16.すれ違った温度
それは、本当に一瞬だった。
放課後、いつものように少し遠回りして帰る途中。
あの道に入って、色麻工業高校の前に差し掛かる少し手前。
人通りが、少しだけ多かった。
部活が終わる時間帯と、下校の時間が重なっているらしい。
見慣れてきたはずの景色。
でも、その日はどこかだけ違っていた。
「……」
陽咲の歩く速度が、ほんの少しだけ落ちる。
私は何も言わない。
ただ、横で同じペースに合わせる。
前から、数人の男子が歩いてくる。
制服。
色麻工業高校のもの。
特に珍しくもない光景。
でも――
「……あ」
陽咲が、小さく声を漏らした。
その瞬間、空気が変わる。
私は反射的に、陽咲の視線の先を見る。
一人。
真ん中あたりを歩いている男子。
笑ってはいない。
でも、口元が少しだけ動いている。
距離が、縮まる。
一歩ずつ確実に。
「……」
陽咲は、立ち止まらない。
でも、目が離れていない。
今まで見てきた“探す目”とは、明らかに違う。
止まっている。
固定されている。
――見つけた、のかもしれない。
私は何も言えない。
言葉を挟むタイミングなんて、どこにもない。
その男子が、少しだけ顔を横に向ける。
ほんの一瞬。
視線が、こちらの方向に向く。
でも、合わない。
ただ通り過ぎるだけの、すれ違い。
距離は、もうすぐゼロになる。
すぐ横を通る。
――近い。
思っていたよりも、ずっと近い。
その瞬間、陽咲の呼吸が、止まったように見えた。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
そして――
すれ違った。
それだけ。
何も起きない。
声もかけないし、目も合わない。
ただ、通り過ぎただけ。
それなのに。
数秒前とは、明らかに何かが違う。
少し歩いてから、陽咲が立ち止まった。
「……ねえ」
声が、少しだけ掠れている。
「なに」
私は静かに返す。
「今の」
そこで言葉が止まる。
でも、続きは分かる。
「……どう思う?」
私は少しだけ振り返る。
もう、その姿は少し遠くなっている。
背中しか見えない。
でも。
「分かんない」
正直に答える。
「でも」
「でも?」
「今までと違ったでしょ」
陽咲は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
その声は、とても小さかった。
「なんか」
言葉を探す。
「分かんないけど」
「うん」
「“違わなかった”」
その表現に、私は少しだけ息を止めた。
違う、じゃない。
違わない。
否定できない。
それは――
「可能性、あるってこと?」
「……うん」
陽咲は小さく頷く。
その顔は、少しだけ青い。
でも同時に、どこか熱を持っている。
「顔、ちゃんと見えた?」
「ちょっとだけ」
「どうだった」
「……写真と」
そこで、また止まる。
「似てた気がする」
曖昧。
でも、それで十分だった。
今までの“似てる”とは違う。
もっと近い何か。
「声は?」
「聞こえなかった」
それは少しだけ残念そうだった。
「でも」
陽咲は続ける。
「なんか」
また同じ言葉。
でも、今度は少し違う。
「近かった」
その一言に、全部が詰まっている気がした。
距離じゃない。
もっと別の何か。
今まで感じたことのない種類の“近さ”。
「……そっか」
私はそれだけ言う。
それ以上、言えることはなかった。
陽咲はしばらくその場に立っていたけど、やがてゆっくりと歩き出した。
さっきまでと同じ道。
同じ帰り道。
でも、確実に違う。
「ねえ、美鈴」
「なに」
「分かんなくなった」
ぽつりと呟く。
「何が」
「もし、あれがそうだったとして」
「うん」
「声も聞いてないし、ちゃんと見てもないのに」
少しだけ笑う。
「なんでこんなに、気になるんだろ」
私は少しだけ考える。
でも、答えは出ない。
「さあね」
適当に返す。
でも、たぶん。
それはもう、理由を考える段階じゃない。
感じてしまったものだから。
「また、会えるかな」
陽咲が言う。
その声は、少しだけ震えていた。
「どうだろうね」
私は曖昧に答える。
会えるかもしれないし、会えないかもしれない。
でも。
「さっきの感じだと」
「うん」
「またすれ違いそう」
それは、根拠のない予感だった。
でも、妙に現実的でもあった。
同じ時間、同じ道。
同じ生活圏。
偶然は、意外と繰り返される。
「……うん」
陽咲は小さく頷く。
その顔は、少しだけ複雑だった。
嬉しいのか、不安なのか。
たぶん、その両方。
夕焼けの中を、二人で歩く。
さっきすれ違った場所は、もう見えない。
でも、その温度だけは、まだ残っている。
ほんの一瞬の出来事。
でも、それは確実に。
今までの何よりも、現実に近かった。
――もしかしたら。
その“もしかしたら”が、もう消えない。
そんな気がした。




