02 紅之蘭 著 『ブラッディ―・メアリー』
【梗概】1553年、英国のメアリー1世は、熾烈な宮廷闘争を勝ち抜き、絶大な国民の支持を得て女王に即位した。そんな彼女が、今日に至るまで、「ブラッディー・メアリー」の二つ名で呼ばれる理由を考察してみた。
挿図/(C)奄美「ブラッディ―・メアリー」
一五二五年、おびただしい数の騎士や従士に守られた馬車が、行列をなして田舎道を行く。沿道の領民からは祝福の声が上がっていた。
「マーガレット、素晴らしいお城ね」
「はい、メアリー様、次期国王となられる貴女様に相応しいと存じます」
「ただ、お母様とはお手紙とのやり取りだけになるのが、ちょっと寂しい」
一五二九年、九歳になった少女が、イングランド・バーミンガムの西方六十キロメートルのところで、ウェールズとの国境にも近い、シュロップシャー州ラドロー城の城主となった。メアリー・チューダー、称号はプリンセス・オブ・ウェールズ、この国の王太子だった。
だが、教育係のマーガレットは、信頼する部下の進言を聞いて、表情を曇らせていた。――というのも幼い主君・メアリー王女の父親ヘンリー八世国王が、母親キャサリン王妃を捨てようとする動きがあったからに他ならない。
それから八年が経った。
一五三三年、十七歳になったメアリー王女の美貌は欧州各国に轟き、国民の誰もが、王女の未来は輝かしいものだと思っていた。だがこの年メアリーは、奈落の底に叩き落される。母親キャサリン王妃が、父親から離婚を突き付けられ、イングランド中部・ケンブリッジシャー州の田舎屋敷・キンボルトン城に監禁され、母娘、互いの文通も禁止された。
キャサリン王妃は、ヘンリー八世の兄であるアーサー王太子に嫁いで来たスペイン王女だった。この王太子は病弱で早逝してしまうのだが、舅のヘンリー七世は、政治的な理由で未亡人となった息子の嫁を留め置き、弟であるヘンリー王子もしくは自分の妻になるように取り計らった。当時の欧州世界では兄嫁を弟が貰い受けるということは禁忌であり、ましてや父親が息子の嫁を貰い受けるなどということは破廉恥極まりない。――だがキャサリンは従容と舅に従った。
ルネッサンスの残光があった当時の欧州だったが、中世以来の動乱は続いていた。
武技に優れ、当時一流の知識人であったヘンリー八世は、女王では、列強に舐められるとして、後継ぎの王子を望んでいた。そんなときに若くて美しいプーリン家のアンが目に入った。
アン・プーリンの曽祖父ジェフリー・プーリンは、イングランド東部ノーフォーク州出自の農民だったが、一代で財を築き、ロンドン市長となる。その後、多数の貴族と姻戚関係を持ち、代を重ねて陞叙を重ね、三代目のトマス・ブーリンは伯爵にまで昇り詰めた。野心家のトマスは、まず、二女を当て馬の貴族に嫁がせ、宮廷の侍女は表向き、実際は王の愛人に収めた。二女を足掛かりにして、次は本命である長女アンをキャサリン王妃の侍女にする。――ヘンリー八世はこの餌にまんまと引っ掛かった。
王は、妹同様、愛人にしようとちょっかいをかけてきた。
これに対してアンは王の申し出を拒否した。
「寝台を共にするなら正式な結婚をしなくては駄目です。結婚して下さったなら、お望みの王子を産んで差し上げますわ」
始めは軽い浮気だった王は、その言葉で本気になった。
五月二十三日、ヘンリー八世は、キャサリン王妃との結婚無効宣言を布告して、離婚が成立。六月一日にアン・プーリンは正式な王妃として戴冠する。こうして、仕えていた王妃を追い出して自分がその座に就いたというわけだ。同年九月に、新王妃アンは、エリザベス王女を産む。するとラドロー城主であるメアリー王女に代わり、エリザベス王女がプリンセス・オブ・ウェールズになった。
翌三四年、アンは、メアリーから王女の称号を剝奪し、エリザベスの侍女の身分に落とした上で、ロンドン近郊のハーフォードシャー州の館に、叔母を監視につけ幽閉する。メアリーは病床に臥せった。継母は元愛人を使って継子を毒殺しようと画策したが、失敗に終わる。
さらに三年が経過した。
一五三六年一月七日、キャサリン・オブ・アラゴン前王妃が、娘のメアリーに、母国からの所持品のうち、毛皮一枚と金鎖、ロザリオのみを形見に遺し、キンボルトンの館で薨去した。葬儀の参列にメアリの出席は禁じられ、四十キロ北にあるピーターバラ修道院に埋葬された。前王妃が亡くなると、ヘンリー八世とアン王妃は狂気して祝宴を行ったとも、葬儀当日にアンプーリンが男児を死産したとも言われている。――いずれにせよ後継ぎをもうけられなかった王妃は、王に失寵され、男五人の姦通と反逆の罪で同年五月にロンドン塔で斬首させられる。「千日王妃」と言われる所以である。外戚のプーリン家の大半も処刑された。――すると長らく監禁されていたメアリが解放された。
王はこの後、さらに四人の王妃を迎えては離婚した。ヘンリー八世の三番目の王妃ジェーン・シーモアは、待望のエドワード王子(後のエドワード六世)を産んですぐに亡くなる。
メアリーの地位は次第に回復していく。称号は「プリンセス」ではなく、継母の失脚で庶子になっていたエリザベス同様「レディー」のままだったが、ヘンリー八世は自分が不在のときの宮廷「女主人」として扱うようになった。
六番目の王妃キャサリン・パーは、メアリーやエリザベスを厚遇し、ヘンリー八世を説得して一五四三年に王位継承権を与えさせた。
その間に教育係だったマーガレット・ポールが、父国王の宗教政策に反対して処刑されている。
一五四七年、ヘンリー八世が薨去し、息子エドワード六世が即位する。だがエドワード六世は虚弱で、六年後の一五五三年七月六日に、十五歳で薨去してしまう。王位継承権第一位であったメアリーだが、熱心なカソリック教徒であった。このため国教会・プロテスタント系の廷臣たちはノーサンバランド公を領袖に、エドワード六世の従姪ジェーン・グレイを担いで女王に推戴する。
敵に捕らわれるところを間一髪で、メアリーは、ノーフォーク公トマス・ハワードに助けられ、ノリッジで即位する。――これに大衆が呼応。三十七歳になっていたメアリーは国民の支持を受けて王位に就き、メアリー一世となる。対して、ノーサンバランド公とジェーン・グレイは捕らえられ、処刑された。――メアリー一世はこの瞬間が最も輝いた。
だがその後がいけない。
メアリー一世の在位期間は五年である。
即位の翌年である一五五四年七月、メアリが三十八歳のときに、自分の地位改善に骨を折ってくれた、母方の実家筋であるスペイン王家から、従兄の子で十一歳年下のフェリペと結婚する。しかし二人の間に子はできず、疎遠になった。――とはいえ、フェリペは共同王である。後に夫がスペイン王として即位した後、スペインとフランスが戦争になり、イングランドは戦争に巻き込まれて敗れ、北フランスに唯一残っていた町カレー市を奪われてしまう。さらに、宗教政策で彼女は、カソリックに復帰して、プロテスタントの老若男女三百人を処刑したがゆえに、「ブラディー・メアリー」の二つ名がつくことになる。――結局のところメアリー女王の生涯は、サイコパスな父親のDV被害と尻ぬぐいだった。
腹違いの妹・エリザベス一世が、姉の跡を継ぐと、再びイングランドのカソリックは弾圧され、国教会が復権。少数派だった国教会とカソリックとの信徒数が逆転する。また妹の治世の間に、スペイン無敵艦隊を破り、栄光の時代を迎える。――だから比較されてしまうのだろうか――イングランドでは、メアリー一世の命日が「弾圧からの解放」として、十八世紀まで祝日になったとのことだ。
『ブラッディ―・メアリー』了