第65話 一切の希望を
トリトリントの傷は浅くない。腹部の中心から背中に顔を出すナイフは明らかに内臓を破壊している。真夜中に鳴る鐘の音と、王子が叩きつけられた壁から崩れ落ちる音を耳に入れながら、ナイフ周辺の血液を凝り固めてそれ以上の出血を防いだ。
「ありがとう。フクロウちゃん。と、そのモリフクロウ。助かった……本当に」
拘束したトリトリントを抱えながら言うと、彼女はきらきらと笑って血に塗れた手を振る。
「お役に立てたようで、良かったよ。この子に勲章をあげなきゃだね。トリトリントは、どうするの?」
「学園に戻って医務室で治療する。鐘に釣られて人が来るかもしれないから急がないと」
「学園に戻るの?」
ユウメの声に振り向くと、彼女は王子を汚いものでも持つように掴んでぶら下げていた。切断した舌からの出血で窒息しないようにしているのだろう。最近覚えた手加減を使ったようだ。まだ息がある。
「レモンは俺が預かろう」
「分かった。生きてたら教えてよ。もう一発殴るから」
「ダメよ。もし舌が治って喋られでもしたらまた操られるわ」
念の為、彼の舌と口内をデタラメに繋げ、簡単には治せないように細工する。ユウメに彼をゴルトへ渡すように指示すると、彼女はそれを投げ渡した。
「これからどうするか、何か考えているか?」
一国の未来を継ぐ予定の人間から言葉を奪ったのだから、後始末をしなければならないのは当然だろう。だが、賽の目のようにくるくると変わる展開の中で、それを考えるほど為政者として出来てはいない。
「えぇっと。適当に閉じ込めておいてくれる? あとで考えるわ」
「ああ。分かった。治療を優先してくれ。思考がまとまったら連絡が欲しい。場所はユウメに聞いたら分かるはずだ」
そうして、殴り足りないと不完全燃焼気味の護衛を連れて学園に向かう。時計塔から出た後の空気や、夜の星空が見えたことに感動する余裕はなく焦燥に駆られ、口を閉じて早足に進む。なぜだか、星の流れがいつもより早い気がした。私が世界に縋り付こうとしているからだろうか。流されないように。流されないように。街灯の橙色の光が流れ、夜の空気が撫で付け、月が廻り、時間という渓流の中で、私だけが時間のすきまを掴んで流されまいとしている。重力に引き伸ばされる世界で手を繋ぐ温かみを知ってしまったばかりに、冷たい無重力で何の導も無しに泳ぐことを恐れるようになってしまった。彼女の空間さえあれば、私は隔絶され何も変わらぬままでいられるというのに。しかし、彼女はそれをしない。だから、これから起こるであろうことが、とてつもなく恐ろしい。
そして、薄く引き伸ばされた青と黒の闇から学園の門が現われる。門の横には見慣れた緑色の両目が浮いていた。
「あら? どうしたのですか? こんな真夜中に」
真夜中に浮かぶアーモンド形の瞳が見開かれ、更に近づくと、メイド服の白が浮かび上がってくる。カッツィは肉球を口元に当てて、たいそう驚いたといった感じで言葉を投げかけた。
「話せば長くなるから。あなたこそ何して……」
問が終わる前に、とてとてと小さな子猫が学園から歩いてきて、カッツィの足元へ擦り寄る。
「三英五騎士がいないうちに、学園内を探検しようと。獣人には同じ種の感覚や記憶などを共有したり、頼み事をしたりなどの能力があり、祖に近ければ近いほどその能力が強まります。幸い、ワタクシは最高峰にも近い才を授かっておりますので……」
「ずいぶん……暢気と言うか、楽観的ね……危ないのよ?」
カッツィはその子猫を抱きかかえて、私から目を逸らす。
「だからこの子に行ってもらったのです」
不貞腐れたようにそう言うと、猫同士が挨拶するように子猫の鼻と自分の鼻を合わせると、数秒もせずに、同期の反動かその子猫を花瓶のように落として片手で頭を押さえる。花瓶じゃないから、子猫は割れなかった。
「大丈夫!?」
ユウメが心配した声をかけると、カッツィは平気だと言うように肉球を見せる。
「情報量が多すぎる……この子、ありとあらゆるところでつまみ食いをして来ましたね。少し堪えました」
「そ、そう。で、どうだったの!? 何か見えたの!?」
ユウメが身を乗り出して聞く。姉の仇である学園の真実を前に、逸る気持ちは抑えられないだろう。
「いえ……隅々まで見ましたが、大したものはありません。地下に開闢の英雄の墓があったくらいでしょうか。この子は空気が通るところならすべて確認できますし……隠し部屋のようなものもないかと」
ユウメはそれを聞いてがっくりと肩を落とし、少し考えてその事実を認めたくないと首を振る。
「だって、三英五騎士のひとりがいたんだよ。なにもないところにアイツらはいないでしょ!」
「ないことはないわ。焚書庫には情報があった」
「いや、それよりもあの扉を通らせたくないような……いや! 後で話そう。先に治療しないと」
ユウメはハッとしてトリトリントの様子を見る。腕に倒れる彼女は、だんだんと呼気が薄くなりそのまま安らかになろうとしていた。急がなければならない。
滲み出るような汗が体を纏っていたことに今気づく。
動悸と皮膚を内側から捲るような激しい血流の動きに、いまさらになって気付いたのだ。時計塔で起きたことを振り返らずに、前にずっと進んだ方がいいと無意識に考えていたのだろう。
カッツィの能天気に助けられたのかもしれない。冷静ではないと気づけることは、冷静ではないまま過ごすよりずっといい。だが、そうであろうとそうでなかろうと、トリトリントが死ねば、私は終わりだ。
「フクロウちゃんはもう休んで。明日から一緒にトリトリントを見張っててもらうから。ユウメとカッツィは私を手伝って」
「了解。分かったよ」
カッツィが学園に侵入したことがバレないように、黒猫に変身してもらって医務室に向かった。
結果として、鍵のかかった医務室を開けてからは、特に躓くことはなく円滑に治療は終わった。ユウメの砕けた骨を組み立てるより十倍ほど楽な手術だったが、緊張による手の震えは十分の一にはなってくれなかった。
「この子はワタクシが見張っておきましょう。お二人は、少し休まれた方が……」
「うん……日が昇る前に戻るから」
私の手間取る様子を見て、何かを察したカッツィが休息を促す。断る理由もなく、ありがたい提案に甘えて私とユウメは学生寮に戻った。
いつもよりふわふわに、やわらかく見えるベッドに倒れ込む。身体は睡眠を求めているが、心はもっと他の物を求めている。その両方を満たすものがこのベットにある。
「なんで躊躇なく人のベッドに飛び込めるの?」
布の擦れる音と私の横が沈み込んだことで、ユウメが横に座ったことが分かった。
「ごめんね、助けるの遅くなっちゃった」
返事をしない私の背中に言葉を投げて、手で私の髪をくるくると弄る。
「まさか王都のど真ん中でやってるとは思わなかった。まぁ、本当は、早く見つけられてもトリトリントとイムが話をつけるまで待とうとしたんだけど」
「最低……」
素直に受け入れられなかった。ただの話し合いで終わらない、過去と向き合うには目を合わせて対話するしかない、と彼女は分かっている。そして、私を想ってくれている。
私の心が折れれば終わりだったが、彼女はそうなる未来をちっとも考慮していなかったようだ。私よりも私のことを信用していることが、なんだか嬉しくて、むかついた。
「ごめんって」
その言葉は待ち合わせに数分遅れたときのような軽い謝罪だったが、水分がしみ込んだ綿のように軽さの中に重さがあった。
ユウメは時計塔にたどり着くまでの経緯を話す。王子に捕らえられたが、ゴルトが恩を返しに来てくれたこと。彼と怪しい場所を探しても全く見つからなかったこと。帰りが遅いことを怪しんだフクロウちゃんが『メラヴィリア』を使って、既に捜索を始めていたこと。そのフクロウちゃんと運よく合流して時計塔にたどり着いたこと。
私はアンサーにあの時計塔で起こったことを語る。
いつの間にか、私はユウメに背を預ける形になっていた。彼女は私を後ろから抱き締めながら耳元で口を動かす。
「簡単には言いたくないけど、言いたいから言うよ」
彼女は強く抱きしめる。
「よく、頑張ったね」
正面から抱き合ってなくてよかった。私と彼女がこういう関係でよかった。とにかく、いまは顔を見られたくない。震えるであろう声を聴かせたくなくて、小さく、本当に小さくせいいっぱいの鈴みたいな返事を返した。
「……トリトリントは、たぶん、誰にも死んでほしくないのだと思う。親の仇を前にしても、自分の憎しみを捻じ伏せて理性で打ち勝つのだから、彼女のあの理念は本物ね。尊敬する」
「でも、自分を殺して……」
「あれは、彼女を支えていた人が死んでしまったからよ。人間っていうのは、大きな感情に突き動かされると、簡単に自分の価値を忘れてしまうの。特に、トリトリントみたいな優しい子は」
「ふふ、じゃあ、最後まで自分を忘れなかったイムの理念も、本物だね」
「それは……そうね。みんながいたから。ミチルとか、フィアとか、それに、学園であったみんな。……もちろんあなたもよ。ただ、それの違いね」
グリズリもウィズダムも、ファウンにクレッテ、フクロウちゃんに灰色のモリフクロウ……
「……私ね学園に来て本当に良かったと思う」
空を見上げる様に首を曲げると、屈託のない笑顔のユウメがいた。彼女は、私に軽くキスをして言う。
「わたしも、そう思うよ。……もっと、平和な道のりでここにこれたらよかったんだけどね」
それは、本当にそうだ。私の命が狙われてなければ、彼女の姉が死んでいなければ、私が殺しに目覚めなければ、もっと言えば、私のルーツが、もっと違うものだったら。
「ユウメ。私の起源について、聞いてくれる?」
これは、後悔の過去よりも、ずっとずっと忌まわしくて後回しにしていたこと。
「何? 起源って、イムはイムでしょ」
「あなたは母が殺されて、護るため力を求めた。それと一緒よ、私の父の名はアドル・レーチス。帝国人ならみんな知ってる、あの虐殺の首謀者ね」
シンと静まり返る。二人しかいないのだから、どちらかが喋らなければ音は無い。私は彼女に理解する時間を与えていたし、彼女は理解する時間を欲していた。
「三千万人を殺した、将軍が?」
「そう。お母さま、女帝は十の大公家から配を取るでしょう? 今は九になったけど。第二配に選ばれたのがアドル・レーチス。産まれた第二皇女が私」
「そうか。だから、人を救わなくちゃいけないの? お父さんが殺したから?」
「そう。あの男は無意味に、無作為に、虫みたいになりふり構わず人を殺した。彼らの墓標には『無意味な虐殺の被害者』としか綴られない。それは、あまりにも寂しいでしょう。だから、私が出来うる限り人を救って、出来うる限りの人たちに『虐殺に心を痛めた皇女が多くの人を救った』と思わせないといけない」
「どういう……理屈なの?」
「だって、そうすればあの無意味な虐殺には意味があったことになる。少なくとも、あの虐殺があったからこそ私が救済の道を見つけたと思うでしょう? だから、彼らが死んだのは無意味じゃない。墓標には『虐殺の被害者』とともに『聖女を目覚めさせた英雄たち』と綴られるでしょう? そうならないというのなら、彼らはどうして死んでしまったの?」
ユウメが言葉に詰まったようだ。戦慄しているのかもしれない、恐れているのかもしれない。私だって、歪んだ理念だと分かっている。
ただ、ずっと、私は三千万の命を背負っている。
女帝の裁きが遅れたのは私がおなかにいたせいだ。虐殺者が生んだのが恨みと憎しみと私だ。産まれたときからずっとマイナス。三千万のマイナス。何をしても動かないこの数字を背負えるのは、父の子である私だけ。
「違……うまくまとめられないけど、その考えは違う……それに本当に無意味だったの? 三千万人も殺すなんて、何か理由がないと」
「実際に父に聞いたの」
「え? だって、あの人って、すぐに処刑されたんじゃ」
「そういうことになっているけど。そうすることは出来なかった。こんな惨劇を繰り返さないために、原因を聞く必要があったから、彼はずっと幽閉されていたのよ」
「……原因は?」
「『わからない』ずーっとそう言ってた。だから、女帝は私が自分で考えられるようになるまでずーっと聞き続けた。痩せた顔で、行き詰った学者みたいに、割り算を前にした子供みたいに、本気で困惑していたわ。笑えない。何も考えずに人を殺して、犯して、奪って、そんなことを言える人間が同じ人間だとは思えない」
ユウメは今までにないくらい強く私を抱きしめる。
「でも、私も……一緒だった」
ユウメは耳元で「違う、違うよ」と言い続けるが、一度切った堰は簡単には止まらない。
「私にも、あの男の冷たい血が流れてる。人を救うための行動が、人を殺すこと? それが一番手っ取り早く、多くの人が救えた。人に疎まれる力があった、そんな力じゃないよって言いたかったのに。私は手っ取り早く、何も考えずに三千万人を救おうとした。早く楽になろうとした。その結果、生んだものがあの男と同じ。恨みと憎しみとマイナスに叩き落された女の子。私は、自分が最も嫌うものと一緒だった。……こうならないように、頑張ったのに。わたしのやってきたことって、ぜんぶ無駄だったのかなぁ……」
「違うって言ってるでしょ!」
ユウメはがっしりと私の顔を掴んで上から覗き込む、表情は下手な絵のように滲んで見えない。
「最初から最後まで全部違う! 根元から葉っぱの先っちょまで、言ってることが滅茶苦茶でぐちゃぐちゃ!」
「ちがう?」
「そう。イムが人を助けるのは、イムが優しいから! イムが人を殺しちゃったのは、イムが間違えたから! 最初から最後まで父親は関係ないの。あなたはあなたのために生きてる」
「なんで、そんなことが分かるのよ……」
「だってそうでしょう。イムがわたしを助けたのはなんで? イムがわたしに首輪をくれたのはなんで? その七百万人を救うため?」
「ちがう」
「そう、違う。――わたしのことを好きになってくれたからでしょ?」
涙を魔術で止められたら、どれだけよかったか。泣かれているところを見られたくなくて、ユウメに真正面から抱き着いた。
「そう……好きだから、誰にも、うばわれたくなくて」
「でしょ? 偶然、あの人の娘になって、偶然、瞳の力があって、偶然、間違えてしまった。そして、偶然わたしを助けることになる。偶然が運命に見えただけ。イムはイム。親の分まで、背負わなくていいんだよ」
午前二時。彼女はこんな声も出せたのか。子守歌のような声で囁くのは、姉の真似だろうか。だが、次に発せられた言葉は、そんな優しさはかけらも見せない、底冷えしたユウメの声だった。
「イム。わたし、イムと一緒に死んであげる」
愛とも憎悪ともつかぬ毛色の言葉に驚く間も与えずに彼女は畳みかける。
「イムが言ったように、その虐殺者とおんなじようになっちゃったら、私が殺してあげる。そして、私も死ぬ。ずっと横で見張っといてあげる。私達が生きてるときは、生きてもいいってこと。私が殺すまで殺させない。護ってあげる。ずっと横で」
「なにそれ、プロポーズ?」
重々しい言葉も妙に嬉しくて、適当に言葉を零して濁す。すると、彼女は沈黙した後に激しすぎる心臓の鼓動で返事をした。
「ど、どうしたの」
突然身体を離した私に彼女は困惑する。ありえないぐらい紅潮した頬にキスをして、ありえないぐらい彼女の耳元に近づいて、絶対に誰にも聞かれないように小さな声で囁く。
「ねぇ…………する?」
「す、す、するってなにを」
「本当に分からないの?」
彼女は私の頭から足先まで一瞬で流し見た後に、目の置き場に困ったのか視線を部屋の片隅に固定した。分かっているようだ。
変な言い訳を考えられる前に、強引にキスをして押し倒す。抵抗は全くなかった。
「まって ぁっ」
服の上から胸を揉むと、心臓の音が右腕に響く。これは、私のもの。征服感と情欲が合わされば理性と言うのは簡単に崩れ落ちる。空いた手で下腹部を撫でても、抵抗のての字もない。あっても形だけのもの。条件魔術対策の手枷足枷、その重量が私に有利に機能して、やりたいほうだいできる。
胸と胸を合わせてキスをする。続けていくと、胸に確かではない硬い感触が混ざる。舌と舌の間に挟まれる熱い吐息も、波長に隙間の無くなった心臓の音もどっちがどっちだか分からない。瞳がなくても、体の中までくっつけば心が読めるんだろうか。
軍服のズボンに手を入れて、女の子の一番敏感なところに触るとそこを中心に体全体が跳ねて、喉の奥から出た声を聞く。潤んで零れる涙を見ると、触ってないのに私も気持ちよくなってしまう。
これが喧嘩だったら、最後に泣いたのはユウメだから私の勝ちだ。
慰められたのがむかついたから襲ったと、十年後ぐらいに謝罪しよう。いまはただ、永遠に続くこの瞬間を楽しみたい。
朝日なんて昇らなくていい。朝日なんて死んじゃえばいい。
腰の方から手にすり寄るような体を、文字通り好き放題弄り倒して長い夜の時間は終わり、終わらない朝を迎えようとしていた。
 




