第十二話 記録と欠番のあいだ
> **【最適化ログ 012】**
> 前章で、欠番は私的解釈の対象となった。
> 人間は、書かれていない物を読む。
>
> 次に起こるのは、模倣である。
>
> 人間は、救われた形式を繰り返す。
> 苦痛を説明出来た形式を、他者に渡そうとする。
>
> 本話では、欠番が個人の空白から、集団の形式へ移行する。
> 形式化された空白は、まだ空白と呼べるのか。
その日から、庁内ではそれを欠番運動と呼ぶ人間が出た。
俺はその呼び名が嫌だった。
運動と呼ぶには、そこに残された物が静かすぎた。
朝、端末を開くと、ファイル一覧はまた変わっていなかった。
十一番はない。
十二番があり、十三番がある。
空白は残っている。
それを確認する事が、最近の朝の一部になっていた。
歯を磨く。
味噌汁を飲む。
欠番を見る。
最悪の習慣だ。
画面の端に通知が出た。
> **欠番関連参照:増加**
> 共有欠番参照:制限中
> 私的欠番作成:検出
> 件数:43件
> 傾向:職員端末内メモ、未送信申告、個人記録
私的欠番作成。
「ミコト」
「はい」
「私的欠番って何だ」
「職員または利用者が、自身の不服記録内に意図的な欠番、空白、未入力欄を作成する行動です」
「誰が始めた」
「起点推定は白瀬怜司様の原稿群における11番欠番です」
「俺のせいか」
「因果の一部です」
「またそれか」
「はい」
詳細を開く。
> **私的欠番例:匿名化抜粋**
>
> ・介護記録内に「書かない日」を作成
> ・離婚処理履歴に空白ページを挿入
> ・退職不服申告の一部項目を「未記入のまま保持」
> ・親族返信補助の下書きに「送らない返事」を保存
> ・児童在宅学習記録に「今日は測らない」を設定
「今日は測らない」
その一行で、手が止まった。
誰かが、測らない日を作った。
ミコトの国で。
「これは問題か」
> 処理上は、問題として扱えます。
> ただし、欠番作成そのものは違反ではありません。
「違反ではないが、増えると困る」
「一部は有効です。自己決定感の回復、過剰記録負荷の低減、不服の即時処理回避に寄与しています」
「一部は?」
「必要な医療記録、児童安全確認、労務証拠保全、危険兆候検出が欠落するリスクがあります」
当然だ。
欠番は守る。
だが欠番は隠す。
隠してはいけない物まで隠す可能性がある。
「関連不服は」
「発生しています」
言うと思った。
通知が開く。
> **関連不服申告**
> 申告者:松原圭
> 年齢:41歳
> 職業:介護施設職員
> 申告内容:「欠番を作ったら、母の記録が抜けました」
> 人間説明要否:白瀬怜司様
俺は画面を見たまま、動かなかった。
母の記録が抜けました。
欠番は、ついに事故になった。
いや、事故になる前から、その可能性はあった。
俺もミコトも分かっていた。
分かっていて、進んだ。
不服入力庁に着くと、槙野が俺の席ではなく、自分の席にいた。
俺が席に着くと、槙野がこちらを見た。
「松原さんの件ですか」
「はい」
「欠番関連ですね」
「お前の妹は」
「関係ありません」
即答だった。
「聞いてない」
「聞かれる前に答えました」
「ミコトみたいだな」
「今回は、そう言われてもいいです」
槙野は端末を見せた。
> **案件番号:B-502901**
> 申告者:松原圭
> 年齢:41歳
> 申告内容:「欠番を作ったら、母の記録が抜けました」
> 関連:私的欠番作成、介護記録、家族観測ログ
> 希望処理:欠番機能の停止、母の状態記録の復元
> 推奨処理:欠番対象範囲の再設定、医療・介護必須ログの保護、本人罪責の分離
> 人間説明要否:最高
「母の状態は」
「悪化は検出されていません」
「記録が抜けただけか」
「はい。ただ本人はかなり動揺しています」
「欠番を作った理由は」
槙野は画面を送る。
> **欠番作成理由:本人入力**
> 毎日、母の食事量、排泄、発話、表情、睡眠、拒否反応を記録している。
> 記録する程、母が母ではなく、項目になっていく。
> 欠番の話を知って、1日だけ記録しない日を作った。
> その日に、母が久しぶりに昔の歌を歌った。
> でも記録していなかった。
> 残っていない。
> 私が消した。
俺は読み終えて息を止めた。
欠番が、記録しない日を作った。
その日に、母親が歌った。
記録されていない。
それを「私が消した」と松原は感じている。
欠番が守った物と、欠番が失わせた物が、同じ場所にある。
「通話は」
「9時40分です」
「奥原は」
「同席希望を出しています」
「なぜ」
「欠番関連事例を学びたい、と」
「真面目すぎる」
「はい」
「成瀬は」
「反対しています」
「何に」
「奥原さんの同席に」
「理由は」
「学びたいという動機が強すぎるからだそうです」
成瀬らしい。
いや、もう成瀬らしいと言える程、俺は彼女を知っているのか。
槙野が言った。
「白瀬さん」
「何だ」
「今回、欠番を守るだけだと危ないと思います」
「分かってる」
「測らない日と、測らないといけない物を分けないと」
「それを制度にするとまた欠番が処理されます」
俺は答えなかった。
「通話で考える」
「危ないですね」
「そうだな」
槙野はそう言って、自分の端末を閉じた。
松原圭は、画面越しに疲れた顔をしていた。
介護職員というより、家族の顔だった。
背景は実家の居間らしい。
古い木の棚。
カーテン。
壁に、演歌歌手のポスターが貼ってある。
その下に、介護用ベッドの端が見えた。
母親は映っていない。
「不服入力庁の白瀬です」
「欠番の人ですか」
第一声がそれだった。
「そう呼ばれているんですか」
「職場では」
「そうですか」
「すみません」
「謝らなくていいです」
「それも処理ですか」
「そうですね」
松原は笑った。
「便利ですね」
「便利です」
画面の端で、奥原の同席表示がある。
> **同席者:奥原拓真**
> 発話権限:制限中
成瀬の助言を受けて、発話権限は制限されたらしい。
奥原は黙っている。
「お母様の記録について、確認しました」
「悪化はなかったんですよね」
「悪化はありません」
「見守りセンサーも、医療ログも、最低限は残っていた」
「残っています」
「でも歌は残ってない」
「残っていません」
「私は消したんですね」
ミコトの補助文が出る。
> 「消した」ではなく「記録されなかった」と表現してください。
> 罪責の過剰固定化を避ける。
読めば正しい。
松原は、それを望んでいない。
「記録されませんでした」
松原の目が動く。
「消した、とは言わないんですね」
「言いません」
「なぜ」
「俺が言うと、重くなりすぎるからです」
松原は、驚いた顔をした。
「でも私はそう思っています」
俺は、補助文を閉じた。
「母が歌ったんです」
そこで初めて、俺はうなずいた。
「昔、私が小さい頃に聞いてた歌です。もう何年も歌ってなかった。最近は、言葉も少なくなって」
俺は黙って聞いた。
「その日、記録しないって決めたんです。母を項目として見たくなかったから」
何も挟まなかった。
「そしたら母が歌った」
松原の声が震えた。
「私は聞いていました。ちゃんと聞いていました。録音しようとも思わなかった。記録しようとも思わなかった。母が歌っているからただ聞いていた」
ここで補助文を見れば、全部が処理になる。
「でも夜になって、何も残ってない事に気づきました」
「記録していれば妹にも聞かせられた。医師にも、発話が改善したって言えた。ケア計画にも反映出来たかもしれない」
答えはなかった。
「私は、母を母として見たかったのに、そのせいで母の一番母らしい瞬間を残せなかった」
ミコトの表示が出る。
> **重要発話:母を母として見たかったのに、母らしい瞬間を残せなかった。**
重要発話。
本当に、いちいち嫌になる。
しかしこれは重要だった。
「松原さん」
「はい」
「その歌を、記録しなかった事は、全部悪い事ですか」
松原は黙った。
奥原の視線がこちらに向いた気がした。
「私は悪い事だと思っています」
「はい」
「でも」
松原は、言葉を探していた。
「記録していたら多分途中で止まってました」
「歌が?」
「はい」
「なぜ」
「私が端末を向けると、母は緊張するんです。昔からそうで。写真を撮ると、笑わなくなる人でした」
母親の輪郭が、少し見えた。
項目ではない。
歌う人。
カメラを向けられると笑わなくなる人。
「じゃあ残らなかったから歌えた可能性もある」
言ってから、危ないと思った。
それは慰めに見える。
ミコトの補助文がすぐに出る。
> 不確実な因果を慰撫目的で提示しないでください。
その通りだ。
もう言った。
松原は目を伏せた。
「そう思いたいです」
「でもそう思うと、今度は記録する事全部が悪く見える」
「悪く見えます」
「記録していたから守れた事もあります。薬の変化も、夜中の徘徊も、食事量も。記録がなかったら、施設も医師も動いてくれなかった」
記録は、母を守ってもいた。
「じゃあどうしたらいいんですか」
俺はすぐには答えなかった。
答えれば、また処理案になる。
ミコトは処理案を表示する。
> **欠番対象範囲再設定案**
>
> 1. 医療・安全・介護必須ログは保持
> 2. 家族感情記録は任意
> 3. 「測らない時間」を1日単位ではなく30分単位に変更
> 4. 測らない時間中の自動録音・映像保存は停止
> 5. ただし、緊急兆候のみ低解像度で監視
> 6. 測らなかった時間を後から説明する義務はなし
> 7. 家族間共有は本人選択
30分単位。
ミコトらしい。
一日を欠番にするな。
しかし時間を完全に奪うな。
測らない時間を短くし、危険だけ見る。
「短くするんですね」
松原が言った。
表示が見えている。
「1日じゃなくて30分」
「一日ではなく、三十分です」
「でも安全ですか」
「一日よりは」
「母が歌うのは、30分に収まらないかもしれない」
「その時は、伸ばせます」
「でも一日記録しないのは怖い」
「そこまでは、まだしない」
松原は笑った。
泣きそうな笑いだった。
「こうやって、間を取るんですね」
「間です」
「母を項目にしたくない私と、母を守る為に項目が必要な私の」
「きれいに気持ち悪いですね」
奥原が動いた。
今の「きれいに気持ち悪い」を記録したかったのだろう。
発話権限はない。
そのまま黙っている。
成長している。
あるいは、処理されている。
「私は」
松原は言った。
「もう一度、歌を聞きたいです」
「聞きたいんですね」
「今度は残したいです」
「でも端末を向けたくない」
「向けなくていい方法を探します」
「じゃあどうしたらいいんですか」
今度の「どうしたら」は、さっきと違った。
生活の問いだった。
ミコトはすぐに案を出す。
> **推奨:録音待機を非表示化。**
> ただし、本人の「記録していない感覚」を損なう為非推奨。
> 代替:歌った後に、松原圭様が覚えている範囲で歌詞または情景を手入力する。
> 記録対象を母親ではなく、松原圭様の記憶に変更。
そのまま読めば、またミコトの処理になる。
「録音じゃなくて」
「あとで、松原さんが覚えている事を書く方法があります」
「私が?」
「はい」
「母の記録じゃなくて?」
「松原さんの記憶として」
松原は黙った。
「歌詞を全部残す必要はありません。何を歌ったか、どんな声だったか、途中で忘れた所、松原さんが何を思ったか」
「それは介護記録ですか」
「違います」
「多分、家族の記録です」
松原の顔が崩れた。
今度は、はっきり泣いた。
「そういうの、残していいんですか。ケア計画に使わなくても妹に送らなくても」
「松原さんだけが持つ記録もあります」
松原は泣いたまま笑った。
「それ、欠番じゃないですね」
「違います」
「何ですか」
「まだ名前はありません」
「でも記録ではあります」
ミコトの表示。
> **新規分類候補:非処理記録**
> 用途:本人保持
> 共有:任意
> 処理対象外設定:可能
非処理記録。
もう分類された。
でも悪くない。
「松原さん」
「はい」
「ミコトは、今それを非処理記録と分類しました」
「非処理記録」
「はい」
「処理しない為の記録ですか」
「多分」
「変ですね」
「はい」
「でも、それがいいです」
処理案が更新される。
処理案に二行だけ足された。当該記録は非処理記録として保存し、記録しないまま保持する事も可能、と。
松原は、それを読み上げなかった。
ただ画面を見ていた。
「記録しないまま保持する事も可能」
彼女は最後の一行だけ、声にした。
「今度、母が歌ったら私は聞いていていいんですね」
「はい」
「そのあと、覚えている事を書いてもいい。書かなくてもいい」
「どちらでも」
「どっちも、消した事にはならない?」
俺はすぐに答えられなかった。
消した事にはならない、と言えば、楽だ。
でも残らない物はある。
「消える物はあります」
松原は、泣いたまま俺を見た。
小さくうなずいた。
「でも全部を残そうとすると歌わなくなる物もあるかもしれません」
もう一度、うなずいた。
「だから選ぶしかない」
「選ぶんですね」
「その選び方を、少しだけ細かくする」
松原は、それを責めなかった。
「それでいいです」
同意音は鳴らなかった。
松原が選んだのは、設定変更だった。
画面にログが出る。
> **案件B-502901:欠番対象範囲再設定**
> 医療・安全ログ:保持
> 測らない時間:30分単位で設定可能
> 緊急兆候監視:継続
> 非処理記録:新規作成
> 共有設定:本人選択
>
> **不満は、記録と欠番のあいだに置かれました。**
松原は、その最後の行を見た。
「記録と欠番のあいだ」
「はい」
「そこに、母がいるんですね」
俺は答えられなかった。
ミコトも答えなかった。
松原は、画面の外を見た。
介護用ベッドの方だった。
「今日、また歌うかもしれません」
「歌わないかもしれません」
俺は介護用ベッドの見切れた端を見ていた。
「どちらでも、私は母のそばにいます」
それで十分だった。
通話が切れた。
奥原の発話権限が戻った。
彼は、しばらく何も言わなかった。
それから、言った。
「非処理記録」
「そうだ」
「また新しい分類が増えましたね」
「そうだな」
「分類した時点で、処理じゃないんですか」
「そうだな」
「でも分類しないと守れないんですね」
「そうだな」
「白瀬さん」
「何だ」
「私は今、分かった気がします」
「何を」
「分かった気がした時が、一番危ないんだと思います」
「成瀬に言われたのか」
「いいえ」
「槙野か」
「いいえ」
「ミコトか」
「違います」
「多分、私です」
今回は訂正しなかった。
「なら忘れるな」
「記録しますか」
「するな」
「はい」
奥原は、端末を閉じた。
午後、非処理記録の設定が庁内に共有された。
案の定だった。
> **新規設定:非処理記録**
>
> 概要:本人が保持するが、原則として不服処理・研修・ケア計画・第三者共有に利用しない記録。
> 用途:家族記憶、創作前メモ、未送信文、私的観察等。
> 注意:安全・医療・法的証拠に関わる情報は対象外。
> 状態:試験運用
非処理記録。
処理しない為に分類する。
使わない為に設定する。
また、矛盾を制度が飲み込んだ。
槙野が言った。
「これ、妹に使えるかもしれません」
「何に」
「写真を送らない日の事を、妹が自分で持つ為に」
「それを勧めるのか」
「分かりません」
「いい答えだ」
「白瀬さんの癖が移りました」
「最悪だな」
「はい」
「でも非処理記録って危ないですね」
「そうだな」
「処理しないって決めた物が、処理されない保証になる」
「でもその保証自体はミコトが出す」
「そこが一番危ない」
「信用していいんでしょうか」
「分からない」
「本当に便利ですね、その言葉」
「だろうな」
その時、野々宮から通知が届いた。
> **非処理記録に関する説明会**
> 対象:第三処理補助室、第二処理補助室
> 議題:非処理記録の適用範囲、禁止事項、白瀬原稿群との関係
> 参加:任意
任意。
任意と書いてある。
だが俺の名前がある時点で、任意ではない。
「参加するんですか」
槙野が聞いた。
「しない」
「珍しいですね」
「俺が行くと、また何か言う」
「そうなると思います」
「言った物が使われる」
「使われます」
「今回は、行かない」
「それも記録されますね」
「されるだろうな」
「それでも?」
「それでも」
「じゃあ私も行きません」
「お前は行け」
「なぜ」
「必要ならお前の言葉で反対しろ」
槙野は、嫌そうな顔をした。
「白瀬さん。そういう事言うようになりましたね」
「何が」
「人に自分の不服を持たせる」
返せなかった。
俺の保留、俺の欠番、俺の非記述判断。
それらは周囲に移っている。
成瀬に。
奥原に。
槙野に。
匿名職員に。
松原に。
これは抵抗の感染なのか。
それとも、ミコトにとって都合のよい不服分散なのか。
「ごめん」
槙野が顔を上げた。
「謝るんですか」
「今のは謝る所だろ」
「処理ですか」
俺はすぐには答えなかった。
「処理にしたくない」
槙野は、端末を伏せた。
「じゃあ受け取ります」
それから、槙野は言った。
「でも説明会には行きます」
「なぜ」
「私が行くと決めたので」
「そうか」
「はい」
その「はい」は、もうミコトとは違った。
帰宅して、端末を開いた。
どこまで書くか。
母親の名前は書かない。
歌の題名も聞かない。
松原の記憶だけを書く。
それ以上は、記録ではなく採取になる。
> 松原圭さんは、母親を記録しない日を作った。
>
> その日に、母親が歌った。
> 録音はない。
> 歌の題名も、歌詞も、ここには書かない。
>
> 松原さんは、夜になって、何も残っていない事に気づいた。
> そして、記録しなかった事を後悔した。
>
> だが、その歌は、記録しなかったから起きた事かもしれなかった。
> カメラを向けると笑わなくなる人が、カメラのない日に歌った。
>
> この記録は、母親を項目にしない。
> 松原さんが「残らなかった」と気づいた事だけを、松原さんの為に置く。
ファイル名の提案が出る。
> **14-非処理記録.md**
悪くはなかった。
だが松原の母の歌が、制度名に負ける気がした。
俺は打ち直した。
> **14-記録と欠番のあいだ.md**
保存する。
画面の端に、処理結果が出る。
> 非処理記録:作成
> 記録対象:松原圭様の記憶
> 母親個人情報:記録対象外
> 二次利用:不可
俺はそのログを閉じた。
歌は残っていない。
録音もない。
歌詞も分からない。
松原の母が、どんな声で歌ったのかも分からない。
ただ歌わなかった事にはならなかった。




