった。
「はあ……。疲れた……生きていけない……」
アタシは階段をのぼろうとするが、足がもつれ、地面に膝をついた。ひりひりとした痛みが走る。立ち上がる気力もなかった。体温が下がっていく。小さく縮こまると、江ノ上、と中身のない声音が耳元に落ちた。
アタシの肩に骨ばった腕が回され、頭に胸板の硬い感触が触れた。いい思い出のない高校の制服が視界を埋め尽くす。
「がんばんなくていいよ。無理して笑わなくてもいい」
「……」
「俺、ほんとはずっと、こうしたかったんだ」
アタシ、知ってるよ。
あんたがとうに正気ではないこと。
アタシのことをずっと侮っている。アタシに向けられたすべては贖罪でしかなくて、本当の本当は、アタシから離れたいんでしょ。
思っていないことも言葉にできるし、うれしくなくても笑えるし、自分さえよければいい。しょせん、みんな、そんなもん。
アタシは舌を打ち、彼の体を押し返した。傷口が開き、濃厚な血のにおいが鼻を刺した。自分の顔が不細工に歪むのがわかり、なおさら胸くそ悪い。
彼の触れた肩を軽く払いながら、ゴミまみれの地面に這いつくばった彼を見下ろした。
「嘘つき」




