01.写真の中の知らない人
陽咲が恋に落ちた瞬間を、私は見ていた。
――なんて言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、でも、あれはたしかにそういう顔だった。
「ねえ見て、美鈴。これ中学のときの文化祭」
昼休み、机をくっつけたまま、七海がスマホの画面をこちらに向けてくる。
教室のざわめきに紛れて、特別なものなんて何もない、ただのよくある光景の一つだった。
焼きそばの屋台、手書きの看板、無駄にテンションの高そうな男子たち。
どこにでもある文化祭の一コマ。
私は一瞬だけ目をやって、「へえ」と適当に相槌を打つつもりだった。
――陽咲が、隣で息を止めるまでは。
「……え」
小さな声だった。
けど、それは聞き逃せない種類の音だった。
「どうしたの?」
七海が首を傾げる。
私はそのとき、陽咲の横顔を見ていた。
いつもと違う。
笑ってもいないし、驚いているわけでもない。
なのに、目だけがどこか遠くを見ているみたいに静かで――でも、確実に何かを掴んで離さないみたいな、そんな顔。
「この人……」
陽咲の指先が、画面の端をそっとなぞる。
そこには、主役でもなんでもない男子が写っていた。
特別、というほど整っているわけでもないのに、妙に目に残る。
「知り合い?」
七海が言う。
「ううん、全然」
陽咲は即答した。
でも、その声はどこか上の空で、返事として成立しているだけの音に聞こえた。
「中学のときの同級生。新堂っていうの」
「新堂……」
名前をなぞるみたいに、陽咲が小さく繰り返す。
私はそのやり取りを聞きながら、少しだけ眉をひそめた。
――ああ、これ。
面倒なやつだ。
「別に、そんな目立つタイプじゃなかったけどね。
なんかいつも一人でふらっとしてる感じで」
七海は軽く言う。
たぶん、悪気はない。ただの事実なんだろう。
でも陽咲は、そんな説明なんてもう聞いていないみたいだった。
「この写真、もらってもいい?」
「え? これ?」
七海が少し驚いた声を出す。
「いいけど……なんで?」
「なんとなく」
なんとなく、で済ませるには、少し強すぎる視線だった。
私はため息をつきそうになるのをこらえる。
こういうときの陽咲は、止めても無駄だ。
昔からそうだった。
何かを「いい」と思ったら、理由なんていらない。
その代わり、一度掴んだら簡単には手放さない。
良くも悪くも、真っ直ぐすぎる。
「送るね」
七海が操作をして、すぐに陽咲のスマホが震えた。
その瞬間、陽咲の指がほんの少しだけ早く動いたのを、私は見逃さなかった。
……ほんとに、分かりやすい。
「ありがとう」
小さく呟いて、陽咲は画面を見つめる。
さっきと同じ写真のはずなのに、今はもう、まるで別のものみたいに見えているんだろう。
「ねえ陽咲」
「ん?」
「それ、そんなにいい?」
わざと軽く聞いた。
からかうつもり半分、確認したい気持ち半分。
陽咲は少しだけ考えるみたいに目を細めて、それから言った。
「……分かんない」
「は?」
「分かんないけど、なんか、いいなって思った」
曖昧で、説明にもなっていない答え。
でも、それが一番正直なんだろうとも思った。
だから私は、これ以上は何も言わなかった。
どうせ言っても無駄だし。
――こういう「分かんない」は、大抵ろくでもない方向に転がる。
経験上、知っている。
チャイムが鳴って、昼休みが終わる。
周りの空気が一気に授業モードに切り替わっていく中で、陽咲だけが少しだけ遅れているみたいだった。
机の上に置いたスマホを、もう一度だけ見てから、ゆっくりと伏せる。
その仕草が、妙に丁寧で。
まるで壊れ物でも扱うみたいで。
――ああ。
私はそこで、確信した。
これは、始まってしまったんだと。
たった一枚の写真から。
名前を知っただけの、顔も知らないに等しい相手に。
そんなの、まともな恋じゃない。
……でも。
「ね、美鈴」
授業が始まる直前、陽咲が小さく声をかけてくる。
「なに」
「この人さ」
一瞬だけ、言葉を選ぶように間があって。
「……もう一回、見てもいいかな」
私は肩をすくめた。
「好きにすれば」
呆れたふりをしながらも、心のどこかで思う。
たぶん、これは止まらない。
止められないし、止める理由もない。
ただ一つ言えるのは――
その写真の中の誰かは、きっとまだ何も知らない。
自分が、誰かの“特別”になってしまったことなんて。
そして陽咲も、まだ知らない。
その“特別”が、どこに連れていくのか。
だからこれは、たぶん。
少しだけ、危うい始まりだ。
――私は、それを隣で見ていることしかできない。




