第33話 ゆきてほろぶひ
「おじさん、ここ、書いてある文字、分かる?」
「ああ、『アァ レウェ』だろう。彼女はずっと、それを探していた。魔力生物の一種かもしれない」
「ミサはそれを見つけたのかな」
「いや、少なくとも、ここの蔵書にはその単語はないな。奥の焚書庫は、分からんが」
「焚書庫って」
老紳士は重そうな腰を上げて、わたし達が入って来た方とは反対の扉を開けた。
学園の図書は、王都にあった図書館とは段違いの迫力だった。摩天楼かというほど、上に伸びた本棚、半円状の本棚が奥に行けば行くほど大きくなって、内の本棚を囲っていた。天井位置に雲がありそうだ。
「聞いていたよりもとんでもないわね」
「そう思ってくれたら図書部顧問、冥利に尽きる。この一室は、基本図書。瓦斯灯は使わない。光源全てあの硝子張りの天蓋からの日光のみだ。本が痛むが、仕方がない。この一室で炎が確認されれば、全員退室の後に窒素瓦斯で満たされる。無味無臭で、吸えば酸素欠乏にて即死だ、残るなよ。そして、奥にもう一室、焚書庫と呼ばれる燃やされるべき書物がある」
老紳士が基本図書室の入口右手側、隅の方に指を向けた方には、ぽつんと、重々しい鋼鉄の扉があった。いかにも厳重そうな、開かずの扉だ。
図書室を歩く人々も、あそこには誰も近づいていない。見えない異臭の漂いが見えるような、異様な雰囲気だった。
「燃やされるべき書物? 燃やさないの?」
「それは最も忌むべき行為だ。技術防疫機構も厳罰を下す。本を焼くのは、先人の遺したもの、この学園を焼くのと同じことだ。俺も、“燃やされるべき本”なんて言い方は好かんが、そう呼ばれる理由のある書物だ」
「見るものに害、技術、アイデアの感染を及ぼす書物ね。そこにアァ レウェの情報はないのかしら」
「分からん。基本図書は分かるが、焚書庫は覚えていない。というより、自ら忘却した。情報欲しさに拷問でもされたらたまらんからな」
答えはあの扉の向こうにある。間違いなく、リサが通った道を辿ることが出来ているのだ。あの鋼鉄の扉、あそこだ、リサが見つけてしまった何かが、あそこに。
「君たちは入れないぞ」
最悪だ。
「なんで。どうやったら入れるの」
「信用のある人間しか鍵は貸さん。教師か、生徒会執行部ぐらいだろうな」
「もし、もしもの話、資格のない者が侵入したら?」
老紳士はこちらを見て少し呆れを見せた。
「退学だ」
作戦会議。図書室にある机と椅子を借りて、どうにかあの部屋に入る方法を考えていた。厄介なのは、この図書室で魔力が使えないこと。「本を傷つけられたらかまわん」と言って、この床と壁に全て魔術を封じる合金で造られているそうだ。その合金の近くにいると魔力因子を魔術に使用することが難しくなるから、空間の上書きは使えない。そして、わたしの力で強引に扉を開ければ、音で気づかれる。
「大人しく生徒会執行部に入る」
「最低一年かかるわよ」
目の前に餌を置かれて、一年待ては厳しいだろう。
「図書部に入る」
「信用を得る、という工程は変わらないわね」
これも、一年近くかかるかもしれない。
「鍵を盗む」
「残念ながら一番成功率が高いわね」
でも、確実にバレる。退学は正直、ちょっと嫌だ。
「イムぅ、なんかないのぉ」
「あるわ」
「あるの!?」
イムが両手を出して、よく見て、とでも言うように目で訴えた。両手で作られた器を覗き込むと、手の上で小さな光が踊っていた。
「魔術が使えてる」
「合金は、魔力因子が通る魔術への通路を妨害するだけよ。私は魔力因子を動かして物理現象を引き起こしてる。埃とか、小さい粒子を振動させれば熱が産まれる。逆に、私の周りの振動を抑えれば温度は低くなり、熱を感知されることは無い」
原子を抱えて運ぶ魔力因子の姿が浮かんだ。彼女には小さな小さな世界の小人が味方らしい。魔力因子を動かすことはわたしには出来ない。見えない、触れないものをどうやって動かすのか分からないからだ。魔力の本質が見える彼女だからこそ出来る芸当なのかもしれない。
「じゃあ、イムが魔力因子を動かせば鍵を開けれる……なんで言ってくれなかったの!」
「聞かれなかったから」
まだ機嫌を直してくれていないようだ。わたしは対面に座っていたイムの横に椅子を移動した。
「ねぇ、ごめん。機嫌直して?」
「分かってくれないわね」
やっぱりダメだ。イムが楽しくなさそうだと、わたしも気分が落ち込む。その気持ちが顔に出たのか、イムが少し表情を柔らかくした。
「帰ったら説教だから、今は考えなくていいの。さぁ、やることやるわよ」
気をつけなければならないことは、老紳士に気づかれること。そして、もうひとつの問題。リサは恐らく、焚書庫でアァ レウェの情報に迫るものを見た、もしくは、そのものを見た。
となると、もしかしたらクリュサオルの感染源も近くに存在するかもしれない。必然的に、感染のリスクが高まる。だが、感染して即座に操られることは無いだろう、リサも熱を出していたのだから。焚書庫に入って何か違和感を感じた時は、情報取得の有無に関わらずに脱出し、イムに診てもらう。
老紳士に気づかれないよう、探索は五分以内で終わらせる。それ以上時間がかかるなら大人しく一年待った方が良い。退学になれば、待つことも出来なくなる。
一分ごとに、扉の前にいるイムがわたしに合図を送る。イムは待機だ、彼女の目があれば有利かもしれないが、護衛対象を危険に近づけるなどもってのほかじゃないか。
行くのはわたし一人だ。
老紳士は図書室の前のカウンターから出てきていない。図書室からではその姿は見えないが、だいたい、三十分に一度図書室に来る。わたし達を見張っているようだった。
老紳士がカウンターの部屋に戻ってから五分後、作戦決行。
開かずの扉は残念ながら見晴らしが良いところにある。開けるのは、それが誰の視界にも入っていない時だけ。
静かな図書室に、椅子の倒れる音が響いた。図書室の全員が、その音に注目する。
イムが遠隔で椅子を倒したのだ。その一瞬で、扉の鍵を開けようとしたのだが、イムの手が驚いたように止まった。
「開いてる……」
イムが何かを言う前に、わたしは焚書庫の扉を開けて滑り込んだ。
老紳士が学生が読書を楽しめるようにこの扉に油を差していたのか、イムが細工をしたのか。軋む音も、扉の重さも感じずにスムーズに侵入できた。
焚書庫には本棚に入れられた本のように、何の変哲もない鉄製の本棚が並んでいる。本棚の中に本棚があるのだ。その重厚さは、どことなく銀行を思わせた。天井には瓦斯灯が輝いている。硝子の向こう側で、光だけを届けて。空気は淀んでいないとは言えない。その場に入れはいつか呑まれそうな空間だった。
情報を探そう。
新たな懸念は、扉の鍵が開いていたこと。 誰かいる。この焚書庫のどこかに、教師か、生徒会執行部か、はたまた全く違う誰かが、いる。その誰かとの接触も、もちろん避けなければならない。
棚にはそれぞれ付け札がされており、緻密に分けられたそれらから『生物学』『魔力生物』の文字を探しているうちに、一分が経過した。イムからプレゼントされたチョーカーの振動。それが時間経過の合図。この棚が部屋の隅だったのは不運だ。探している間に時間が経過してしまった。
音の出さぬようにゆっくりと棚を引き出す。それには、到底数分で見切れない数の本が敷き詰められている。若干の焦りとともに本の題名に目を滑らせるが、直感的にこれだというものは見つからない。
チョーカーの振動。二分経過。
長い長い、魔力生物の本棚の端、足元の本の題名は『汚染地域での変異生物の関連性』それを、とっさに手に取った。
汚染地域。帝国と王国に挟まれて存在する。人の息遣いすら許さないそこは、いわば地上の宙。未踏破領域であるなら、見た事も聞いた事もない生物がいても、不思議では無い。
だが、パラパラとめくっても、アァ レウェの単語は全く見られない。
ハズレ。しゃがんで本を戻そうとすると、戻そうとした場所に白い紙で出来た冊子が倒れていた。この本と、横の本に挟まれていたようだ。この本を抜かなければ見つけられなかったかもしれない。
紙の束を端で縫ったその冊子の題名には、『技術防疫機構により焚書指定』とだけ書かれている。
技術防疫機構については詳しくは知らない。疫病対策や医療などに関係があるとしか。後でイムに聞こう。だが、そんな機構がなぜ……
チョーカーの振動。三分経過。
既に時間の半分を無駄にした。慌てて捲ったページには、『技術防疫機構と開闢の英雄共同作戦によるアァ レウェの実践記録』と、達筆な字で書かれている。
開闢の英雄は、王国の二人の英雄のことだ。特異点に初めて到達した二人、として開闢と呼ばれた。そして、気にするのはそこじゃない。続きを読もう。
汚染地域で発見された魔力生物。全長はおよそ五十メートル。形状だけは蜘蛛に似ているが、頭胸部と腹部の役目が逆転している。腹部のような頭が全長の四割を占めており、袋状の頭部に136個の目(光の無い深部であるため、何か別のものを視認するためだと思われる)が不規則に並んでいる。同時に十七の魔術を使用したことから、おそらく、あの頭には十七の脳が存在する。
このページはセレブラムの外見について綴ったようだ。文字で見るだけでも気色悪いページを捲ると、それを描いた絵が見開きで描かれていた。驚きと共に、魅入ってしまう。異形だ。真っ黒、漆黒の虫のような、それでいてどこか人間のような。頭もそうだが、胴体に無理やりくっつけたかのような、八本のデタラメに生えた足。その先に人の指に似た六本の指が生えている。支離滅裂なその存在が、宙に浮かぶ星のような目が、惹き付けられる。
チョーカーの振動。四分経過。
ダメだ、時間が足りない。これは確かに興味深い内容だが、ことの真相に近づくものでは無いとわたしの直感が言っていた。リサが求めていたのはこれで無い気がする。なにか、もっと、あと一歩まで来ているんだ。その感覚はするのに。あとひと息で呼吸できるところで、再び水面に沈められた気分だ。
一度外に出るべきだ。わたしだけじゃ頭が足りない。この書類はこっそり持っていこう。今ここで見るには時間が足りない。
冊子を持って立ち上がったとき、ふと、見えた。黒い、木製の扉。入って来た開かずの扉とは違う、焚書庫の更に奥に続く扉。
こんな扉、さっきはあったっけ?
本を探すのに夢中で気が付かなかったのかもしれない。あの絵のように、真っ黒な扉、黒檀の扉だ。既に四分は経過している。脱出しなければならない時間。
だが訴えている、わたしの直感が。あの扉が、あの先が、答えだ。開けなければならない、あの扉を。だが、その感覚は釣り餌に食いついた魚そのものだった。扉に気を取られた瞬間、わたしの足に何かが触れたのだ。
「『麻酔』」
その声とともに右足の感覚が消える。咄嗟に後方に振った肘打ちは空振り、声の主は今度は左足に触れた。
「『麻酔』」
両足の感覚が無くなり、崩れ落ちる体を吊るように、両手を掴まれて本棚に打ち付けられる。
「『麻酔』」
両手両足の感覚が消える。
「おまえ、なんでここに」
彼女はわたしの股の間に足を入れて、そこに座らせるように吊った両手をゆっくりと下げた。
「予定通りだね。ユウメちゃん」
三英五騎士。その末席の『聖別』ボスティ。会ったこともない女が、わたしの名を知っていた。




