表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

濡れ衣は、一手で晴らします

偽の罪状を突きつけられた私が“真犯人の署名”を示した途端、私を歯牙にもかけなかった王弟殿下が離してくれなくなりました

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/22

追放を言い渡されたとき、私は右手の指を折って銀器を数えていた。


 親指から小指までを二度、さらに一本。目の前の長卓には、問題の銀器と正規の目録が並んでいる。


 銀器を盗んだ罪で、日没までに屋敷を去れ。それが、先ほど私に下された処分だった。


「ミレイユ。聞いているのか」


 屋敷の主人の声で、十一個目を数えた指が止まった。


 広間の壁際では、使用人たちが私一人ぶんの隙間をきれいに空けている。昨日まで「ミレイユさん」と帳面を渡してくれた若い使用人も、今日は私の名を口にせず目を伏せていた。


「はい。日没までに屋敷を去れ、とのご命令でした」


「ならば、なぜ銀器を見ている」


「銀器は十一。目録も十一。ですが、この銀器は十二個で一揃いです」


「目録どおりではないか」


「目録の数字ごと減らされています。一つ足りません」


 主人の眉間に、深い線が一本増えた。そこは増やさなくてもよい数字だったかもしれない。


 三年前、十二個を渡した相手の署名なら、私の控えに残っている。


 そこまで考えたところで、仕事部屋へ通じる扉の前に使用人が立った。勝てる札はある。けれど、触れさせてもらえなければ紙の束でしかない。


「盗んだ本人が、不足を数えてどうする」


「いえ、私が数えているのは」


「盗人の言い分など聞く必要はございません」


 家令殿、グレゴールが私の声を上から蓋で閉じた。彼の腰では屋敷中の鍵をまとめた鍵束が、歩きもしないのに細かく鳴っている。


「銀器庫への出入りを任されていたのは、この者です。目録の確認にも関わっております。品が失われた以上、責任の所在は明白かと」


「関わっていたのは、数を確かめるときだけです。目録への記入は家令殿が」


「口を慎め。主人のご温情で追放にとどめていただけるのだぞ」


 私へ向けた語尾は、扉を閉めるように固かった。ところが上座のアルベルト王弟殿下へ向き直った途端、その背筋が深く折れる。


「殿下のご滞在中に、このような不始末をお見せしましたこと、誠に、誠に申し訳なく存じます。どうか当家の監督が行き届かぬものとは、お考えになりませんよう」


 王弟殿下は卓上の銀器にも、私にも視線を留めなかった。手にした茶器の縁を一度なぞり、主人へ短く告げる。


「屋敷内のことだ。そなたが処せ」


「はっ。寛大なお言葉、痛み入ります」


 家令殿の腰で、鍵束が得意げに鳴った気がした。金属に得意不得意はないので、たぶん私の聞き違いだ。


「ミレイユ。部屋へ戻り、私物をまとめよ」


「承知いたしました」


「ただし、屋敷の帳面、記録、目録の類いは一枚たりとも持ち出すな」


 返事より先に、私の首が仕事部屋の方角へ動いた。


 今夜眠る場所も、来月の賃金も、三年かけて使用人たちに覚えてもらった名前も、日没を境になくなる。盗人として追い出されれば推薦状は出ない。次の奉公先へ持っていけるのは、罪状と着替えだけだ。


 喉の奥が狭まり、靴の中で足の指が床をつかんだ。それでも最初に浮かんだのは、机の下段に積んだ紙の束だった。


「控えも、でしょうか」


「何?」


「私がつけていた出納の控えです。公の目録ではございません。三年分あります」


「なお悪い。屋敷の記録を勝手に写していたのか」


「写したのではなく、受け渡しを別に記録して」


 主人の手が上がり、私は口を閉じた。


 紐で綴じた月ごとの冊子が三十六冊。紙の角を揃え直した回数は、さすがに数えていない。数え始めると仕事にならないからだ。


「すべて置いていけ」


「ですが、あれは私が夜ごとに整理したものでして」


「置いていけ」


 追放より先に、三年分の帳面を置いていけと言われたことのほうが、指にきた。右手が宙で三を作ったまま戻らない。私も大概である。


「聞こえなかったのか」


「聞こえております。三年分、すべて置いてまいります」


「その控えは、何のためにつけた」


 王弟殿下の声だった。


 茶器は卓へ戻されている。殿下の視線が初めて私の顔へ届き、そこで止まった。私は背筋を伸ばしたが、右手はまだ三の形だったので、威厳は半分ほど失われた。


「受け渡した品の数と、返された品の数を合わせるためでございます」


「公の目録があるだろう」


「ございます。ただ、公の目録はお忙しい方々が扱われますので」


「言い方を選んだな」


「はい」


「元の言い方では?」


「たまに数が雑です」


 広間の端で、誰かが息を吸い損ねた。主人の眉間の線は、これで二本。順調に増えている。


「ミレイユ!」


「申し訳ございません。ですが、数は丁寧か雑かのどちらかです。身分に合わせて十二が十一になってくれることはございませんので」


 王弟殿下の指が卓を一度だけ叩いた。口元は手袋に隠れたが、私を見る角度が変わった。正面から、数え間違いがないか確かめるように。


「控えには何を書く」


「日付、品名、個数、渡した相手、返却日でございます。受け取った方には余白へ署名を、返された方には返却欄へ署名をいただいております」


「勝手な差し出口でございます」


 家令殿が割り込んだ。殿下へ向けた敬語だけが二枚、三枚と重なる。


「この者は、自分だけが屋敷のすべてを把握しているかのように振る舞うところがございまして。主人の許しも得ず私的な記録を作るなど、まことに出過ぎた行いにございます」


「家令殿にも、署名をいただいたことがございます」


「日々の雑事だ。いちいち覚えておらぬ」


「私も全部は覚えておりません」


「では黙っていろ」


「個数は覚えております」


 家令殿の顎が上がった。


「銀器は十一個だ」


「今は、そうです」


「目録にも十一個とある。おまえが持ち出したからだ」


「盗む前に、目録まで減らしたとおっしゃるのですか」


「口答えをするな」


 十二個を最後に受け渡した日の並びが、頭の中で開いた。十、十一、十二。一揃いを渡したあと、返却の印をつけた覚えがない。


「何を思い出した」


 王弟殿下は私から目を逸らさなかった。家令殿が一歩前へ出て、その視線の間へ肩を入れる。


「殿下、このような者の戯言にお耳をお貸しになる必要はございません。今すぐ下がらせますゆえ」


「家令殿」


 私は彼の肩越しに主人を見た。


 ここで口を閉じれば、日没までに追放される。開けば、追放の前に不敬が増える。罪状の数だけは減る見込みがない。


「控えを、ここでお確かめいただけませんか」


「ならん。屋敷の記録だ。おまえは触れるな」


「屋敷の記録ならば、検分すべきだろう」


 王弟殿下が主人へ顔を向けた。


「そなたが処せと私は言った。処すための記録を見ずに済ませるとは言っていない」


 入口には、先ほど目を伏せた若い使用人が立っていた。紐で括った帳面の束を抱え、私物か屋敷の物か決めかねているらしい。


「持ってこさせよ」


 主人が手を振ると、使用人は帳面を運んできた。私へ渡す寸前で足を止め、主人と家令殿を交互に見る。


「卓へ置け」


 紐が卓の角に当たり、一番上の冊子だけが斜めになった。手を出しかけた私より早く、家令殿が冊子をつかむ。


「私的な走り書きを殿下の御前へ出すなど、許されることではございません」


「斜めです」


「何?」


「いえ、今それどころではありませんね」


「どの冊子だ」


「三年前の、秋の三冊目でございます」


「迷わないのか」


「品を受け渡した日が雨で二日延びました。その月だけ返却日と受領日が逆順に並んでおります」


「開け」


 主人の命令が落ちた。


 家令殿は冊子を卓へ戻さず、そのまま束の下へ押し込もうとする。腰の鍵束が卓の縁へぶつかった。


「お待ちくださいませ。正式な目録と同列に扱えるものでは決して」


「置け」


 王弟殿下の一言で、家令殿の手が止まった。


「私は屋敷の記録を守ろうと」


「守る者は、頁を隠さない」


 家令殿の指先が表紙を曲げた。


 私は束を抱え直した。三年分の重さが腕へ沈み、紐の跡が袖に食い込む。この束を守るために黙るつもりだったのに、この束を開かなければ、書いた三年間ごと盗人の手仕事にされる。


「家令殿。その冊子をお戻しください」


「盗人が私に命じるな」


「返してくださいませ」


 王弟殿下は何も言わなかった。ただ席を立ち、私たちの間へ一歩進んだ。


 家令殿の手が冊子から離れた。


 指で紐を解く。結び目を一度取り損ねた。王弟殿下の視線だけが、私の手元から動かなかった。


「差し出口を、お許しくださいませ」


 該当する一冊を抜き、曲がった表紙を卓の縁へ揃える。


「日付は、三年前の秋、雨の二日後です」


 頁を開く。


「銀器一揃い、十二個。私から家令殿へ渡しました」


 受領欄を示す。


「ここに、十二個受領の署名があります。私の字ではありません」


 紙の上に、グレゴールの名があった。


「返却欄は空白です」


 主人が正規の目録を引き寄せた。受領日より後の欄には、削られた紙の上へ「十一」と書き直されている。十二の二だけを削り、一を寄せた跡だった。


 主人が署名と家令殿の顔を見比べた。


「グレゴール。おまえの署名か」


「私の筆跡に似せたものです。この女が返却の記入を怠り、後から署名を書き加えたのでしょう」


「返却時には、返した方ご本人に返却欄へ署名をいただきます」


「そのような勝手な決まりは知らぬ」


「家令殿は三年間で七度、返却欄へ署名されています」


 私は同じ冊子の綴じ紐へ指を置いた。


「必要でしたら七件の日付を申し上げます」


「必要ない」


 王弟殿下は家令殿を見たまま言った。


「知らぬ決まりに、七度も従ったのか」


 家令殿は右手を袖へ隠した。腰の鍵束が大きく揺れ、金属同士がぶつかった。


「右手を出せ」


 主人が命じた。


 卓上の筆と紙が家令殿の前へ置かれる。彼は左手で筆を取ろうとし、主人が筆軸を押さえた。


「いつから左利きになった。右手で名を書け」


「旦那様、まずは事情を」


「書け」


 家令殿の膝が床についた。右袖の奥から出た手が筆を握り、紙へ名前を記す。帳面の署名と同じ癖で、末尾だけが上へ跳ねた。


「鍵を外せ」


「旦那様!」


「銀器庫、書庫、金庫。すべてだ」


 若い使用人が家令殿の腰へ手を伸ばした。留め金は二度滑り、三度目で外れる。鍵束の重みが両手へ落ち、家令殿の腰から金属音が消えた。


 主人は鍵束から最も小さな鍵をつまみ上げた。


「これは私室の小箱の鍵だな」


「私物でございます。今回の件とは何の関わりも」


「ならば開けても差し支えない」


 家令殿の右手が床を擦った。


 主人は使用人二人に命じ、その場で小箱を持ってこさせた。箱は抱えられるほどの大きさで、底を卓へ置いた音だけが広間に残った。


 小さな鍵が錠へ差し込まれる。


「お待ちくださいませ」


 家令殿が一歩分だけ膝を進めた。


 錠が開いた。


 布と書類の下から、白い包みが取り出された。主人が布をほどく。中にあった銀器の柄には、この屋敷の印が半分だけ残っていた。残り半分には、刃物で削った筋が走っている。


 長卓の十一個と同じ形だった。


 主人がそれを正規の目録の横へ置く。若い使用人が帳面をのぞこうと一歩近づき、それに続いて使用人たちも距離を詰めた。私一人ぶん空いていた隙間が消えた。


「十二個目だ」


 主人が言った。


「受領した署名がある。返却の署名はない。目録は受領後に十一へ直され、おまえの小箱から印を削りかけた品が出た」


「それは、この女が私室へ入れて」


「家令殿の私室の鍵は、今までどちらに?」


 私が尋ねると、家令殿の視線が腰へ落ちた。


「おまえ自身が持っていたな」


 主人が鍵を卓へ置いた。


「それでもミレイユが盗んだと申すか」


 家令殿の口が二度動いた。


「帳面さえ処分できれば、この女の言い分など誰も」


 右手が口を塞いだ。続きは出なかった。


「別室へ連れていけ」


「旦那様、私は長年この家に」


「処分が決まるまで、屋敷の物には触れさせるな。調べるのはこやつの管理分だけだ。他の使用人へ責任を広げる必要はない」


 家令殿は両腕を取られた。私の前を通るときも右手で口を覆い、顔だけがこちらを向いていた。


 私は帳面の頁を閉じた。署名は消えない。見送る仕事も、私の職務には入っていない。


 扉が閉まると、主人は私へ向き直った。追放を告げたときより顎が下がっている。


「ミレイユ。此度の処分は撤回する。窃盗の疑いは記録から抹消し、おまえの無実を全使用人へ布告する」


「はい」


「屋敷内だけでは足りぬ。今朝、追放予定を伝えた出入りの商人にも、私の署名で訂正文書を送る。推薦状には三年の働きと、証拠も調べずおまえを疑った私の非を記す」


 主人は正規の目録を自分の前へ引き寄せた。


「この目録を信じ、記録を取ったおまえを疑った。私の誤りだ。特別報酬を支払い、この記帳法を正式に採用する。管理も任せたい」


「では、控えは捨てずに済みますか」


「無論だ。むしろ屋敷の記録として保管させてくれ」


「私が書いたものですので、紙の角を折らない方を担当にしてくださいませ」


「必ずそうしよう」


 私は三年分の束を胸元へ寄せた。息を吸うと、狭かった喉へ空気が通った。着替えだけを抱えて門を出る時刻を、もう数えなくてよい。


 若い使用人が私と目を合わせた。


「ミレイユさん」


 昨日までと同じ呼び名だった。


「信じられなくて、すみませんでした。私も、そこを空けました」


 彼女の視線が、使用人たちの間から消えた隙間へ落ちた。


「一番上の冊子が斜めです」


「はい」


「表紙を直して、月ごとに並べてください。三十六冊あります」


「全部、私がやります」


「一人では角を折ります。二人でお願いします」


 若い使用人は隣の使用人を呼び、両手で冊子を受け取った。


「その記帳方法は、誰に習った」


 王弟殿下が立ち上がっていた。


「誰にも。受け渡した数を忘れると、眠る前に指が勝手に数え始めますので」


「だから書いた?」


「はい。紙に覚えてもらえば、指を休ませられます」


「三年間、一日も欠かさずか」


「休みの日は書いておりません」


「訂正が早いな」


「日数が違いますので」


 王弟殿下は卓を回り、私の前まで来た。先ほどまでは女官の一人ぶんも向けられなかった視線が、今は私から外れない。


「本日の出立を明朝へ延ばす」


「殿下?」


「訂正文書が出るまで見届ける。王家の印も添えよう。そなた一人の謝罪より、疑いを広めた範囲へ確実に届く」


 主人が深く頭を下げた。


 王弟殿下は私の抱える帳面へ視線を移した。


「その後、王宮へ来い。出納の管理役として部屋と補佐を用意する。待遇は」


 殿下の言葉が止まった。


 私は若い使用人が直してくれた冊子を撫で、まだ浮いていた角を押さえた。指の震えで、今度は隣の冊子がずれる。そちらも直そうとすると、王弟殿下の手が先に表紙へ触れた。


「その手が震えているのに、あなたは帳面の角ばかり直すのだな」


「曲がっておりますので」


「罪を着せた家の明日の仕事を、無実になった直後に心配するのか」


「乱れたままでは、次の方が困ります」


 王弟殿下は私の指先を見たまま、外套の留め具へ手をやった。出立用に留めていた金具を外し、近くの椅子へ外套を置く。


「殿下。明朝まで延ばすだけでは?」


「今は、それで足りると思っていた」


 殿下は私へ差し出しかけた手を一度引いた。


「王宮の出納管理役として、あなたを召し抱える。そのつもりで、部屋も補佐も待遇も考えた」


「ありがたきお話でございます」


「だが、取り消す」


「早くありませんか」


「自分の明日を奪われかけた者が、他人の明日の仕事を整えようとしている。その手を、職務の名で囲いたくない」


「囲う予定がおありだったのですか」


「今、捨てた」


 決断が早すぎる。私は三年間も控えを捨てられなかったのに、殿下は役職も待遇も四呼吸ほどで捨ててしまった。


「では、何のために王宮へ?」


「職務ではなく、生涯の伴侶として必要だ」


 抱えていた帳面の一番上が二寸ほどずれた。私は落とさないよう腕を締める。三十六冊。合っている。数は合っているのに、指先だけが帳面の角を何度も探った。


「本日、初めてお名前を呼んでいただいたと思うのですが」


「覚えた。二度と忘れない」


「私のことを、先ほどまでご覧にもなっていませんでした」


「見ていなかった。今は見ている」


「切り替えが急ではございませんか」


「遅れたぶんを取り戻す」


「何日ぶんでしょう」


「生涯をかけて数える」


 王弟殿下は一歩近づいた。私が帳面を抱えて一歩下がると、同じだけ詰めてくる。距離の帳尻まで合わせなくてよい。


「殿下、求婚には順序というものがございます」


「では順に行う。まず、この屋敷の目録を整える仕事を手伝う」


「殿下がなさるお仕事ではございません」


「次に、三十六冊を保管する棚を用意する」


「今後も増えます」


「部屋ごと用意する」


「冊数に対して規模が大きすぎます」


「あなたの生活も置ける」


 言葉の置き場所に困り、私は帳面を持ち直した。


「お返事を、本日中に申し上げる必要はございますか」


「ない。だが、申し込んだことは記録してほしい」


「私的な控えになりますが」


「必要なら署名する」


「返却欄はございませんよ」


「返すつもりがない」


 主人が咳払いをしたが、殿下は振り向かなかった。使用人たちも、今度は近づきも離れもせず、顔だけをこちらへ揃えている。


 王弟殿下の手が帳面の下へ回った。三十六冊の重みを半分引き受け、そのまま私の右手を取る。


「一つ足りません」


 今度は私が眉間へ線を作る番だった。銀器は十二個に戻った。帳面は三十六冊。鍵も主人の前に揃っている。ここまで数えて、まだ不足があるなら見過ごせない。


「何が足りないのでしょう」


「あなたが隣にいない」


「伴侶は備品ではございませんので、数に入れないでくださいませ」


「では、備品ではないあなたに頼む。私の隣へ来てほしい」


 王弟殿下は手を離さなかった。


 私は帳面を落とさない角度を確かめてから、卓の向こう側を回る。


「今は帳面を運ぶためです」


「構わない」


「求婚をお受けした数には入りません」


「ならば明日も、同じ一件の返事を待つ」


「毎日、新しい一件として加算してはいけません」


「その一件を、生涯取り下げない」


 主人が帳面を引き受けようと手を伸ばした。


「殿下、そちらは私が」


「いや。私が持つ」


「三十六冊ございますが」


「半分なら十八冊だ。彼女の隣で運べる」


「冊数の問題ではございません」


「では、何の問題だ」


 答えに詰まった私が歩き出すと、王弟殿下も帳面の半分と私の手を持ったまま隣へついてくる。速さまできっちり同じだった。


 右手を引こうと思えば、引けた。帳面はもう半分ずつ持てているのだから、離さない理由にはならない。


 けれど私は、冊子の角度を確かめるふりをして、その手を残した。


 明日も返事を待たれることを、避けるための予定は浮かばなかった。


 その数え方だけは、まだ私のどの帳面にも載っていなかった。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ