第91話 スケッチブック
深部から脱出するまで、どれだけ急いでも一日以上かかる。急ぎすぎて、クジラモドキの回遊に巻き込まれるわけにもいかないし、最低でもここに二日は居座ることになる。適切な判断力を保つための睡眠は必須だが、あのストーカーに観察されながら眠ることが果たして適切な判断といえるのかは断定し難い。
それには、あのストーカーに、あの黒いバイザーから見える深淵にわたしを理解されたくないという、理性的とは言えない嫌悪感もあった。
とにかく、休むしかない。汚染を受けてから六時間ほど、ストーカーと接触して二時間程度。まだ、意識障害が時たま起こる程で汚染の被害よりもストーカーに観察され続ける精神的負担の方が問題だった。
〈目覚めることが当たり前だと思えている時に休んだ方がいい〉
ヴァルターの言っていることは冷徹に感じた。これから起こることを予感させるに十分だった。
休む場所を選ぶ必要は無い。どこでも危険なのだから、どこでも休憩場所だ。わたし達は空間の上で座り込んで交代で三時間ずつ睡眠を取ることにした。イムを置いて、わたしも寝そべる。不思議なことに、この異常な世界に対して警告を出し続ける充血した脳は今が休む時だと分かると猜疑的な考えを切り捨て、ぶつりと動力を切った。
二、三回瞬きをしたと思ったら、バイザーの端に映った時間を示す数字は三時間分経ったことを伝えている。ぱっちりと目が覚めた勢いで体を起こすと、強い頭痛と虚脱感、吐き気に襲われた。
〈もういいのか?〉
ヴァルターはストーカーをじっと見つめていた。
「いいよ。交代しよう」
ストーカーは、ぴくりともせずに直立している。奴がわたし達が寝そべっていることに対してどういう意味を与えるのか分からないが。この行動を『隙』だと理解されたら奴は何をしてくるのだろうか。
次は私の番だ。ヴァルターが重い体を煩わしそうに倒し、そのまま全く動かなくなった。
気になるのはやっぱりストーカーだが、脅威が奴だけとは限らない。空間の外はもちろんだが、自分自身の身体すら、汚染の脅威を自覚し始めたところだ。
言葉で状態を形容してしまえば、体中が壊れてしまったと簡単に言える。息を吸って、空気から成分を取り分けて、酸素を脳に送って。他にもたくさんの無意識でやっていることを少しずつやり方を忘れて、部品が壊れて不能になっていく。
脳が『意識を継続するエネルギーが無い』と無理やり眠らせようと意識を引っ張る。想像していたよりも、もっと早くに体が悲鳴を上げ続けていた。一週間で死ぬとは言っても、一週間生き延びることができるとは限らない。ただでさえ、汚染を継続して受けたのだ。
わたしは死が、あの防護服と同じような距離まで近づいていることを自覚する。あのバイザーの下に隠された深淵の正体は分からない。こちらが歩み寄って、顔を寄せて見れば中身が何なのか分かるだろうか。昔に入っていた人間か、人骨か、それとも、虫の集合体か深淵そのものか。
つかず離れず、だが側にいて、こちらを見続ける。絶対に逃げ切ることは出来ない、いつかは必ず訪れる。わたしの元へ、イムの元へ。だから、恐怖を嚙み潰し、いつ来るのかも分からないそれを睨みつけなければならない。
三時間が妙に長く感じられた。ヴァルターが時間きっかりに身を起こす。わたしもイムを持って立ち上がり、全く動きを見せないストーカーから目を背けて深部の中心地へと目を向けた。
〈調子はどうだ〉
数秒前まで寝ていたとは到底考えられないハキハキとした声だ。
「……嘘言ってもしょうがないね。ダルい。頭痛い。吐きそう」
そう言いながら、わたしは空間を展開して道と壁を作った。今日の一歩を踏み出すと、ヴァルターも進み始める。
〈マジか。呼吸不全やら心停止が起こってもおかしくないんだがな。頑丈の一言で説明できることじゃない〉
「わかんないけど。帝都につくまで、心臓と脳には動いてもらう。ダメになっても、せめて足は動かすよ。あいつに追いつかれないようにね」
ストーカーを見ると、やっぱり付いてきている。距離は全く変わっていない。精密な空間把握の能力でも持っているのだろうか。暗闇で生き抜くには必要なのかもしれない。
ストーカーから目を戻し、再び歩き始めて数歩で、わたし達は足が止まった。前方に、防護服に備えつけられた照明に当てられて、また、一体の防護服が見えるのだ。
今度は、立ちはだかっている。追い縋るのでは無く。
ヴァルターがゆっくりと照明を動かすと、わたし達の旅路に一体、二体、三体、四体……うっすらと見えるだけでも九体の防護服が子供の描いた落書きみたいに不規則に乱立している。
〈おかしい。防護服の数が合わない。ふたつの管理局を合わせてもこんなに数は無いぞ……〉
これを作るのは、すごく大変だとなんとなくわかる。簡単なら、管理局にはもっと沢山用意して良かったはずだ。
なら、これらはどこから用意されたのか。
「とにかく、進もう。上から行く?」
〈いや、なるべく地面から離れたくない。後ろの奴に空間を消されたら無防備になる。恐ろしいが、警戒しながら歩こう〉
「分かった。後ろの奴の方が、嫌な感じがする」
正面の九体は、直立し、みなこちらを見つめている。それに魂があるようには感じられない。彼らの距離感は平地に乱立する木々のようにまばらだが、木々と例えるにはあまりに生気が無さすぎる。暗闇に隠された細部と姿かたちが一切変わらない防護服たちは子供が誤魔化して描いた絵に近い。
それと比べると、ストーカーはあまりにも生きている。あのバイザーの下は空っぽに入り込んだ、吹けば飛び散る暗闇じゃない。中身の詰まった、深淵だ。
〈後ろの動きが気になる。背中合わせに行こう。俺が前を見る〉
「了解」
ヴァルターに背を預け、ストーカーを監視する。あれと見つめ合うのは精神が削れるが、下り坂の空間の上で、防護服を含めたイムとわたしの重さに押されてもびくともしない背中は心強い。
〈あいつがどう動くのか、見えたら教えてくれよ〉
ヴァルターが楽しげに言って、ゆっくりと歩き始めた。
ストーカーは動かない。直立したまま、何の示唆も無い。わたし達と喧嘩別れしたみたいだ。少しずつ離れていき、だんだんと奴の防護服が暗闇に呑まれていく。
〈ユウメ、驚くなよ。あいつを見続けろ〉
ヴァルターの言ったことは良く分からなかった。意味の分からないまま、全く動かないストーカーを見続けると視界の端に、死骸とリンクズモドキを加工したもので出来た人型のオブジェが侵入してくる。
それは、九つの防護服の一番近い位置にあったひとつだろう。あれは、立体的な絵だったのだ。特定の位置から見れば防護服に見間違える、精巧な、ただの積み上げられたガラクタだった。
どこからか感じた寒気に背筋が粟立った。ふたつ、みっつ。死骸で出来た冒涜的なオブジェが流れていく。
そして、過ぎ去っていく中、暗闇からうっすらと輪郭を表しながらこちらに向かってくる防護服がある。ストーカーだ。
「歩いてる……でも、おかしい」
強烈な寒気が体を震わせた。わたしの防護服は深部の中心地に近づくにつれて上がる温度を下げようとしている。だが、それ以上に、体の芯から染み渡る恐怖と言う冷気が、わたしの身体を冷やしている。
「歩いてるんじゃない。足を交互に前に出しているだけ。重心が動いてない」
〈……どうやって前に進んでいるんだ?〉
水中で泳いでいる、いや、違う、あの動きは全く意味のない行為だ。子供が人形の足を右に左に出して、そして、ひっこめて……それを繰り返しているだけ……なのに、やつは前に進んでいる。わたし達に向かってきている。
「人形劇みたいに、上に下に動きながら前に進んでる」
どこかでちらりと見た広場の人形劇を思い出す。人形たちは、十字の操作木と吊られた糸によって、まるで生きているように動かされていた。人に近づくときは、足を前に後ろに動かして……
こつん、と音がした。お互いの後頭部が当たる音だ。
上を見る。暗黒の宙を。
〈俺たちは休憩中もあいつを監視していた。あいつは動いていなかったはずだ。だが、ここに俺らを迎えるためのアトラクションが出来てやがる。可能性は二つだ。あの個体は複数いて、群れで動いている。もうひとつは、巨大なナニカが俺たちの上にいる……〉
上には何もない。暗黒が広がっているだけだ。だが、いるのかもしれない。暗黒のさらに向こうに、こいつの正体が。そうだ。ここはアァ レウェが産まれた土地だ。
〈かわいい奴め、不器用なところはみられたくなかったようだな〉
ストーカーがメスならヴァルターが口説いてくれるかもしれない。だが、オスなら万事休すだ。わたし達の命は奴に握られている。彼らの気持ちになってみれば、わたし達の方が自分たちを脅かすナニカかもしれないのだ。
「コミュニケーションとってみる? 暴力的な」
〈原住民にやることと言ったら殴って攫うことだが、もう数十年前にやったな〉
学園の焚書庫にあった書類を思い出した。そういえば、こいつらは一度、わたし達人類に仲間を連れ去られている。本当に、人間と言うものは碌な事をしない。
〈向こうも俺たちを計っている。自衛の為か、好奇心か、復讐心か〉
あの人間の死体を不気味に動かす様はとても友好的とは言えないだろう。むしろ、わたし達に「嫌なら攻撃してみろ」と煽っているように見える。
この化け物は、いつか必ず殺意を向けてくる。
恐ろしいことに、奴には魔術を使える知能と意志があり、そしてわたし達人間には防護服が必要だと言う情報を持っている。わたしはもう汚染は気にしないが、最悪はイムがやられることだ。奴はわたし達よりも巨大かもしれないし、数も多いかもしれない……そして、人間に敵意を抱いていて、この暗闇を知り尽くしている。
皮膚が故障しているのか、脂汗は出なかった。代わりに、凍てつくような寒気が体を震わせた。




