前編 養殖と天然
リリアーナ・ベルトランは、十歳まで平民だった。
春の花びらを溶かしたような淡い桃色の髪に、明るい翠の瞳。ふわりと波打つ髪は腰まで届き、笑えばその華やかな色まで一緒に弾むように見える。貴族令嬢の中にいても一目で見つけられる、可憐で明るい少女だった。
母がベルトラン伯爵の後妻に収まったことで、ある日突然、伯爵令嬢になったのである。
だから努力した。礼儀作法も、舞踏も、刺繍も、音楽も、外国語も。貴族令嬢なら幼い頃から身につけていることを、リリアーナは猛烈な勢いで覚えた。
「あなたなら、もっと上に行けるわ」
母はいつも娘を焚きつけた。
「リリアーナは本当に頑張り屋だな」
継父も、健気に努力する新しい娘を可愛がった。
褒められれば、もっと頑張った。欲しいものは努力すれば手に入る。欲しいものを諦める必要などない。
そうしてリリアーナは、とうとう姉マルティナの婚約者まで欲しくなった。相手はレインハルト公爵家の嫡男、クラウス。眉目秀麗、若くして近衛騎士に名を連ねる、この国でも指折りの優良物件だった。
「クラウス様、私、剣のお話ってよく分からなくて。でも、もっと知りたいんです」
「君は勉強熱心だな」
「クラウス様、今日の試合、とても素敵でした!」
「見ていてくれたのか」
「お姉様はクラウス様のこと、あまり褒めませんものね」
半年後、クラウスはマルティナとの婚約を破棄した。その頃には、マルティナは妹を妬み、クラウスとの仲を裂こうとする陰気な女ということになっていた。半分ほどは母の仕事で、残り半分はリリアーナ本人の努力の成果である。
「私はただ、クラウス様を好きになっただけなの」
リリアーナが泣けば、クラウスが抱きしめた。
「君は何も悪くない」
便利な言葉だった。
マルティナは最終的に、心を病んでいるとして北部の領地へ送られた。こうしてリリアーナは、公爵令息の婚約者という地位を手に入れた。
努力家で、向上心があり、愛嬌があって、欲しいもののためなら何でも頑張れる。周囲の教育と成功体験によって丹精込めて育てられた、「養殖我儘令嬢」である。
一方、エレノア・アーデルハイドは、生まれながらの伯爵令嬢だった。
月光を束ねたような淡い金髪に、冷たい灰青色の瞳。真っ直ぐな髪は腰まで流れ、白い肌と細い身体も相まって、黙っていれば触れただけで壊れそう。声も仕草も控えめで、静かに佇んでいるだけなのに、なぜか目を離せなくなる少女だった。
父も母もまともだった。家庭は円満。姉のヴィオラも優しかった。にもかかわらず、エレノアは幼い頃から一度も素直に謝ったことがなかった。
五歳の時、姉の人形を壊した。
「ヴィオラお姉様が、貸してくださった時にはもう壊れていたの」
六歳の時、厨房から菓子を盗んだ。
「お姉様に取ってきてほしいと言われたの」
七歳の時、母の香水を床にぶちまけた。
「お姉様が触ってみてもいいと言ったから」
全部ヴィオラが怒られた。
エレノアは学んだのではない。最初から知っていた。謝るのが嫌なら、自分が悪くならなければいい。
嘘は少しだけにする。事実を混ぜる。言わなくていいことは言わない。そして相手が自分の望む結論に辿り着くまで、悲しそうな顔で待つ。
「私のせいなのかもしれません……」
そう言っておけば、大抵の人間は、
「君は悪くない」
と言ってくれた。
エレノアは、絶対に謝らない女だった。
成長するにつれて技術は磨かれ、姉ヴィオラは徐々に家族から孤立した。気性が激しい。妹に嫉妬している。何か問題が起これば、まずヴィオラが疑われた。そして最後に奪ったのが、ヴィオラの婚約者、ヴァレンシュタイン公爵家の嫡男ルートヴィヒだった。
「お姉様のことを悪く言わないでください」
エレノアは涙を浮かべた。
「私が我慢すればいいことですから」
「また君が我慢するのか」
ルートヴィヒは憤った。
「ヴィオラは君に何をした!」
エレノアは答えなかった。
答える必要がなかった。
半年後、ルートヴィヒはヴィオラとの婚約を破棄し、エレノアと婚約した。ヴィオラは妹に危害を加える恐れがあるとして、西の辺境領へ送られた。
誰にも教えられずとも、生まれながらにして他責と我儘を貫く、「天然我儘令嬢」である。
***
そんな二人が出会ったのは、王妃主催のお茶会だった。
「あら、あなたがエレノア様?」
桃色の髪を揺らし、リリアーナが明るく笑った。
「初めまして。リリアーナ・ベルトランです!」
「存じておりますわ」
エレノアも柔らかく微笑んだ。
「とても華やかで、可愛らしい方ですのね」
「まあ、嬉しい! エレノア様こそ、本当にお人形みたい。金色の髪も綺麗で、羨ましいわ」
「ありがとうございます」
二人は手を取り合った。
――なんだ。思ったより地味。
リリアーナはそう思った。
――元平民らしい、賑やかな方。
エレノアはそう思った。
「仲良くなれそうですね」
「ほんとうに」
と二人は笑った。
どちらもまったくそんな気はなかった。
ちなみに二人の婚約者であるクラウスとルートヴィヒは、本当に仲が悪かった。
「相変わらず気取った顔をしているな、ルートヴィヒ」
「君こそ、相変わらず頭まで筋肉で出来ていそうだ」
会えば喧嘩する。互いに相手の家も嫌っている。レインハルト公爵家とヴァレンシュタイン公爵家は、王都では有名な犬猿の仲だった。
***
リリアーナとエレノアが出会って三日後。
王立学院の昼食会で、リリアーナは周囲の令嬢たちに囲まれるエレノアへ声をかけた。
「エレノア様って、本当に綺麗ですよね。肌も白くて細くて、守ってあげたくなる感じ!」
純粋な賛辞ではない。可愛いけれど、弱そう。華やかさでは私の勝ち。そこまで含めた褒め言葉だった。
エレノアは少し困ったように笑った。
「そんな。私、身体が弱くて幼い頃から外へ出ることが少なかっただけですの」
「まあ、そうだったの?」
「ええ。だから、リリアーナ様のように元気いっぱいで健康そうな方に憧れますわ」
「……そう?」
「頬も薔薇色で素敵です。私は食が細いので、そんなに健康的なお顔になれなくて」
「…………」
「あら……わたくし、余計なことまで口にしてしまいましたわ」
エレノアは口元を押さえた。
「リリアーナ様のお生まれを考えれば、外で元気に遊んでいらしたのは当然ですものね」
リリアーナは黙った。
周囲も静かになった。
元平民。健康そう。外で元気に遊ぶ。何一つ悪口ではない。なのに全部まとめると、なぜか野山を駆け回って育った逞しい村娘のようになった。
エレノアは困ったように眉を下げた。
「わたくしったら…また、どうしましょう…リリアーナ様は努力して立派な令嬢になられたのに、自分が病弱だった話なんてしてしまって。怒っていらっしゃいますよね」
「え……怒ってないけど?」
「でも、お顔が」
「怒ってないわ」
「無理なさらなくても」
「だから怒ってないって」
「やっぱり怒っていらっしゃる……」
「怒ってないって言ってるでしょ!」
思わず声が大きくなった。
周囲の令嬢たちが、さっとリリアーナを見る。
「リリアーナ様、エレノア様はお身体が弱いのですから」
「そんなに強く言わなくても」
「一言謝って差し上げたら?」
「……」
嵌められた。
「……大きな声を出して、ごめんなさい」
リリアーナは引きつった笑顔で言った。
「いいえ。分かっていただければ」
エレノアはほっとしたように微笑んだ。
***
リリアーナは負けず嫌いだった。
翌週、エレノアの教科書を破った。非常に幼稚だったが、腹が立ったので仕方がない。
翌朝。
「……そんな」
エレノアが机の前で震えた。
教科書は見事にびりびりになっていた。数冊まとめて引き裂かれ、ページが床に散らばっている。
「エレノア様、大丈夫?」
友人のミレーヌが駆け寄った。
「ひどい……誰がこんなことを」
「分かりません。昨日、帰る時には何ともありませんでしたのに」
周囲にも生徒が集まってきた。
「昨日、最後に教室を出たのは誰だったかしら」
「あ……」
エレノアが、ちらりとリリアーナを見た。
「……そういえば、リリアーナ様はまだ教室にいらっしゃいましたわね。私たちが図書室へ向かった時には」
「ええ、最後だったわよ」
視線が一斉に集まった。
「ちょっと待って。確かに私が最後だったけど、それは友達が廊下で待っててくれたから覚えてるわ」
リリアーナは眉を寄せた。
「でも、その時は教科書なんて破られてなかったわよ」
「では、リリアーナ様が出た後に誰かが戻ってきたと?」
「そうなんじゃないの?」
「誰が?」
「知らないわよ!」
少し声が大きくなった。
エレノアが肩を震わせる。
「皆様、もういいんです」
「エレノア様?」
「責めるつもりはありませんわ。リリアーナ様が何もなさっていないと仰るなら……私たちには、それ以上確かめようがありませんものね」
「何、その言い方」
「信じていますわ」
「全然信じてないじゃない!」
ざわ、と空気が動いた。
「でも、最後にいたのはリリアーナ様なのでしょう?」
「だからって私がやったことにはならないでしょ!」
「エレノア様も怯えていらっしゃるし……」
「私だってこんなの急に疑われたら怒るわよ!」
完全に、リリアーナが追い詰められる空気になっていた。
その時、床に散らばった紙を拾っていた令嬢が、不意に手を止めた。
「……あれ?」
破れた表紙を持ち上げる。
「これはエレノア様の教科書じゃないわ」
全員が振り向いた。
「名前が書いてある」
表紙の端に残った文字を読む。
「リリアーナ・ベルトラン」
沈黙した。
「え?」
リリアーナ自身が一番先に近づいた。
紙の山をかき分ける。そこにはエレノアの教科書だけではなく、リリアーナのものも二冊、同じように無残に引き裂かれていた。
「あ……私の!」
リリアーナが顔を上げる。
今度は周囲の視線が、ゆっくりエレノアへ動いた。
「私も被害者じゃない!」
エレノアの顔が固まった。
「なのに、さっき私がやったみたいに言ったわよね?」
「私はそのようなこと、一言も」
「言ったわよ! 信じてますって、全然信じてない顔で!」
「それはリリアーナ様がそう受け取られただけで」
「じゃあ、間違って疑ったことを謝って!」
エレノアが黙った。
「……私は、疑ったとは申し上げておりません」
「またそれ!?」
「事実として、最後に教室にいらしたのがリリアーナ様だっただけです」
「だから皆が私を犯人だと思ったんでしょう!」
「皆様がどう受け取られたかまで、私の責任ではありません」
「謝って!」
「何をですの?」
「間違って私を疑わせたこと!」
エレノアの口元が引きつった。周囲の令嬢たちも、さすがに今度はエレノアを見る目を変えていた。
「エレノア様……これは一言、謝ったほうが」
「リリアーナ様も被害者だったのですもの」
「誤解させてしまったのは確かでしょう?」
逃げ道が塞がれた。
エレノアはしばらく黙っていた。
「……誤解を招くような言動があったのでしたら」
まだ抵抗する。
リリアーナはじっと見つめた。
「……申し訳なく、思います」
絞り出した。
リリアーナは満面の笑みを浮かべた。
「いいの! 分かってくれたら!」
エレノアも微笑んだ。
その指先だけが、白くなるほど強く握り込まれていた。
当然、破ったのはリリアーナである。自分の教科書まで破っておいたのは、エレノアが絶対にこちらを犯人扱いすると読んだのだ。
そう、悪知恵であっても、努力は裏切らないのだ。
***
その日の夕方。
エレノアは、怒っていた。猛烈に怒っていた。表情はいつも通りだったが、内心では煮えたぎった泥のような怒りが渦巻いていた。
謝った。
この私が。
自分に非があると認める言葉を、あの女に向けて口にした。その事実だけが、どうしても受け入れられない。エレノアにとって謝罪させられたことが、何よりも許しがたかった。
「ルートヴィヒ様」
婚約者の前では、すぐに泣けた。
「私、もう学院へ行くのが怖くて」
「何があった」
「リリアーナ様が……いいえ、やっぱり何でもありません」
「何でもなくないだろう」
「私が我慢すれば済むことですから」
「またそれか」
ルートヴィヒの眉間に皺が寄る。
エレノアは俯きながら考えた。
――クラウスに話しなさい。
「君がそんな目に遭っているのを、クラウスは知っているのか」
「まさか。婚約者を悪く言われたら、クラウス様もお辛いでしょう」
「俺から話す」
「そんな、いけませんわ」
ーーさっさと行きなさい。
翌日。ルートヴィヒはクラウスへ告げた。
「お前の婚約者、どうにかしろ」
当然、喧嘩になった。それでもエレノアが泣かされた話は伝わり、クラウスはリリアーナを呼び出した。
「エレノア嬢に謝ってくれ」
「どうして?」
「嫌がらせをしたそうじゃないか」
「私を信じてくれないの?」
「君のことは信じている。ただ、エレノア嬢も傷ついている」
「信じてないじゃない!」
リリアーナの目に涙が溜まった。
今度は演技ではなかった。
「クラウス様だけは、絶対に私の味方だと思ってたのに!」
リリアーナは走り去った。
廊下の角を曲がったところで、偶然ルートヴィヒとぶつかった。
「リリアーナ?」
涙で濡れた翠の瞳。少し乱れた桃色の髪。ルートヴィヒは一瞬、何を言うべきか忘れた。
「……泣いているのか」
「あなたのせいよ」
「俺?」
「あなたがクラウス様に余計なことを言ったから!」
「俺はエレノアを守ろうと」
「じゃあ私は傷ついてもいいの?」
ぐっと詰まった。可哀想だった。そして、可愛かった。
「……悪かった」
ルートヴィヒが肩に手を置いた。
「クラウスも、少し言い方が悪かっただけだろう」
リリアーナはその手を見た。次に顔を見た。公爵令息。長身。知的。顔もいい。
――これ、取れるんじゃない?
悲しみが一気に薄れた。
同じ頃。クラウスはエレノアのもとへ謝罪に向かっていた。
「リリアーナのことで迷惑をかけた」
「いいえ、そんな」
エレノアは目を伏せた。
「私にも悪いところがあったのでしょうから」
「君は悪くない」
「でも、リリアーナ様にもきっと事情が」
「君は優しすぎる」
クラウスは初めて、間近でエレノアを見た。儚い。白い。睫毛に涙が乗っている。守ってやらなければならないような気がした。
エレノアも、クラウスの目つきが変わったことに気づいた。
――あら。これは。取れる。
睫毛の涙は乾いていた。
***
その夜。レインハルト公爵とヴァレンシュタイン公爵は、王都の地下室で密会していた。
レインハルト公爵家とヴァレンシュタイン公爵家は、王都では有名な犬猿の仲である。それが、すべて芝居であることを息子たちだけが知らなかった。
両家の当主は裏で手を組み、隣国の帝国と密約を交わしている。公爵家同士が争っているように見せ、王家の警戒を分散させ、その裏で軍と財を押さえる。
最終目的は国家転覆。
息子同士まで本気で憎み合ってくれたのは、実に都合がよかった。
「帝国軍の準備は」
「順調だ。春には国境へ集結する」
「王宮内の協力者も増えた」
「いい。表ではもう少し派手に争っておこう」
「息子たちも相変わらずか」
「顔を合わせれば喧嘩している」
二人の公爵は笑った。
国家転覆計画は、順調だった。




