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第十三話 ずっと友達

 倒れた教授の元にジライマと森の動物たちが駆け寄った。

「教授! 教授! しっかりして!」

 教授の体はぴくりとも動かなかった。魔女の呪いで永遠の眠りについてしまった眠り姫のように、ただ静かに夜の温室に横たわっていた。

 彼らの後から駆けつけたアーデルハイトとデインティは、暗がりに倒れていた教授の頭にオオカミのような耳がついていることに気がついてはっとした。よく見れば、コートの内側からはふさふさとした獣の尻尾が飛び出ている――。

 警官は謝って人を撃ってしまったことでひどく取り乱していた。だが、クマが泣きながら「教授に何するんだよお! (ウオオオン!)」と両腕を掲げて襲い掛かるようなポーズを見せたので、恐怖のあまりその場で失神してしまった。

 ジライマは膝を折って教授の顔を覗き込んだ。

「教授……目を開けて」

 しかし、教授の目蓋は堅く閉じられたままだった。少女の瞳からぽろぽろと真珠のような涙がこぼれ落ちる。

「私、教授がいなくなってしまうなんて嫌よ。教授は優しくて、親切で……いろんなことを知っていて……もっとたくさん……教えてもらいたいことがあるんです。だから、お願い……死なないで教授!」

 ジライマがわっと咽び泣いたので、痺れを切らしたウサギが教授の頭を蹴り上げた。「いい加減起きてやれよ」

 頭を蹴られた教授は憤慨した様子で身を起こした。

「こらウサギ! 僕は仮にも拳銃で撃たれたんだぞ。おまえには労わりの心ってやつがないのか?」

「弾は当たってないだろ」

 そう言って、ウサギは教授の首にかけられていた懐中時計を指差した。時計の蓋が運よく弾丸を受け止め、いびつな形にへこんでいる。

 教授の無事に、小鹿が嬉しさあまって皆の周りを飛び跳ねた。ジライマは驚きのあまり、ただ呆然とその場に座り込んでいた。教授はしどろもどろと弁解の言葉を口にする。

「すみません、ミス・ジライマ。その……なかなか起きるタイミングがつかめなくて……」

 ジライマの目に再びじわりと涙が滲んだので、教授はぎょっとした。

「……良かった」

「え?」

「教授が無事で、本当に良かった」

 ジライマは教授に抱きついた。その後に続くようにして、涙で頬を濡らしていたクマも力いっぱい教授に抱きつこうとしたのだが、すんでのところでシマリスとウサギに止められた。「馬鹿、空気読めよ! 今この二人いい雰囲気なんだから」

 皆に見守られていることに気がついたジライマは、自分の大胆な行動に顔を赤らめて教授から身を引いた。公衆の面前で男の人に抱きつくなんて、はしたない女の子だと思われたに違いない――。

 しかし、胸に溢れる正直な気持ちを抑えることは出来なかった。ジライマは教授の瞳を真っ直ぐに見つめると、真剣な面持ちで言った。

「私、教授のことが大好きよ。半分オオカミだって構いません。お願いです、どうかこの大学に戻ってきてください!」

 思いもよらぬ少女のお願いに驚いて、教授は目を瞬かせた。どう答えようか考えるとき、教授はシルクハットの唾をいじる癖があったが、そのおかげで自分が今無帽であることに気がついた。空回りした指先でオオカミの耳に触れながら、彼は力なく目を伏せた。

「素敵な申し出をありがとう、ミス・ジライマ。……しかし、僕の居場所はもうここにはないんですよ」

 自分はここにいるべき人間ではないのだ。いや、そもそも『人間』ではないのだ。少女を無事に街まで送り届けたのだから、もう森に帰らなければ。森の奥深くに。自分の戻るべき場所に――。

 そのとき、ふいに目があったウサギが吐き捨てるようにこう言った。

「言っておくけどな、森に帰ったって教授の居場所なんてないからな。森は俺たち野生動物の縄張りだ」

 ウサギの突き放すような冷たい物言いに、クマと小鹿が揃って猛反発する。「ひどいよウサギ! どうして教授にそんなこと言うの?」

 しかし、ウサギは何も聞こえないみたいに言葉を続けた。

「もしかして、仲間だとでも思ってたのか? おめでたいやつだな。情けで付き合ってやってただけだぞ。勘違いするなよな」

「ウサギ……」

 教授に背を向けたウサギの顔を覗き込み、シマリスが小声で言う。

「無理しやがって。おまえ、言葉と裏腹に目が潤んでるぞ」

「愛くるしい小動物の瞳はいつだって潤んでるんだ」

 そんな動物たちの会話を理解しているかのようなタイミングで、アーデルハイトが床の上に落ちていたシルクハットを拾い上げながら言った。

「居場所ならありますよ、教授。この研究室はあなたが戻ってくるのをずっと待っていたのです。現植物学の教授であるこの私が、教授の座をあなたにお譲りします」

 シルクハットを手渡された教授は言葉に詰まった。また大学に戻れる日が来るかもしれないだなんて、夢にも思っていなかった。しかし、月に照らされた影が狼男の姿である限り、それはやはり所詮無理な話なのだ――そう思った時、ジライマが急に閃いたように声を上げた。

「そうだわ! 『幻のキノコ』よ! 教授がこのキノコを食べれば、魔法の力で元の体に戻れるかもしれないわ!」

 ジライマが握り締めていた虹色のキノコを見つめ、アーデルハイトは眩しそうに目を細めた。「『幻のキノコ』……本当にあったのね」

 あるかどうかもわからない幻のキノコが存在していたのであれば、或いは、不可能も可能に変えられるかもしれない――。その場にいた誰もが突き動かされるように同じ思いを抱いた。ジライマからキノコを手渡された教授の心にも希望の光が灯った。

 かつての教授は傷つくことに怯え、人を遠ざけて生きてきた。ひとりでいるのが気楽なふりをしていたが、本当は寂しかったし、孤独だった。

 けれども、人であることを失って何も気負うものがなくなると、森ではありのままの自分でいられた。すると、気がつけば森の動物たちがいつも一緒にいたのだった。


 そう。居場所なんて最初からどこにもないのだ。だってそれは、自分自身で作り上げるものなのだから――。


 教授は意を決してキノコを一口齧ると、それをわずかに咀嚼してからゴクリと飲み込んだ。次の瞬間、強い虹色の光が教授の体を包み込んだ。あまりの眩しさに人間も動物たちもみな目が眩んだ。

 やがて、徐々に収まった光がふわりとした余韻を残して消え去ったあと、そこに立っていたのは、オオカミの耳と尻尾のついていない、人間の姿に戻った教授だった。

 教授がかつての姿に戻ったとき、既に森の動物たちの姿はどこにも見当たらなかった。教授はそのことに気がつくと、温室を飛び出して動物たちの姿を探した。

 暗闇の中、花壇の向こう側を跳ねるウサギの姿を見つけ、教授はありったけの声で叫んだ。

「ウサギ!」

 教授の呼びかけに反応して、満月を背にしたウサギが振り返った。鼻をぴくぴくさせながらウサギはしばらく教授と視線を合わせていたが、やがて、ぴょんぴょんと飛び跳ねて門の向こうに出て行った。



 森までの道すがら、クマがしょんぼりした様子で呟いた。

「教授、もうおいらたちの言葉がわからなくなっちゃったみたいだったね」

 クマの頭上で寝転んでいたシマリスが眠たそうにあくびをする。「言葉が通じなくたって、ずっと友達だ」

 夜空が笑みを湛えたみたいに星がちかちか瞬く中で、先頭をスキップしていた小鹿が振り返ってウサギに問う。

「また教授に会えるかな?」

「いつだって会えるさ」

「でも、どうやって?」

「そうだなあ。サーカス団の団長にでもなってもらえばいいんじゃないか?」

 ウサギは街外れに架かる橋の欄干に飛び乗ると、首元のスカーフをなびかせながら器用に二足歩行した。

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