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第92話 アリスはどこだ

 九つ目の人型オブジェが流れ、背中合わせの行進は続ける意味を無くした。少し離れたところに組み立て途中のオブジェがあり、九つだけでは満足できなかったことが知れる。軍団の絵面でも作って、わたし達に『刺激』を与えるつもりだったのだろうか。


〈アリスを見つけよう〉


 背中合わせのヴァルターが脈絡なく言った。


「……アリス?」


〈鏡の国のアリス。見たことあるだろ〉


 読んだことはある。だけど、それは昔のことだし、この状況にどう嵌るのかも分からなかった。背中合わせを止めて前を向きなおすと、分かっていないことを見透かして説明してくれる。


〈赤の女王と出会ったアリスは、女王と共にめまいがする程全力で走るが、前には全く進まなかった。女王はアリスに『その場に止まり続けるには、駆け続けるしかない』と言う〉


 そして、彼はストーカーに振り向いた。


〈走り続けなければ、進化する他の種に餌を奪われる。だから、こちらも進化し続けなければならない。奴があそこまでの知能を身に着けるほど進化しても深部から溢れるほど繁栄していないのは、他に競争相手がいるからじゃないかと思ってな〉


 アァ レウェの知能は明らかに人間並みかそれ以上だろう。人間の知能と呼ばれているものも、餌を取る喜び、失敗を忘れないための悲しみ、危険を訴える痛み。そんな簡単な感情がいくつも重なってできた図書館だ。脳はその本を選び感情を発生させる。そして、それは虫にだってある。超越的進化の環境で、死と繋がる失敗を避けるための新たな感情とそれを加えた人間より上の段階の知能が発達してもおかしくはない。


 だが、それをもってしても深部で走り続けるアリスを追い越すことは出来ないのかもしれない。化け物と並ぶ化け物を彼はアリスと呼んだのだ。


〈だから、そのアリスを見つける。あいつが深部の女王で俺たちをディナーに招待したとしても、俺たちは卓についてやれるほど暇じゃない。横に座るにふさわしいやつがいるはずだ〉


「……あいつとどっかの化け物を喧嘩させるってことね」


〈その通りだ〉


 とは言っても、その化け物はどういう存在で、どう利用すればいいかを想像するのは難しかった。例えばクジラモドキだが、あれは同じところを回遊して食っては生えるリンクズモドキを収穫し続けているだけで、アァ レウェの種がクジラモドキに脅かされるかと考えると「うーん……」となる。


 アァ レウェの主食も、体の形も、狩りの方法も、何もかもの生態が見えないせいでそれと鏡の存在であるアリスも見えてこない。


「昔、アァ レウェを捕まえたときにアリスはいなかったのかな」


〈そう思われる奴はいた。まず、アァ レウェの生態を説明する。捕獲作戦前後は、奴はここにいる蜘蛛型のような外骨格を持っていると思われていた。だが、それは間違いで黒い甲殻は不定形の結晶化した魔力因子だった。汚染や熱から内臓を護るため、魔力因子を操り結晶化させる魔術を種の間で連綿と受け継いでいた。そして、その魔力の手を使えばリンクズモドキが取れるから、動くエネルギーが節約できるようになり、動かずに更に手を伸ばせるように魔術を司る脳が巨大化した。それにつられて結晶も……と推測されている〉


「それだけ聞くと、無敵に思えるけどね。頑丈な上に、防御魔術と同じで人間の魔術が通用しないってことでしょ」


〈そうだな。だが、人間と一緒だ。身体の内部から暴れられてはどうしようもない。食べた物を消化しなければいけないのはあいつも変わらないからな。とんでもない速度で進化する栄養に擬態した細菌とウイルスに蝕まれ、細菌達の繁殖の温床とされたんだとよ〉


「じゃあ、天敵って……」


〈人間で言う、食中毒や風邪みたいなもんだな〉


 それは困った。人間でさえも、食べ物に毒を入れて食べさせたり、病気にして殺すのは難しい。ストーカーは、スプーンに乗せたリンクズモドキを食べてくれるだろうか。


「じゃあ、食べ物に当たることを祈るしかない?」


〈奴の胃は鉄だろうと溶かすし、体内の結晶コーティングも出来る。細菌、ウイルス側もゴキブリが一搔きをした一瞬で相手の中で死と繁殖のサイクルを行って、適応し、感染させるほど進化している。こればっかりは運だな。だがあいつも、深部も、超越的な進化に巻き込まれているんだ。外で人間が口論をしている間に、ここでは数種が滅びて数種が異常繁殖してる。他の効果的なアリスだって、きっといるさ〉


 膠着状態のまま。ストーカーと共に、ゴキブリとリンクズモドキだらけの暗闇を進んで八時間。予定よりも早めに深部の中心地に到着した。空間の外で、人間よりも大きな鈍色の潰れたゲジゲジのような生物が這っている。


 進むべき道には泉があった。ゲジゲジと同じ色をした液体がぶくぶくと泡を立てている。表面には温められた牛乳に見られる膜のようなものが張られており、その上を恐らく生物だったであろう、融解して丸くなった外骨格が所々に浮いていた。


「なにこれ」


〈熱で溶けた死骸が坂を下って溜まっていったんだろう。迂回したほうがいいな〉


 泉は、暗闇の中でも端から端が見えるほど小さい。直径は十メートルも無いだろう。これなら回り道をしても方角が狂う心配も無い。念の為空間の目印をつけたうえ、障害物の少ない左から回ろうと提案すると、ヴァルターも頷いた。


 泉の右回り方向にいる平べったいゲジゲジはもぞもぞと動き回っている。ここら周辺にもリンクズモドキの異常な群生とゴキブリなどの生物はちらほら見えるが、彼らはわたし達のことなんてどうだっていいのか、逃げることも攻撃してくることも追いかけてくることも無い。


 迂回を始めるとストーカーも追随したが、真後ろにぴったりと付くのではなく、泉とわたし達を挟む位置に居続けている。突き落とす機会を探しているように見えた。


 迂回の経路に向き直ると照明の光に反射して、泡のように丸く膨らんだ薄手のタオルのようなものがふわふわと浮いていた。少し視線を上に向けて見れば、これに似た長さ数十メートルのものが数体浮いている。生物なのかどうかも分からないが、似ているものを上げるのならばくらげだろうか。熱に耐性があるのかと思えば、どうやら違う様で白い湯気を全身から立ち昇らせている。水を生み出し続けながら、同時に蒸発しているのである。凄まじい代謝だ。


 空間の展開に巻き込むわけにはいかないため、更に大きく迂回しようと経路を変えようとした瞬間に、ストーカーを警戒するために展開していた空間が消えた。


「ヴァルター!」


 叫ぶと同時に振り返ると、捻られた白い人型が飛来してきている。ストーカーの防護服が、回転を帯びて投げられていた。その回転の一瞬に、バイザーの中身が見えた。ナニカが蠢いている。漆黒だ。バイザーの下で、いや、バイザーなんて最初から無かった。時の衝撃で壊れたであろう顔部に、その生物は詰まっていた。


 天井、壁、そして、升目に隔てた床の空間、そのいくつかがほぼ同時に消滅する。防御魔術を纏った人間投石だ。バイザーの中身に気を取られ、咄嗟に空間で防ごうとしたのは悪手だった。


 イムと防護服が加算された重さでは避けることは不可能だ。飛来物に背中を向け、受け身の体制を取る。だが、受けることは無かった。ヴァルターが身代わりになったのだ。


 足場となった空間は、ストーカーの防護服付近から消滅している。そのため、ストーカーに組み付かれたヴァルターの足場が消滅しもみくちゃになりながら落下することは防げなかった。リンクズモドキが潰され、虫と粉末が舞い上がる。中心地の泉へと転がり落ちるまで秒読みである。


 空間を地中に生じさせ持ち上げるように動かし、ヴァルターの落下先を捻じ曲げると、蟻地獄のような中心地に、机大の平地が生まれた。ヴァルターはそこで停止し、ひっくり返された虫のように蠢くストーカーを、泉に投げ捨てた。


 ストーカーは、粘ついた泉の上で滑るように沈んでいく。


 だが、悪意はそれで終わらなかった。ゴキブリだ。彼らはヴァルターが最初に着地した場所、そして、転がった経路、ヴァルター自身に群がり始める。その数は大地の灰色を完全に埋め尽くし、虫の上に更に虫が重なった。


 彼らはただのゴキブリなんかじゃない。進化している。大きな餌を逃さず殺すための、その探知機能と攻撃性を。外の虫のように、わたし達を敵とみなさなかったのではない、空間の遮音性によって気が付かなかっただけなのだ。


 この深部で進化しているということは、外骨格を砕く牙があるはず、ヴァルターの防護服が砕かれれば、汚染が流入するだけでなく、肉体がゴキブリに食いつかれる。


 ゴキブリを払わなければ。だが、圧縮爆弾を使えば、泉に落ちてしまうかもしれない。膨張は? 足元を動かしたらどうなる? 空間を動かして何ができる? 何かを圧縮するか? ダメだ。打てる手が思いつかない!


〈落ち着けよ。こいつらは俺の男としての魅力に気づいただけだ〉


 ヴァルターはポケットから何かを取り出す。それは、スプレー缶と、自立して動くブザーだった。ビーッビーッと、防護服越しでも聞こえる煩わしい音が延々と鳴り響いている。ヴァルターがそれを適当な方向に投げると、虫たちはそれに追い縋るが、しつこく防護服上で蠢く虫たちもいる。


 だが、そいつらも、ヴァルターのもったスプレーが白い霧を吐くとゴキブリたちが麻酔でもかけられたみたいに眠りに沈んだ。殺虫剤だ。ぱらぱらとある程度の虫が落ちると、そのスプレーを泉の方へ投げ捨てる。するとそれは、時限があらかじめ決められていたかのように高温によって、爆発した。


〈科学の力だ。さぁ、空間を動かして上げてくれるか。あのクソ野郎が様子を見てるうちに〉


 ヴァルターを引き上げ空間を展開しなおし、彼の体を未だに齧っている数十のゴキブリを払い落とす。


〈おいおい神経ガスだぞ、何で耐性を持ってる奴がいるんだ〉


「ゴキブリに寄生してる蜂がいた。そいつが使うのかも」


〈やれやれだな〉


「本当にどうしようかと思った……」


 彼の防護服にはバイザーや、背後の生命維持装置、ありとあらゆる場所に影のある深い傷がついている。心臓の調子が悪くなりそうだ。ただでさえ一週間しか持たないのに。


〈いや、お前はベストを尽くしたさ。平地を作ったのはナイスだった。それに、上の馬鹿野郎がなんでビビっているのかも分かったしな〉


「なに?」


〈上の空間だけ消して、俺が物を投げたらすぐに閉じろ〉


 わたしが言われるがままに頷いて空間を消すと、彼は先程と同型のブザーを鳴らし力強く空中に投げたので慌てて空間を閉じた。羽根を広げたゴキブリが大量に羽ばたき始め、宙の闇へと追い縋る。


〈アリスはそこら中にいた。そしてあのストーカーは、それにずっと怯えていた。だから、俺たちの様子を見るしかなく、ストーカーは足跡をつけられなかったんだ。音を出すこと、それが弱点であることが悟られないように〉


 そこに何がいるのかは分からない。だが、ゴキブリはナニカに群がり、ゴキブリの塊は馬の尻尾に着いた火みたいにどこかに飛んで行った。

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