第72話 選択の結果は猫をも殺す
フィアの領域魔術が発動する。だが、この部屋は深海に包まれず、そして、領域を構築したのは、フィアでは無かった。
「クレッテちゃん……」
クレッテだった。爆発に巻き込まれ、死んだはずのクレッテが水面と見倣された床から現れたのだ。白い腕が白蛇のようにフィアの身体に絡みつき、海底へと引きずり込もうとする。戸惑いながら抵抗するフィアに追い打ちをかけるように、三本、四本、六本と腕は増えていった。
「フィアちゃん。教えてあげます。私の秘密――」
水面から人形のような子供が三人浮上し、それらすべてがクレッテの顔を持っていた。その表情に攻撃性は無く、ただ穏やかに、困ったように笑っていた。
「フィア!」
わたしがフィアに手を伸ばすと、クレッテが彼女を一息に引きずり込んだ。引きずり込まれたはずの、水面となっていた床は瀟洒でモダンなカーペットに戻っている。それは、階下にあるのだろう領域が干渉を拒んでいる証だった。
「クソっ! なんでクレッテが……」
死んだはずのクレッテ。そして、彼女が唱えたフィアの魔術。なぜ、わたしでもイムでもなくフィアを狙ったのか。
「最優先はイムだ……イムを護らなきゃならない。ミチルにはファウンがいる。フィア、あの子は一人でもどうにかする。してもらうしかない。イムを抱えて付き人を集めながら脱出するべき――」
父はサージェを探しに行っている。襲撃者にとって、これ以上のタイミングは無い。それに、階下を領域にされては付き人達のことを考えなければならず、ホテルごと領域を壊すことは出来ない。
わたしはイムの元へ駆け寄ろうとする。
ガラスが、割れた。ガラスの破片はイムのベットに飛び散る前に空間に当たって地に落ちる。ガラスにぶつかった黒い、毛皮のような球は部屋に落ちて、そのまま二回、転がった。ただの球ではなく、蠢いている。生物だと分かった。
「うぅ……ううぅ――あああアァ!」
毛玉が、流れ落ちる黒い水滴のように形を変える。到底予測できた動きではなく、カオスそのものを表すかのように蠢き、イムを護る空間に衝突した。彼女らしきものは防御魔術すら満足に展開できないほど混乱しているのだ。獣の手が伸び、縋るようにその見えない壁を擦った時、わたしはその正体を察せざるを得なかった。
「カッツィ……!」
名が形を表した。黒い毛玉が、猫の形になったのだ。しかし、それは不完全なもので『カッツィ』を保っているのは、右側の半身と思われる部位だけだ。
「カッツィ? カッツィ!?」
虫の這いずる音。
これは、わたしの頭から聞こえているのか? いや、ふたつだ。わたしの頭と、カッツィの身体。彼女の左半身が、大量の黒い虫に覆われていた。それと共鳴したふたつが頭の中で響いている。
「ユウメ……」
ぼたぼたぼたと血が落ちた。カッツィの胸には、巨大な爪で裂かれたような傷がある。深々と抉れた肉から血と黒い虫が落ち続けて、その傷口に虫がたかろうとしているように見えた。
「どこまでも……どこまでも……!」
腸が煮えくり返る。延々と付きまとい、わたしの全てを食い尽くさんとするあの黒い殺意にわたしは果てしない怒りを覚えた。いつのまにか、宙への恐れを忘れて。きっと、イムの言葉がそうさせたのだ。
カッツィに駆け寄り、黒い虫を素手で剥がす。ミミズのような感触も、ナメクジのような感触もしない。ただの空気を触っているかのようにペラペラと虫は剥げる。この視覚情報に意味は無いのだろう。黒い殺意に終わりは無く、空気のように沸いてでる。
「ワタクシの、魔術が……寄生に抵抗して……」
「いつ!? いつあいつに寄生されたの!?」
わたしは自分で聞いて、ハッとした。あの時、惨劇の前の夜、カッツィが子猫を学園の地下に向かわせ、視界を共有した時、彼女は大したものは無かったと言った。
しかし、イムは『アァ レウェから信号を受け取っている人間は、やつの姿が見えない』と言ったのだ。
「あの時か……」
「ユウメ、さん。ワタクシは、寄生に、抵抗しています。が、時間の、問題でしょう」
カッツィの理知的な緑の瞳がわたしを見た。彼女の半身はアンバランスに巨大化したり、縮小したりを繰り返しているが、爪を剥き出しにした、攻撃的な形は変わらない。
「違う。耐えられるよ。カッツィなら負けないでしょ!? 現に戦ってる!」
あの日からまだ一週間だ。発症まで残り一週間余裕があるんじゃないのか。いや、そもそも計算が違ったのか? いや、まだその推測を否定するのには早い。発症が不完全であることは確実だ、現に彼女は抵抗できているのだから。
「彼らの、目的は、ワタクシを操ることじゃない……」
カッツィの目がイムの方へ向く。そこには、床を這い、わたしの空間を這い登ろうとする大量の黒い虫がいた。彼女から落ちた虫がイムの方へと向かっている。
「イムの寄生を早めようとしてるってわけ?」
わたしはそれらを空間を動かし、粉になるまで切り刻んだ。彼ら虫共は防御魔術で抵抗すらしない。そして、彼女から落ちた虫は大挙となって行進し続ける。血と肉が黒い虫に変わってしまったかのようだった。
「そう、です。それと、もう一つ……」
カッツィは強く苦しんだ。開ききった瞳孔が縮小してまた拡大する。
「どうしたの、喋れないの?」
彼女は大量の血と黒い虫を吐いた。咳き込み、苦しむ彼女に、わたしは胸が締め付けられた。溢れる内心を喉元で抑えながら、蠢く虫共を殺し続ける。
「カッツィ……!」
すると突然、妙に落ち着いたカッツィがわたしの両肩を掴み、変異が止まり、両目に強い理知を宿した瞳でわたしを見た。その姿を受け止められず、わたしの視界は歪んだ。
「よく聞いてください。ワタクシはもうダメです。奴らが防御魔術まで制御できるようになればイムグリーネが奪われます。いま、ここで、それを阻止できるのは、あいつを護れるのは貴女しかいません。ワタクシが何を言っているのか、分かりますね」
わたしは頷いた。そうせざるをえなかった。言葉は出ず、嗚咽が零れるのみだった。
「あなたの心を折ること。それが奴らのもうひとつの目的です。貴女を奴らは恐れているのです。だからこそ、ユウメさん、貴女はワタクシを殺した後も、立ち上がらなければならない」
わたしは頷けなかった。俯いた顔を上げることができない。彼女はわたしの頤を持ち、顔を上げさせた。
「ユウメさん。貴女は弱い。身体は強靭でも、心が脆い」
情けなく、悔しかった。言葉自体に思ったのではない。否定することが出来ない自分であることに思った。
わたしの涙を見たカッツィは、足を折りたたんで正座した。そして、膝の上に手を置き、背筋を伸ばす。胸から腹まで刻まれた裂傷からの出血が止まり、蠢く虫は彼女の体の中で抑え込まれた。
苦しみに耐え忍び、天に吊られるように伸びるその背は、清廉にも強く生きる、彼女の生き様そのものだった。
「ユウメさん。ワタクシの最期の言葉、よく覚えておきなさい。人は、正しく生きずとも、誰かの為ではなくとも、自分のために生きずとも良いのです。どんなに空しくても、辛くても、不条理を殴り壊し、踏み越えて、前を向いて生きてさえいれば、人類に、意志に、貴女に負けはない! ユウメさん、貴女は貴女の為に――強く生きるのです!」
セレクト・ファイブ
→カッツィを殺す イムを殺す
選択の時が来た。過去の束縛に自由は無く、そして、今のわたしに自由は必要なかった。条件魔術は、定めを受け入れたわたしを支援するように魔力を高め、その様子を邪魔することなく、体を無理やりに動かすことなく沈黙していた。
わたしはカッツィから離れ、彼女を六面の空間に閉じ込める。それでも、手は震え、体は虚脱感に襲われる。こころが感情に追いつかない。カッツィを殺す覚悟なんて簡単に宿るものではないのだ。
それでも、それでも。
わたし自身が彼女を葬らなければ、誰がやる。
アァ レウェでも、クリュサオルでも、条件魔術でも、運命でもない!
彼女の命を奪い、送るのはわたしでなくてはならない!
彼女はわたしに頼んだのだ。最期の願いくらい叶えてやらなければ。彼女は、わたしの友達なのだから。
「カッツィ……」
わたしは笑おうとした。出来たかどうかは分からない。でも、カッツィの顔がすこしだけ柔らかになったから、分かってくれたんだと思う。
わたしが空間に魔力を込めたときに、彼女は口を開いた。
「ごめんね。ユウメ」
わたしは空間を圧縮した。
割れたガラスの散らばる部屋には、苦しそうに眠るイムと、血だまりの上で浮かぶ赤いサイコロがあった。
寂寥と沈黙が詰まる。
涙が滲み、上下感覚が無くなる程の悲しさがわたしを襲った。気が付けば、全身の力が抜け、膝をつき、喉元までつっかえていたものが全てあふれ出した。それは、感情がそのまま音になった、声ともつかぬ、慟哭だった。




