14.名前の温度
それから数日、表面上は何も変わらなかった。
授業を受けて、休み時間に話して、放課後に帰る。
いつもと同じ流れ、同じ景色。
でも、その中にひとつだけ、確実に増えたものがある。
――名前。
それまで陽咲の中で、新堂はただの“写真の中の人”だった。
苗字だけは知っているけど、それは記号みたいなもので、あまり実感はなかったはずだ。
でも今は違う。
「新堂くんってさ」
昼休み、唐突に陽咲が言った。
私は思わず顔を上げる。
「急にどうしたの」
「いや、なんか」
少しだけ考えるように間があって。
「名前で呼ぶと、ちょっと変な感じする」
「今さら?」
「今さら」
小さく笑う。
でも、その笑いの奥に、少しだけ戸惑いがある。
「今まで、ただの“その人”だったのに」
「うん」
「急にちゃんとした人になった感じ」
私は少しだけ頷く。
それは分かる。
名前があるだけで、人は一気に現実になる。
曖昧な存在から、輪郭を持った誰かへ。
「じゃあ何て呼んでたの」
「心の中では?」
「うん」
「……特に呼んでなかった」
「でしょ」
思わず笑う。
でも、それが普通だと思う。
名前があっても、実感がなければ使わない。
でも今は違う。
「“新堂”くんって言うとさ」
陽咲は少しだけ声を落とす。
「なんか、ちゃんとそこにいる感じする」
その言葉が、妙に静かに響いた。
私は少しだけ考える。
名前。
それは、距離を縮めるものでもあり、逆に距離を実感させるものでもある。
「で、慣れた?」
「まだちょっと変」
「まあね」
「でも」
少しだけ間があって。
「嫌じゃない」
小さく言う。
その言葉に、私は軽く頷いた。
――進んでる。
確実に。
その日の放課後。
帰り道で、陽咲はふと足を止めた。
「どうしたの」
「……ここ」
見覚えのある道。
少し先に行けば、あの色麻工業高校に繋がる。
あの日、三人で通った道。
「また来たの?」
「来てない」
「今来てるでしょ」
「……たまたま」
私はため息をつく。
この“たまたま”、もう何回目だろう。
「行くの?」
「どうしよう」
立ち止まったまま、少しだけ迷っている。
でも、その迷い方は。
半分くらい、答えが出ているやつだ。
「行きたいなら行けば」
「……行く」
やっぱり。
二人で、少しだけ道を外れる。
前と同じ景色。
でも、前とは少し違う。
あのときよりも、目的がはっきりしている。
校門が見えてくる。
放課後の時間。
生徒がちらほらと出入りしている。
部活帰りなのか、友達と話しながら歩いている人もいる。
その中に、いるかもしれない。
「……新堂くん」
陽咲が、小さく呟く。
ほとんど無意識みたいに。
私はその声を聞いて、少しだけ驚いた。
今まで、こうやって口に出すことはなかったから。
「呼んだね」
「……うん」
少しだけ照れたように笑う。
「変な感じ」
「でしょ」
「でも」
視線は前を向いたまま。
「ちょっとだけ、近い」
その言葉に、私は何も返さなかった。
返す言葉が見つからなかった、というより。
もう、十分だと思った。
校門の前まで来る。
でも今回は、前よりも少しだけ近い位置。
立ち止まって、中を少しだけ見る。
グラウンド、校舎、人の動き。
その中から、一人を探す。
でも。
「……やっぱり分かんないね」
陽咲が苦笑する。
「当たり前」
「うん」
でも、その声は少しだけ軽い。
前みたいな焦りは、あまりない。
「でもさ」
「うん」
「“いない”って思わなくなった」
その言葉に、私は少しだけ視線を向ける。
「前は、見つからないと“いない”って感じだったけど」
「うん」
「今は、“見つけられてないだけ”って思う」
それは、大きな変化だった。
存在を疑う段階は、もう終わっている。
いることは、もう前提になっている。
「進んでるね」
私は小さく言う。
「そうかな」
「そうだよ」
はっきりと答える。
陽咲は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「そっか」
その笑顔は、少しだけ安心しているように見えた。
帰り道。
夕焼けが少しずつ広がっていく。
空の色が、ゆっくりと変わっていく。
「ねえ、美鈴」
「なに」
「名前って、すごいね」
「今さら?」
「今さら」
また同じやり取り。
でも、その意味は少し違う。
「たったそれだけで、こんなに変わるんだね」
「まあね」
私は肩をすくめる。
でも、内心では少しだけ同意していた。
名前は、ただの音じゃない。
その人を、その人として固定するもの。
「新堂くん」
陽咲がもう一度、小さく呟く。
その声は、さっきよりも少しだけ自然だった。
少しだけ、馴染んでいる。
その変化を感じながら、私は空を見上げる。
距離はまだ遠い。
でも、確実に縮まっている。
その進み方は、遅くて、曖昧で、はっきりしないけど。
それでも、ちゃんと前に進んでいる。
そんな気がした。




