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第93話 リベンジャー

 ブザーの音を追う虫たちは、病的な執拗さで音が走った経路を辿っていた。空間の壁を走る虫特有の悍ましい腹を見せた彼らの行進は直ぐに終わった。彼らにとってこれは日常の出来事のようで、もうここに餌がない事が分かると、疲れ果てた会社員みたいに大地に帰って行った。


 背後からの圧力も無くなり、簡単に泉の反対側にまで回ることができた。順調とは言い難いが、遂に折り返し地点を超えることが出来たのだ。


 あと半分。達成感よりも、残りの道のりへの不安が強くあった。ここから溶解の泉を背負いながら上り坂の旅路となる。


 雨が降っていた。暗闇を塗り潰す豪雨だ。空間の上部を黒い雫が舐め、空間の下を走る黒灰色の濁流へと呑まれていく。リンクズモドキの残骸がそれぞれ絡み合い、雪崩に打ち倒された大樹のように空間を叩いた。虫たちは最後の命綱であるその大樹に掴まっていたが、一匹また一匹と濁流に呑まれて消えていく。


 突然消滅する懸念がある空間で進むのは馬鹿らしいと思う。でも、逃げ道を塗り潰し、たった数時間で荒れる大海原のようになったこの深部というところはもっと馬鹿らしい。


 防御魔術を持った生物を検知できるように設置した前方の空間網は、濁流の圧力流れる異物の重量、それらの危険性を切に伝えている。


 わたしはこの雨が泉の水量を増加させ、いつか気づかぬうちにわたし達の足元に追いつくことを恐れていた。だがヴァルターが気にしていたのはもっと別の事だった。


 空間の上部を舐める雫である。


〈前も話題に上がったが、水場と雨に含まれる微生物には警戒するべきだ。進化が繁殖に大きく依存している以上、生と死のサイクルが早い生物ほどそれは加速する。微生物と呼ばれる奴らは自己複製して繁殖し、その繁殖速度が繁栄の大きな要因になる。より多く数を増やす種が生き残る仕組みだ。つまり、他の生物とは比にならん増殖と適応の力を持っている。外骨格をあらゆる手段で突破できるのだから、一瞬で空間と防護服を攻略してもおかしくない〉


 だとしても、出来ることは少ない。空間の屋根を傾斜にし、空間全体をひし形にすることで雫の落ちる速度は早くなった。完全に接触を断つことは出来ないが、少しはましになるだろう。


 雨による視界不良と、突然流れてくるかもしれない魔力生物に警戒して進行速度を上げることもできず、かたつむりに追いつかれるような速度で戦々恐々としながら進み続けるしかなかった。


 問題は他にもあった。わたしの身体だ。何度かふらつき、その度にヴァルターが支えてくれた。イムの抱える腕や、歩き続ける脚、それに連なる関節と筋肉、全ての臓器と血管が悲鳴を上げている。吐血と下血が凄まじく、防護服内で窒息しないよう、体の中で展開した空間でどうにか受け止めていた。


 身体のありとあらゆる部位が悲鳴を上げる中、神経だけはやられていないのか、痛みだけを切実に脳へと送っている。イムを持つこと、歩くこと、空間を展開することに全力を注げば痛みは簡単に忘れることが出来た。だが、その地に足つかない思考では見えない手が意識を持って行ってしまう。


 もし、間違いでもあれば、空間が消滅して全員濁流に吞まれて死ぬ。進行速度を上げることが出来ないのは余りにももどかしい。痛みを忘れず、意識も忘れず、いつか来るかもしれない破綻を恐れ続け、それでも淡々と単純作業を繰り返すことを自分で選ぶ。それは出来の良い拷問だった。ただ、この地獄が少しでもマシになれと祈ることしかできない。


 一時間経過しても雨は止まなかった。二時間、三時間経っても。


 進行が遅れればそれだけ、イムが助かる見込みは薄くなる。追い立てられるように、自分の命と同価値の殻を背負ったかたつむりのように、わたしの背後で水位を上げ続けているであろう泉のように、誰へにも向けられない苛立ちが溜まっていく。見えない場所で溜まり、そして追われ続けている。


 六時間経過したところで、雨脚が弱まった。


〈休憩をとろう〉


 ヴァルターは有無を言わせぬ口調で言った。


「なんで……まだ、進めるよ。それに、次休んだら起き上がれるか……」


〈起き上がれ〉


 ヴァルターは足を止めて、わたしに向き直った。黒いバイザーの下は、あの深淵みたいに読ませない。


〈俺たちはもう止まれない。ユウメが汚染に蝕まれ、全身の皮膚が剥がれて痛みで歩けなくなったとしても、止まることは出来ない。睡眠を取らなければ魔力が回復しない、思考能力もだ。寝ている間も汚染は止まらず、お前を苦しめるが、睡眠を取らずに起こった判断ミスの一瞬でこの世界は終わる〉


 大げさではないだろう。人類はアァ レウェに支配される。わたしにとっては、地球が突然爆発するよりも滑稽な終焉シナリオだ。


〈道のりはまだ半分だ。今までの道のりをもう一度歩くんだぞ。お前の判断ミスで俺は死ぬ。いいか。俺はまだ死ぬつもりはない。女を抱きたいんだ。汚染に耐えて歩け。しっかりしろ。前を見ろ。死んでも起き上がるという意志を持て〉


 その歯に衣着せぬ物言いはわたしが好むものだった。


「……分かった」


 理解しよう。無駄に自然への苛つきを貯めている場合ではない。その感情が選ばれる脳はとても温まっているだろうから。それを冷静と形容することは出来ない。無駄なことは考えず、ゆっくりでも前に進むしかないということを今一度理解するべきだ。


 今度はヴァルターが先に睡眠を取る。同じく、三時間ずつ。


 人間は睡眠を取らなければ正常な判断が出来なくなる。特務だろうと軍だろうと、食事を計算しない戦争が無いように睡眠を計算しない戦争は無い。わたしはチェスの椅子に座っている。微睡ながら打った一手で、クイーンが獲られるのならまだいい。「あっ」と言った後には三人とも死に、世界が獲られる。


 あぁ。あと半分。わたしの余命と帰り道。どちらが長いだろうか。


 三時間。その間に雨は完全に止み、濁流は緩やかな渓流みたいなちょろちょろとした勢いに変わった。大地を埋め尽くすように蔓延っていたリンクズモドキは流され、代わりに外縁部に生息していたであろう生物の死体がゴミ捨て場のように散乱している。微生物が息づく雫を空間で上書きして消滅させていると気付けばヴァルターが起き上がっていた。


〈生きてるか?〉


「今から死ぬよ……」


 横になって目を瞑り、防護服と言う棺桶の中でわたしの意識は死に近づく。


 三時間の睡眠。


 夢は見なかった。脳も心臓も肺も動いている。まだ死んでいないようだ。


〈まだ生きてるか?〉


「生き返った」


〈なら、進むぞ〉


 起き上がり、イムを抱え、痛みを噛みしめ、目覚めた脳に周囲の情報が入ってくる。たったの六時間で、流され大量に死滅したリンクズモドキが、再び生態系を築きつつある。砂浜の貝殻みたいに砕けて散らばっていたはずだが、もう、人間の踝ほどの小山が出来ていた。


 リンクズモドキの狭間に濁った水が溜まっていて、そこに風化したゴキブリが浮かんでいた。数十年土の下で忘れられていた人間の死体のように、細かく砕けて、存在感のある胴体だけがぷかぷかと浮かんでいる。数秒間のコンタクトで、リンクズモドキの殻に穴が開き、零れて落ちた。


 暗闇のさなかに動くものが見える。進行先に索敵に空間を置くとかなり重量感のある衝撃と共にそれにぶつかったから、魔術を使うわけではないようだ。近づいてみれば、また遠くに消えてしまったが、姿は確認できた。

 蛇だ。身体中に黒い斑点のある、馬よりも大きい蛇。


〈クジラモドキに似ていたな〉


「……ほんと?」


 わたしにはそう見えなかった。なにより、あの城を横倒しにしたような大きさの化け物と比べて見れば、あまりにも小さい。それでも、人間なんて丸呑みできそうだが。


〈口が体中にあっただろう。回転しながらそこら中のものを食べてたぞ〉


 あの黒い斑点は口か。わたしは眼も悪くなってしまったのかもしれない。

 そういえば、あのクジラモドキの回遊予定時刻まであと十三時間半だ。あれとの時間差を帝都への方角を計る情報のひとつとしたいのだが、あの豪雨でもクジラモドキは生きているのだろうか?


 数分進んでみれば、クジラモドキと近縁であろう生物が走っているのがしっかりと目視できた。身体中に虫がたかっている。濁流から助かろうとして、丸太よりも太い体に縋りついたのだろうか。だが、クジラモドキの体中の口が助けを求めた虫を容赦なく食べている。


 どこか場違いに安心した。その口の数はある意味、その数だけ侵入を許す脆弱性になり得るだろうが、クジラモドキはものともせず力強く生きている。心配することもなさそうだ。


 いや……なにか、なにかひっかかる。


 何も上手く行かない人生で、物事が上手く行き過ぎると不安になる。今感じている不安もそれなのだろうか。いや、この感情も人間が受け継いできたものだ。この感情を持つ種が生き残ったのだ。進化も完璧じゃない、意味の無いものが残っている場合だってある。だが、わたしはこの上手くいく不安がその意味の無いものだとは思えない。


 わたしの直感は外れたことが無い。悪いことも、良いことも。


「ヴァルター」


〈どうした?〉


「嫌な予感がする」


〈実は俺もなんだよ〉


 わたしとヴァルターは、進みながら周囲に灯りを向けた。得体の知れないナニカが、わたしの中で膨れ上がる。この感情は、ストーカーに追われていた時のそれに似ている。


 彼がまたやってきたのだろうか。


「いや、『またやってきた』……? あいつが去ったって、どうして分かったんだ?」


 ヴァルターは何を指しているのか察して会話を続ける。


〈虫に追われて消えたはずだ……〉


「虫は音を追っただけ……喰いつかれて逃げたところを確認したわけじゃない。それに、ゴキブリたちが進化したと言っても、あのサイズのクジラモドキだって喰いきれていないし、外骨格も簡単に破れてるわけじゃない」


 ヴァルターが宙に灯りを向けた。それに追随してわたしも。


 何も無い。『何も無い』がある。


「それに、あの防護服。数十年前の作戦で捨てられたって言ってたけど。外骨格だって溶かす雨が降るのは今日が初めてじゃないはず。とっくの昔に微生物に分解されてないとおかしい」


 ヴァルターは何も答えなかった。


「ねぇ、なんであれはまだ存在していたの?」

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