経験者と無垢
顔を上げた私を見下ろすようにして、アルバートルが聳え立っていた。
「どうしたら?お前はいつだってやりすぎなんだよ、馬鹿。」
彼は顎を上げて私を完全に見下ろすという状態での仁王立ちだ。
だが、私が彼に言い返す前に彼は素早く動き、私を縁石から立ち上がらせた。
服を掴んだって訳ではない。
ぐいっと体そのものを掴んで持ち上げられた筈なのだが、私はどこも痛いどころか体を触られたという感覚さえ無かった。
「体を冷やすのは最悪だ。外で悩みたかったら誰も使わない厩に行け。」
「――使わない厩って、いい加減にお馬さんを使ってあげなさいよ。」
「うるせぇよ。それで、お前はキスがしたいんだって?そんなにアールとのキスが良ければ、アールを選べば良かっただろうが。」
私はアルバートルの言葉にモニークめと考え、だが、イヴォアールともう会えないと泣く彼女の顔も思い出したが、先ほどと違って胸のどこも痛まなかった。
「もう!筒抜けなんて!モニークのイヴォアールトンネル!」
「お前、それは酷い言い方だな。」
「あら、だって、友達同士の内緒なのに!」
「ハハハ。俺への相談もイヴォアールからじゃないよ。モニークとイヴォアールのイチャイチャを盗み聞きしてしまった君の可愛いカイユーちゃんからだね。俺にお前を落としてくださいだってさ。どう思う?」
声が出せるはずは無い。
だって、いま、胸に見えないナイフが刺さったもの。
私はカイユーに嫌われた?
「わかるよ。経験して経験したことが思ったよりも良かった時の気持ちはね。色々と体験したくなるものだってことはさ。そして、お前がなーんにも経験していないって事も、俺には解るよ。アールはやり手だろう。それでお前は何かされる前にと逃げて来たんだろう。コポポルにいるはずのお前が歌を歌っていて、俺は心臓が止まるかと思ったよ。足は大丈夫だったのか?」
「き、急に優しい事を言わないでよ。そうよ、怖いわ。アールには友情を感じている。でも、彼に迫られると流されそうになる。だから、だから。」
「カイユーと経験したかった?モニークとイヴォアールのような関係になれば、あの二人のように誰にも邪魔をされない関係になれる、から?」
私は素直にうなずいていた。
この、私の最悪な敵に対して、私は涙だって見せていた。
いや、見せるものか。
私はぐいっと袖で目元を乱暴に拭い、唾を何度か呑み込んだ。
これ以上悲しい気持ちにならないように、涙がこれ以上零れないように、と。
「お前はねぇ、本気で可愛げのない女だな。」
ため息交じりのアルバートルの呟きが私の頭上で聞こえたと思ったら、私はぐいっとアルバートルに抱きしめられていた。
「驚いたよ。カイユーになんにも経験が無かったって事実にさ。あいつはお前を一番幸せにしたいからこそ、絶対に一番いい思いをさせられない自分が辛いんだそうだ。だから俺なんだってさ。あいつの思考もよくわかんないが、小さな弟の頼みを無下にはできないだろ。どうする?俺はお前に良い思いをさせられるよ。経験をしたいんならしてみるか?」
アルバートルは囁くだけじゃなく、私の背中をすっと撫でもした。
私はそこでビクンと体が震え、そしてそれだけじゃなく、アールの声という幻聴が耳元で起きてぞわっとしたのだ。
「いつだって待っている。愛しているよ、可愛い人。」
その声に体がカっと熱くなって、私はとっても自分が恐ろしくなった。
「どうした?俺の指で感じたのか?」
アルバートルの言葉によって脅えた心がホッと緩んだ。
「あなたは本っ気でろくでもない男ね。感じるわけ無いじゃない。ぞわっとしたのよ。いい加減に手を離してちょうだい。」
私は一瞬で凍えるような寒さに襲われた。
それでいい。
アルバートルは私を睨んでいるが、それも良い。
私は情けない自分の体をぎゅうっと抱きしめた。
「どうした?寒いのか?」
違う。
カイユーが大好きなはずのに、私を誘うアールの声が聞こえるという自分の淫売さが怖くて仕方がないだけよ。
「……。カイユーに伝えて。私はあなたをいつだって解放するって。でも、私を幸せにできるのはあなただけよって。私はダグド様一筋の時には一生独り身でいることも覚悟していたもの。いいわよ。カイユー一筋で一生経験ないまま死んじゃっても、絶対に後悔なんかしないわよ。」
「それは自分で言え。」
アルバートルはそういうと、有無を言わさずに私の腕を取って屋敷へと私を連れて行った。
そして、扉を開けるや殆ど押されるようにして屋敷に押し込められた。
つまり、突き飛ばされた私は玄関ホールの床に転がるような格好だ。
「乱暴!」
「ハハハ。俺は傭兵でこんな人間だ。君の可愛いカイユーも、だ。優しい男が欲しければアールの腕の中に入れ。俺達は誰も助けられないただの人殺しなんだよ。いや、もっと悪いね。生きるために戦場を必要とする屑野郎だ。」
アルバートルの最後の言葉は私にカイユーを諦めろという事かもしれないが、私はアルバートルの声にエレノーラの言葉も思い出していた。
――私は幸せだった。私を助けようと不幸だった兄の人生はなんだったの?
私は立ち上がると閉められたばかりの玄関の扉を開け放ち、アルバートルの背中に叫んでいた。
「このバカ男!あなたはいっぱいいっぱい人を助けて来たわよ!エレノーラだって、私だって、アリッサだって、それに、それに、ダグド様だって、あんたに助けられてきたわよ!不本意だけどね。あなたがいなかったら、私達はみんな死んでいたわ!ただの人殺しだろうが、私達にはあなたは命綱なのよ!」
アルバートルは立ち止まらなかった。
ただし、知っているよと、私に聞こえるようには言い返してくれた。




