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第64話 この門をくぐる者は

 戦争が始まる。


 沿岸部の要塞化に始まり、傭兵軍隊から国家軍隊への編纂。悪徳の牧場となった貧民層に学び場を与え、王都は豊かになった。


 影は黒から白へ、富める富に呼応するように建物は空へ伸びた。


 富める富が、ヒゼキア王の元、彼の力へと変換されている。


 静まり返った諸外国と、汚染地域(リヒトンリージョン)の向こう側にある帳の降りた帝国。


 王子は焦っている。


 間違いなく、戦争が始まる。


 冬の予兆を、もったいぶるように昇る明けの火輪に感じるように。王国は戦争の予兆を感じている。


 王子は考えた。


 父、ヒゼキアならば、『祖母』の謀略を盤上から破った父なら、あの天帝をも御するかもしれない。


 そうなれば、ヒゼキアは天を超えた王となり、世界には久遠の平和が訪れるだろう。


 それは、いけない。


 平和の世界へ戸を叩くのは『祖母』か、その意志を次ぐ僕でなくてはならない。


 平和な世界に意味は無い。


 その世界では、意志が生まれないのだから。


 よって、誰が平和にしたかに最後の意味が残る。


 そのために、イムグリーネ・ヴィルヘルム。彼女の心を折る。薪の火を簒奪する。僕のものにする。そのために、僕は生きてきた。


 生涯を費やした計画の節目を、この時計塔の下で迎える。


「イムグリーネ。改めて、紹介しようじゃあないか。彼女の名は――」


「黙っていてください」


 数学者のように早く短い答えが飛ぶ。トリトリントは、レモンの方を見もせずに彼の言葉を斬った、温かさの無いナイフの切っ先をイムグリーネに向けて。


 レモンは『好きなようにやれ』と呆れたように手を挙げる。


「帝国の皇女。私の名前が分かりますか」


 トリトリントが突きつけたナイフは、ゆっくりとイムグリーネの肩に沈み込む。制服が肉を守り、刃先が服を吸い込んでいるような模様が作られた。


「トリトリント」


 イムグリーネは、沈み込むナイフに反して胸を張り、毅然として答えた。


「はい。では、あの街の名前は分かりますか」


 皇女の表情に影が産まれるのに反して、トリトリントの顔には影しかない。


「バースディ」


「はい。では、あの街の風景を覚えていますか」


「……風が、気持ちいい街だった。人は多いけど、のどかな街で……草原みたいに綺麗な風が吹いてた。街並みは白くて、綺麗で、街道や公園に手入れをされた花壇があった。無防備に窓を開けた先から弦楽器の音色が頻繁に、子供の笑い声が聞こえて……いい、街だった」


 トリトリントは思いを馳せ、目を閉じる。彼女の中では、その美しい光景がそのまま再生されているのだろうか、それとも、その光景に結びついた恨みを、忘れぬようにと刻んだ恨みを目覚めさせようとしているのか。


 それは、王子にも分からない。トリトリントのナイフが怒りに震える様を見て、王子は顔を覆い、夢想にふける。


 分からなくていい『彼女がどう思おうと、どっちでもいい』最終的に、皇女が責任の重圧に折れ『王子に唆された』と、命乞いのような文言を吐けば、心は折れたも同然、僕の勝ちだ。


 イムグリーネは強い女だ。ただ、ナイフを突きつけて脅したところで、命惜しさで僕に傅く女ではない。だからこそ、数年を賭けて、数名の意思と命を無駄にして、場を整える必要があった。身体ではなく、心にナイフを突き立てるために。


 彼女は折れる。


 騙され、唆され、いわば『冤罪』じゃないかと、誰であっても考える。なぜ、私だけが仇として責められるのか、横に黒幕がいるというのに……


 そうして、トリトリントに『言い訳』をしたとき。自分の罪から目を逸らしたときに、責任に押しつぶされ、彼女は折れる。それがイムグリーネだ。


 イムグリーネにはもう、心を読む余裕すらない。その選択肢を考えてもいない。彼女はどこか冷静に、自分が不利になる選択肢を排除するだろう。


 そして、もしこれが失敗したとしても……ユウメというナイフのストックがある。


 トリトリントが熱を冷ますように息を吸う。


「えぇ、いい街です。子供がいた。猫がいた。図書館があった。文化があった。……友達がいた。家族がいた。あの街でしか見れない空があった。


 …………殺してやりたい


 スゥ――許せないことは、変わらないことです。あの街は、今もその空の下で、変わらない時間を過ごしている。何もかも変わらない。領主が、領地の父が死んだというのに……!


 父はありもしない罪を被され、その罪を償うには、一家の取り潰ししか道は無く、母は私を生かすため私にナイフを握らせ、自らを殺すように命じました。私を罪の告発者にしようというのです。


 ……それから見た空は、いつもと全く変わらなかった。白い街に走る風も、子供の声も、街の全てが、何も変わらない。一歩後ろには、母が転がっているのに」


 トリトリントの一家は滑らかに取り潰された。予めそうなることが決まっていたかのように。彼女も、その違和感を考えなかったわけではない。だが、人は、目に見えない敵よりも、目に見える敵を求める。


「そうだよなぁ……トリちゃん。イムグリーネェ……お前の軽率な判断で! 一人の娘と! その家族の名誉は全て失われた。なんでそんなことをしちゃったんだい? 皇女様」


 イムグリーネは気丈にも顔を上げ、トリトリントから目を離さない。しかし、復讐に堕ちた女よりも、罪を犯した皇女の方が、痛ましく打ちのめされたような悲愴が瞳に溢れていた。無防備に雨に打たれたようだ。


「私は、人を救うために彼を殺した。彼を、あなたの父を殺すことで、もっと助かる人がいると私は思っていた」


「それは間違いです」


「その通りで、間違いだった。気づいた時には……全てが遅かった。彼は何の罪も無い、善良な、一人の父で、私は……わたしは……」


「何もせずに逃げた。人を救うとぬかしながら、崖っぷちで掴まる同じ歳の少女と、その母親を見捨てたと……!?」


 トリトリントがナイフを両手で握る。


「……そう。見捨てることを選んだ。私が表から関与すれば、領主暗殺に関わったことが知られ、間違いなく戦争がはじまる。だけど、裏から関われば……」


 王子が手の中でにやりと笑う。


「何が言いたいのか分かりましたよ」


 彼女の目にいよいよ烈火が燃える。


「戦争が始まればもっと不幸になる人間が増える。だから、大を救うために小である私たちを切り捨てたんだ。幸福な家族を無意味に地獄に追い込んで『人を救う』? 大した為政者じゃありませんか! ……いや、そうじゃない。天秤にかけられてもいないんだ、私たち家族は。父が生きていれば、戦争が始まった訳でもない。小を捨て、大を生かしたんじゃない。大も小も、無意味に、虫みたいに潰したんだ。アンタは。自分可愛さでッ! のうのうと、私たち家族のことなんて何も考えずに、したり顔で『人を救う』 なんてのさばってッ! 償いの心なんて無いんだろ!? あったら自殺してるはずだ! 『人を救う』んだったら! 自分が死んだ方が良い事に気づけよっ! 」


 イムグリーネは顔を下げない。真っ向からその言葉の雨を受け止める。だが、レモンは、はっきりと、彼女の心が軋む音を捉えていた。


 トリトリントが息を整え、待ちかねたその時を迎えようと、深呼吸をした。


「今から、あなたを殺します」


 イムグリーネは、枯れた花のように頭を下げる。何も言えない。何も言葉が浮かばないのだ。


 トリトリントの言った通り、過去の責任を果たす時がきた。皇女は、そう考えた。


 自然が生と死を流転し、それそのものが自浄作用を持つように、自分自身が人類を自浄する力の一部となろうとした。その力が、その理由を持つのは、私しかいないと思っていた。そうするしか、私の存在する理由はなかった。


 だが、彼女の前には、全てが言い訳だ。彼女の父は、無意味に、無駄に死んだ。何も残さず、残せず、残したものすら燃やされて。それだけが彼女の中に存在する理由であり並ぶドミノを倒したのは、私なのだ。


 自浄作用が、私に死ねと言っている。番が回ってきただけだ……


 命の計算は私に死ねと言っている。


 レモンが死ぬのはダメだ。必ず、多くの人が不幸になる。私のやった事が全て無意味になる。でも……もう、無意味なのではないか。彼女の父が死んだ時点で、その理論は破綻していたのではないか。


 なら、目の前の不幸な彼女に真実を教えてもいいのではないか……? 私の殺した全ての命を無駄にすることが、今は正しいことなんじゃないか?


 最期に、黒幕の名を出しても許されるはずだ……


「あ………」


 ユウメはどこにいるんだろう。大丈夫かな……私が居なくなっても、一人で髪を結えるかな……ちゃんとしたご飯は食べるかな……


 ちゃんと、悲しんでくれるかな……


 本当に、最期の最期、星のきらめく瞬間でいいから、ユウメと会いたかった――


 私は鳥が嫌いだ。


 なのに、諦念と処刑の瞬間に挟まった紙切れには、あのモリフクロウの姿が現像されてあった。


 ピンストライプの柄を背広のようにモノにして、誇り高く、芯のあるフクロウ……


 誰にもへりくだることなく、誰にも媚びることなく、誰にも靡くことのない、孤高の鳥。

 翼の折れた重い体で、誰よりも高く飛ぶあのモリフクロウを、私は思い出した。


 ミチルの見せた背中から目を逸らすのか?


 ユウメの主人として胸は張れるのか?


 死んだ者たちに名を言えるか?


 皇女の意志に偽り無し。


 ――最期くらい、あいつみたいに胸張って死んでやる。


「何か、弁明でもあるというのですか」


 顔を上げたイムグリーネに、トリトリントは問いかける。


 瞳に帯びた強い光は、ここにいる誰よりも、鐘に反射する夜空よりも輝いている。


 ナイフが皮膚に突き刺さるのも気にせず、誇り高く胸を張る。


 トリトリントも、イムグリーネも、どちらとも怯まない。


 王子だけが、その状況の変化に追いついていなかった。


「――あなたの父を殺したことを、私は悔いている。あの殺しは、完全に無意味だった」


 トリトリントの眉間に深い皺がよる。構わずに皇女は続けた。


「自然には、自浄作用がある。不要物を排除する自浄がね。私は、それを殺しによって、この手でもたらし、世の中をもっと良くしていくつもりだった。あなたの父は、その殺しに巻き込まれた完全な被害者……つまり、私は無意味に人を殺す殺人者に成り下がったということになる。だからこそ、自浄作用はこの場を作った。不要物となった私が、今度は排除される。


 ――だから、あなたの父の死は無駄じゃない。どれだけ恵まれた人間にも、自浄作用が働き、そして、排除されることの犠牲になった……平和に、繋がる死だった……」


 王子が言葉を失った。そんな弁明で、命が助かるはずがない、逆に怒りを買うだけだ。手の上で回していたはずのイムグリーネが、勝手に回り出したことに困惑する。


「ということを、さっきからグルグルと考えていたのだけれど……詭弁も詭弁ね」


 王子に口を挟まれる前に、皇女は続ける。


「『私のやったことは全て無駄だった――』貴女の父を奪ったのは、紛れもなく、このヴィルヘルム帝国第二皇女のイムグリーネであり、責任は全て私にあります。貴女の気が晴れるのなら、人に迷惑をかけない形で、やれと言われたことを全てやります。無惨に殺されても、死ぬまで拷問されても構いません。――ただ、私との関係を公表されると、多くの人が不幸になるから、それは勘弁してね」


「ち、ちょっと待て! トリちゃん、ちょっと待ってくれ!」


「あなたの言い分はわかりました」


 転がり出したサイコロは、目を出すまでは止まらない。王子の手から零れた賽は、どこまでもどこまでも回り続ける。


「――そう言うと思いましたよ」


 皇女と王子の顔が怪訝に歪む。トリトリントがナイフを胸から引いたのだ。だが、切っ先は皇女に向けたままで、決意と殺意は瞳に滾らせている。


「私は、先程『間違いです』と言いました。それは、父を殺したこと自体に言ったのではありません」


 彼女はナイフを両手に持ったままだ。


「罪を裁くこともまた罪なのか。間違いなく、大罪です。人が人を殺すなんて、執行官や裁判官でさえ、許されることでは無いのです」


「何を……」


「たとえその人物が猟奇殺人犯であっても、未来では英雄として語られているかもしれません。生まれが悪かっただけで、とんでもない才能を持っているかもしれません。その逆も然り。今を判断するのは、いつだって未来なのです。


 よって、人を裁くこと、ましてや、死罪などは、深刻な文化の侵害と損失と言えるでしょう。――しかし、困りました。私のこの思想と別に、家族を殺したあなたを裁きたいと私は考えています。ですから、()()()()()()を考えるのは自明の理ですよね?」


 彼女は、その切っ先を、自分の腹へと向けた。


「――まさか」


 イムグリーネがやめろと叫ぶ前に、彼女の腹に深深とナイフが突き刺さる。誰がどう見ても、致命傷だと分かる。その刃は背中まで貫通していても不思議では無い。


 彼女の苦悶の声は、獅子の威嚇のように響く、決して大きくないはずの悲鳴が蝋燭の光を揺らし、数本が掻き消える。


「やめてっ!」


「はっ、はは。私が死ぬのは、果たして、自浄でしょうか……? ち、ちがいますよ、無意味に、死ぬんです。また、無意味に殺すのです」


「レモン! 早くこれを解きなさい! 私なら治せるから!」


 レモンは唖然として、大きな音を聞いた鳥のように固まってしまっていた。レモンに叫ぶ皇女の声は止まらず、そして、ぐりぐりと内蔵を抉るナイフの動きと、トリトリントの口は止まらない。


「あなたのせいで、また、むじつのひとがしぬ。あなたのせいで、護りたかったひとがしぬ。ふふっ。いい、復讐でしょう?」


 膝を折ったトリトリントには血のエプロンがついて、血を吐く代わりに言葉を吐く彼女の目は爛々と輝いている。痛みに耐える脳内物質のせいか、痛みも恐怖も感じていないのだ。


 その爛々とした瞳が輝きを失う様を想像して、皇女からも血の気が引く。


「そのナイフ、絶対抜いちゃダメよ! ほんとに死んじゃう! 大切な人にも会えなくなるのよ!?」


 血が広がる。


「みんなしにましたよ」


 息が詰まる。


「レモンッ! 早く解けって言ってんのよ! 彼女ほんとに死ぬわよ!?」


 王子は出来の悪いブリキのようにかくかくと首を曲げる。人の血が通っていないような、真っ黒な目を皇女に向ける。その目には、光を通すガラスのように、応答が無い。


 皇女は、彼の本心、その白とは正反対の、漆黒を見る。


「あれが死んだら、きみの心は折れるかな」


「正気……?」という声は言葉にならず、呆気に取られる息となって消えた。彼からは、人の色を感じない。どうしようもない土壇場に、彼の本性が見えた。


 蝋燭の火が揺れる。蝋燭の火が消える。鐘の音は眠りを邪魔することがないよう、釘を刺され沈黙している。王国の民の眠りを邪魔するものは、どこにもいない。


 トリトリントが血を被った両手を再び握りしめる。ナイフの柄を、決して滑らぬように、爛々と狂気を孕んだ目で見つめ。腕全体に力を入れた。


 そのナイフが遂に抜かれる。


「だめ」


 その前に、血を被った手に白い手が重なった。


「なにがあっても、死んじゃだめ」


 その白い手は血で汚れることも恐れずに、ナイフを抜く手を止めた。トリトリントの体を温めるように後ろから抱きしめ、そのナイフを押さえる。


「あなたは……」


 トリトリントは、血を失いすぎたせいか彼女の腕の中で気を失った。


「――フクロウ、ちゃん」


「こんばんは」


 夜空のような髪を持つ彼女は柔らかに笑う。


「帝国の……クソっ! なんでここが分かったんだよ!?」


 王子の声に答えたわけではないだろうが、ちょうどよく、空から鐘の下を通って一羽のモリフクロウが飛んでくる。ピンストライプの柄を持つ彼は、記憶に新しい球体を持って空から降ってきたのだ。


「『メラヴィリア』この子の柄を覚えている人を、検索にかけたの……王子様に言っても、分からないか」


「はぁ? 知らねぇよ。計画が台無しじゃないか」


 レモンがユウメを使った計画を練り始めるが、それを断ち切るように、皇女を結んだワイヤーを踏み砕く音が響く。


「ゴルト……」


 王子は淡々と皇女を解放する馬獣人に驚いた顔を向ける。


 ゴルトはそれを無視した。この男は、呆気にとられ、驚いたふりをして、その裏で思考を回しているからだ。


「なんで皇女を助けているんだい? 俺の計画は話したと思うんだけど」


「あぁ」


「いや、『あぁ』じゃなくて。まさか、反逆ってやつか? 叛骨精神が現れたのか? 獣人の立場が約束したものと全く逆になるかもだぞ?」


「俺は王子と約束した。殺人者と約束したのでは無い」


「殺人? 俺がいつ人を殺めようとしたんだい?」


「トリトリントを見殺しにしようとしただろうがっ! お前はもう王子としての地位を失ったんだよ!」


 ゴルトの剣幕にレモンは怯む。いや、怯んだフリをしていた。彼に、おおよそ人の心と呼べるものは存在しない。


 そして、回した頭で出した説得をする前に、その舌が切断される。

 口をあんぐりと開けて寸断された舌から血を垂らす王子。指に熱を固め、刃としたイムグリーネはその惨状の彼に見向きもせずにトリトリントの元へと向かう。


「私は彼女を治療しないといけないから、執行はいつも通り、彼女に任せるわ」


 開け放たれた時計塔の扉には、白い軍服の彼女が立っていた。両手両足についていた超重量の鉄輪が全て右腕一本にまとめられている。


「知ってる? 帝国の特務機関は、王国でもその権利を十全に行使できるのよ」


 王子が『待て』と手を振るが、皇女も、ゴルトも、彼女も、誰もそれに見向きもしない。良く回る舌は無くなり、魔術を行使することも出来ない。


 修羅の拳を止めるものはここに何も無い。


 鉄拳は、真夜中に鐘を鳴らした。

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