第38話 朱色の空に
ウォルフにより染められた赤い空が帝国軍を見下ろしていた。木々は焼失し、赤熱した太い炭が生えているようで、草原は跡形もなくなり、蒸発した大河による水蒸気が、大地のあらゆる非魔力生命体を焼き尽くし、無差別に無慈悲に、消し尽くしている。
火の粉の嵐の中、防御魔術を消失し、熱さに苦しむ自軍の前でユウメは空間設置のイメージを固めていた。
「空間との間に空気を入れた断熱層を百層以上作って、土の層もいくつか混ぜるの、空間でせり上げればいけるはずよ。それと、このままだと地面に焼かれるから空に浮かばせて」
「了解。設置」
イムの指示に従って、帝国軍を包み込むように設置された空間が動き出す。自軍全員に命じた防御魔術の消失は、この球体の中では嫌でも空間に接触するため、必要な命令だった。
イムの目には、薄透明の象牙色の空間がドームのように自他を包み込む様子が見えていた。半透明のドームを更に土塊のドームが覆い、空間の中は光が遮断され暗黒が満ちる。一連の流れは、マトリョーシカの中にいるような光景だった。
そして、完成した護りが動き出す。ひとりの光魔術師が魔力を光に変換すると、ゆっくりと上昇を始めた球体空間に揺らされて、数人がバランスを崩してしゃがみ込むのが光に照らされてよく見えた。
温度がいくらか下がり、呼吸が楽になってほっとするイムとフィアを除き、誰しもが驚愕していた。ユウメ・エクテレウを空間魔術の使い手と知っていたのに、いや、知っていたからこそ、この異常事態を前に、唖然とせざるを得なかった。だが、そんなことは後にしろと言わんばかりにイムが次の指示を出す。
「グリズリ、水魔術の精密さに自信があるんだったわね」
仲間からグリズリと呼ばれる熊のようなあの男は一歩前に出る。その目には困惑と、そして、その一歩はその認識で間違いないという確かな自信があった。
「ユウメの空間外周二枚目の内側で水を循環させて、温度の上昇を防ぐ」
精密な作業が要求される。空間と空間の、1メートル程度の細い隙間を使うためだ。グリズリの魔力で水を生み出し、熱を奪い取って外に廃棄するという計画。
しかし、魔力密度の高いものは、それ以下の魔術を分解する。変換した水魔術がユウメの空間に触れて分解されては意味が無い。
「そこはここから何メートルだ」
「空間の厚みが2センチで断熱層が1メートル。それが百層よ」
「99メートルと18センチの球体か。了解した」
グリズリは不満も文句も言わずに難しい作業に着手した。イムは少し意外そうな顔をする。彼の図体は精密の文字から真反対の位置にあるように思えたからだ。
「意外と器用なのね」
「……ノミのような心臓だからかもな」
グリズリは不敵に笑った。
<王国二軍全員と、指揮官の撤退を確認しました。王国二軍の順位が確定しました。諸外国軍の指揮官を抜いた全軍の撤退を確認しました。王国一軍全員と指揮官の撤退を確認しました。王国一軍の順位が確定しました>
クレッテに預けられた無線通信の筐体が絶えず鳴き続けるのが、ユウメの空間に支えられた、土塊の球体に響き渡る。通信を遮る障壁が多くなったため、声の濁りは更に酷くなる。それでも、技構の技術は最低限、安全のための声を届けた。
漢の背中になったグリズリを叩いて、イムは片膝をついたユウメの元へと向かった。水を被ったように汗を垂らすユウメをフィアが心配そうに励ましている。その横にクレッテもいた。
「ユウメ、外周二枚目と一枚目の下部に穴を開けて欲しい。水を外に……大丈夫?」
イムは息を荒くするユウメの顔を覗き込んだ。茶髪が汗で張り付き、サウナのような球体の中で青い顔をしていた。
彼女が操作する百層の空間はそれぞれ独立している。これ程巨大な空間を動かすのは初めてな上、空間の移動には多大な魔力浪費が付きまとう。そして、ひとつひとつ意識しながら、百層の空間を動かすのは、百本の手で絵を描くのと同義だった。
「よ、余裕」
鉛のように鈍い息を吐きながらユウメは言う。彼女は地獄に行っても強がるのだろう。苦い笑いを浮かべながらイムはユウメの肩を叩いた。
ユウメには、この空間の操作の他にも不安点があった。それは、ウォルフがこの球体空間に突撃してくること。防御魔術に触れた空間は消滅する。その選択をされれば、全員無傷での勝利は厳しいだろう。
だが、同時にそれは無いだろうという確信があった。経験による勘ではなく、本能による勘。ウォルフ・ライエが言った『強者原理主義』から考えるに、わたしが彼女の立場ならば、熱でこの空間を破壊しなければそれは“強者”と言えないだろう。彼女は熱で勝負する。その確信があった。
「問題は、彼女が来るかどうか」
イムも同じ不安を抱えていた。ユウメは排熱するように息を吐きながら答える。
「来ないよ。絶対。あいつが自分のことを強者だと思っているなら、絶対来ない」
「……会ったことあるの?」
「いや、別に」
ウォルフのことを知っているような口振りに、イムが問い詰めようとした時、新たな号令が通信を媒介して響き渡る。
<『四岳』>
「ほらね」とユウメは苦しそうに得意げな顔をしてみせた。
試合の判定をしていたリッジ・ケンブ、ミラグラブ、エスベレッタの三教師は空に浮かぶ土塊の赤熱球体と、疑似太陽のような『七岳』を、海岸沿いの崖から見下ろしていた。地図の一面が見えるこの位置は、熱波を受けても少し温度が上がる程度で済むほど戦地から離れていた。
リッジは送信用の通信を握りながら、山火事に繋がる延焼を防ぐため、他教師と生徒が走り回っているのを一瞥し、戦地へ目を向ける。
月と太陽が彼ら自身の重力に引かれ合い、反発し、争い合うような、異様な光景だった。最初は土塊の色だった月も、今や赤熱化し赤い月のような不吉のものになっている。
「中止すべきでは……あれでは中がどうなっているか分かりません」
エスベレッタが不安そうに言った。自身の持つ学級だからか、責任を持った考え方だ。リッジも、特異点を見ていなければ、そう思ったかもしれない。
「エスベレッタ、あなたは、到達者を見たことがありませんね。到達者ならば、問題ありません」
「到達者だからといって、なんの根拠が……」
リッジは答えなかった。根拠など無いからだ。ただ、見れば分かる。彼らは到達者は死ぬべき場所が決まっている。強者が蟻のように死ぬ戦場でも、先頭に立ち続ける彼らを見てきたから。戦争の形は彼らが変えたのだ。若いエスベレッタはそれでも不安を拭えない。
「今行くのは教師の役目じゃないナ」
ミラグラブがいつものお調子者らしく言った。
「生徒を救うのが教師の役目です」
エスベレッタは苛烈に答える。生徒が危険にされらせ続ける焦燥が目に見えていた。
「生徒を信じるのも教師の役目だ」
そんな彼の一転して真剣な言葉に、エスベレッタは動揺した。
「それにな、エスベレッタ。俺は、ユウメを見た時『未来の英雄』と言ったんだ、自分でもなんでかは分からなかっタ。だが、今ならわかル」
ミラグラブは目が良かった。目利きとも言うべきか、ウォルフが炎神の血統、その連なりにあることが分かったように、ユウメ見て感じることがあったのだ。
「一度、たった一度だけ、戦場に立つ姿を見たことがあル。 帝国序列三位。あいつの姿に、そっくりダ」
「特務の……?」
「ああ。似てないカ? 不器用って感じがするだろウ」
『八岳』
ミラグラブの言葉を遮って試練は最高火力に突入する。崖から見える地図一面は赤と黒の脈動する焦土となり、ウォルフの浮遊する足元は融解した大地のプールとなっていた。『八岳』の押し寄せる圧力から逃げるように、溶岩が津波となって押し寄せる。他教師による後処理は悲惨なことになっていた。
それに反して、ユウメの球体空間は未だ健全である。
球体内部では、人の雄叫びのような炎の衝突音が微かに響いている。温度を上げる方向の変化はあっても、下げる方の変化は無い。詰みなのでは無いか、このまま何も変わらないんじゃないか、不安と息苦しさが渦巻いていたのだ。
だが、一部の者達は勝利を確信していた。数十分、山を溶かす熱に当てられていたとしたら、あまりにも、温度の上昇がぬるすぎる。そう、皇女の力は、粒子の振動を抑えられるのだ。ユウメが護る中で、密かに、彼女は救っていた。
息苦しくなったドームの中で全員が固唾を飲んでユウメの背中を見守っている。そして、遂にその瞬間は訪れた。
炎の打ち付ける音が止む。シンと静まり返るドームの中。ユウメが球体の土塊の層に穴を開けて外を確認すると、焦土と化した大地に着地したウォルフがこちらを見ていた。
ユウメの勝ちだ。それを認識した時、ドームの中は喝采と歓声に包まれた。死が迫っていた緊張の解放からか、やり遂げたユウメに対しての賞賛は温かいものに溢れた。
球体をゆっくりと落下させるユウメは、肩を叩いて褒めてくれるみんなに苦しそうに笑う。彼女の魔力は、もう限界を迎えつつあった。
巨人の足跡のような衝撃音と共に、球体空間は着陸した。そして、花が開くように球体は開放される。
焦げた匂いがした。大地は熱波に焼かれ、一面の煤一色に変わっている。酸素が風に乗ってきていたことだけが、幸いだった。
近づいてくるウォルフの姿が見えた。ゆっくりと歩く彼女には燃えるような髪とともに、真っ赤な炎が守護神のように憑いてる。彼女が歩を進める度に、周囲の煤が赤く染まった。ユウメが立ち上がるが、戦える状態には見えない。
「向こうも弱ってるはずだ、行くぞ!」
そう言ってユウメの代わりに勇む数人にイムが「待て」を送る。出鼻をくじかれ、今度はなんだと振り向く数人に皇女は毅然として答えた。
「私がやる」
ウォルフの足が止まる。
「貴女が、私に勝てるとでも? 舐められたものですわね」
ウォルフを含め、皇女の実力を知るものはユウメ、フィア、ミチルの三人を除いて存在しない。
「ユウメより私の方が強いわ」
「わたしの方が強い」「彼女の方が強い」
意外にも、その言葉に怒りを表したのはユウメと、ウォルフだった。意地になっているユウメとは違って、ウォルフがそう言う理由が見当たらない。ユウメはウォルフのことを知っていたし、ウォルフもユウメの実力を信じているようだった。
私の知らないところで。
イムの中で点と点が繋がり、勝手な怒りへと変換され、彼女の顔から表情が消える。
「やっぱり……私の知らないところで……」
「は、何を仰ってますの」
「その口には聞かないわ。体に聞くことにしたから」
ウォルフの体内で『八岳』が練り上がる。彼女は他、一から七と違って『八岳』による攻撃を早めに切り上げていた。それは、潔く火力勝負での負けを認め、接近戦による身体強化を高めるためだった。
「強者とはつまり力。勇も知も力も喰らってこその強者。国家の独立には、強者たり得なければ成せませんの。英雄の子孫が王を倒す。予行練習をさせてもらいますわ」
『八岳』の胎動は熱波から内燃機関のような異次元の出力へと変わる。彼女の体が炎に包まれ、それそのものと一体化したような風貌に変わる。
皇女は、その手法の広がり、活用法。特異点に近いものと見た。
流星となって皇女に向かうウォルフの目には、自らの拳が皇女の顔に入る軌跡がハッキリと見えた。皇女の目は、この速度について来れていないようにも見えた。「勝った」そう思った瞬間、皇女の顔が黒い地面へと変わった。
「帝国の皇女は武術もやる。覚えときなさい」
投げ飛ばされた。理解した時にはもう遅かったのだ。流星の威力そのまま投げ飛ばされ、ウォルフの体は水切りのように大地を跳ねる。煤の大地がヤスリとなって肉を削いだ。
魔術とは、周辺の魔力因子を術者の脳を通して疑似物体へと変換すること。魔力因子由来の炎や、岩、空間は防御魔術に触れて消滅する。
しかし、皇女の攻撃方法は、魔力因子を操作して起こす物理現象であり、物理現象に防御魔術は通用しない。
つまり、皇女の魔術、内の瞳は、森羅万象を支配する防御不能の必殺である。
ウォルフの吹き飛ぶ体を、大地が掴む。そして、流星の威力をそのままに、皇女の元へと投げ飛ばした。魔力の流動をインパクトの瞬間急停止する殴り方は、魔力因子の扱い方を心得ている皇女にとって、最高効率での火力となる。
あれに当たれば、死ぬ。
拳を構えた皇女に、死そのものに秒速百メートルで接近するウォルフは全力で大地に炎を放出し力のベクトルを変えた。 だが、森羅万象を支配しているのは、彼女だ。
屈服の風が吹いた。
目標を絞り、最大出力に達した屈服の恒風は、ウォルフが空に存在することを許さない。炎が逆噴射したように墜落する彼女の下には、拳を構えた皇女がいた。
ウォルフには、その拳が自身の腹を貫通する明確な死のイメージが浮かぶ。対策も何も出来ることは無い。
だが、一か八か。
「『八岳』!」
内燃機関を解放する。
しかし、体の火は薪が尽きた焚き火のように燻るだけだった。
「条件定義。私の防御魔術とウォルフ・ライエの魔力を封印する」
ミチルの条件魔術は、指定したものに平等に訪れる。
「独立には仲間が必要よ。一匹狼さん」
堕ちるウォルフの体を拳が貫く。
――ことはなく、ただ腕章を奪い取っただけだった。殺したら失格になってしまう。だが、殺しの有り無し関係なく、勝者は明白だった。
帝国の出身者は、緑の腕章を掲げる皇女の姿に、戦場に立つ皇帝一族の血統であることを確信した。敬意も忠誠も全ては、イムグリーネは、生まれ持っての覇者であったのだ。
<諸外国軍指揮官敗北。順位が確定しました。これにより、勝者が確定。試合は終了です>
通信を聞きながら、喜び合う自軍には聞こえないように、イムは地面に激突して蹲るウォルフの耳に口を近づけた。
「次、私の許可無くユウメと会ったら、殺す」
そして、学級対抗戦は終わり、夏が始まる。
 




