第十話「炎の子らの唄」
軍が去ってから、七日が過ぎた。
集落は静かだった。
戦にはならなかった。渡し場が守られた。向こう岸の鬼の里も、無事だった。
ルカの父クダは、族長として集落に残った。
しかしその目が、少し変わった。
以前のような、遠くを怖れる目ではなくなった。
何かを、決めた者の目になっていた。
その日の朝、ルカとセナは丘へ行った。
サブレ様が待っていた。
今日は木の根元ではなく、丘の一番高いところに立っていた。
風が吹いていた。白い髪が、風に揺れていた。
「来たか」とサブレ様は言った。
「来ました」とルカは言った。
「決めたか」
「決めました」とルカは言った。
「炎を継ぐか」
「継ぎます」とルカは言った。「常火を守ります。この族のために。渡し場のために。そして——サブレ様が、ずっと一人でやってきたことを、俺が引き継ぐために」
サブレ様はルカを見た。
金色の目が、静かだった。
「一人ではない」とサブレ様は言った。
「はい」とセナが言った。「私もいます」
「炎を継ぐのはルカだが」とサブレ様は言った。「炎を呼ぶのはセナだ。二人で一つだ、と言った。覚えているか」
「覚えています」とセナは言った。
「二人で守れ」とサブレ様は言った。「常火を。渡し場を。この族を。どちらか一人ではなく、二人で」
「二人で」とルカは言った。
「二人で」とセナも言った。
サブレ様はしばらく、二人を見ていた。
それから、ゆっくりと手を差し出した。
右手を。
ルカが右手を出した。
サブレ様の手が、ルカの手を包んだ。
温かかった。
常火の温かさと同じ温かさだった。
光が、手のひらから手のひらへ、流れていった。
橙と金の光が、サブレ様からルカへ。
「受け取れ」とサブレ様は言った。
ルカは目を閉じた。
光が流れてくるのを感じた。
温かかった。重かった。長い時間の重さがあった。何百年もかけて積み重なってきた、炎の記憶のようなものが、ルカの手の中に流れ込んできた。
そこには、名前があった。
ハル。
ミナ。
サレン。
そして、名前を持たない多くの者たち。
川を渡った者。渡さなかった者。選んだ者。選び直した者。離れた者。離れたくないと言った者。
その全てが、炎の中にあった。
しばらくして、サブレ様が手を離した。
ルカは目を開けた。
手のひらが、光っていた。
橙と金の光が、ルカの手のひらの中で揺れていた。
「受け取った」とルカは言った。
「受け取った」とサブレ様は言った。
セナが、ルカの手を見た。
「きれい」とセナは言った。
「きれいか」とルカは言った。
「きれい」とセナは言った。「サブレ様が言っていた通りだ。きれいかどうか、自分では分からなくなるって。でも、私には分かる。きれいだ」
ルカは手のひらを見た。
光が揺れていた。
「サブレ様」とルカは言った。「サブレ様はどうなりますか。炎を渡したら」
「軽くなる」とサブレ様は言った。
「軽くなる?」
「長い間、持っていたものを渡したから」とサブレ様は言った。「軽くなる。それだけだ」
「この丘からいなくなりますか」とセナは言った。
「いなくならない」とサブレ様は言った。「ここにいる。ただ、以前より軽い状態で」
「良かった」とセナは言った。
「良かったか」
「いなくなったら、寂しいから」とセナは言った。
サブレ様は、セナを見た。
また、あの目になった。
解けたような、ほっとしたような目。
「寂しいと思ってくれるか」
「思います」とセナは言った。「ルカも思います」
「俺も思います」とルカは言った。
「そうか」とサブレ様は言った。「そうか」
風が吹いた。
丘の上に、朝の光が満ちていた。
橙と金の光が、三人を照らした。
常火の色と、同じ色だった。
それから、季節が変わった。
ルカは毎日、炎の使い方を学んだ。
サブレ様が教えた。セナが傍にいた。
炎は少しずつ、大きくなった。
夜、集落に明かりが要る時、ルカが手をかざした。集落が明るくなった。
誰かが寒い時、ルカが傍に立った。温かくなった。
それだけだった。
しかしそれだけで、十分だった。
セナは記録し始めた。
何が起きたか、ではなく。
誰がいたか、を。
サブレ様のこと。サレンという名前だったこと。渡し場の番人だったハルとミナのこと。常火のこと。軍が来て、去ったこと。ルカが炎を継いだこと。
几帳面な字で、丁寧に。
「なぜ書くの」とルカは聞いた。
「記録しておかなければ、なかったことになってしまうから」とセナは言った。
ルカはその言葉を聞いた。
どこかで聞いたことがある言葉のような気がした。
「その言葉、誰かに言われた言葉か」とルカは言った。
「自分で思った言葉」とセナは言った。「でも——ずっと昔から思っていた気もする」
「ずっと昔から」
「そう」とセナは言った。「あるいは、前の巡りから」
「前の巡り」とルカは言った。
「うん」とセナは言った。「なんとなく、この場所に前にも来た気がする。別の形で、別の名前で。でも、同じ場所に来た気がする」
ルカは丘の方を見た。
丘の上の木が、空を向いて立っていた。
「俺も」とルカは言った。「そういう気がする」
「次の巡りにも来るかな」とセナは言った。
「来ると思う」とルカは言った。「常火がある限り、来ると思う」
「常火は消えない」とセナは言った。
「消えない」とルカは言った。「今日の俺が守っている」
「そして次の巡りの誰かが守る」とセナは言った。
「ハルとミナが選んだように」
「サレン様が守ってきたように」
「サブレ様が、何百年もしてきたように」
二人は並んで、丘を見ていた。
夕暮れが来ていた。
橙と金の空が、山の上に広がっていた。
「きれい」とセナは言った。
「きれい」とルカは言った。
常火の色が、空に広がっていた。
消えずに、今日も。
丘の上で、サブレ様が木の根元に座っていた。
目を閉じていた。
炎を渡してから、以前より穏やかな顔をしていた。
軽くなった、と言っていた通りだった。
風が吹いた。
白い髪が揺れた。
耳が、かすかに動いた。
二人の声が、聞こえていた。
きれい、という声が。
サブレ様は、口の端を少しだけ上げた。
笑った。
今日は、ちゃんと笑った。
炎の子らの唄は、今日も続く。
常火の傍で。
丘の上で。
渡し場の川沿いで。
消えずに。
(第十話 了)
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サブレ様の一族――炎の子らの唄 完




