第61話:天を遠ざける石
朝でも夜でもない時間。通りの流れが少しだけ緩む。偶像の前で、何人かが自然に足を止める。祈っているわけでもない。ただ、そこにいる。
俺は空いた間に声を落とす。
「神の偶像を拝むと、天に近づくのか」
年配の男が肩を揺らす。
「近づくさ。ああいうのは、天に届くように置かれてる。自分で上まで行けない分、あれを通して近づくんだ」
別の男が頷く。
「そういうもんだろ。直接じゃ遠いし、届かないから間に置いてる。皆、分かってやってる」
籠を持った男が続ける。
「だからここで祈るんだよ。偶像の前に立てば、上に繋がる。形は違っても、行き先は同じだ」
俺は頷く。
「でも、触れる距離は決まってるよな」
男の一人が足元を見る。
「決まってるな。誰でも同じとこまで行けるわけじゃない。触っていい位置は最初から分かれてる」
俺は続ける。
「じゃあ、近づくほど触れなくなるのは、なんでだ?」
年配の男がゆっくり答える。
「役目が違うからだ。上に近いところは、それを扱う人が決まってる。誰でも触っていい場所じゃない」
別の男が補う。
「順番もあるしな。下から上に上げる流れがある。途中を飛ばすと、逆に届かなくなる」
若い男が少し考えて言う。
「近づきすぎるとだめなんだよ。間を空けて、段を踏まないといけない。いきなり行くと、逆に外れる」
女が短く重ねる。
「昔からそうしてるよ。近いほど気をつける。だから詰めすぎない」
俺は頷く。
「天は、すべての神より上にあるんだろ」
何人かが自然に頷く。
「そうだ」
「天が一番上だ」
「そこは変わらない」
俺はそのまま続ける。
「なら、天を拝むとき、なぜ偶像を通す?」
今度は少し間が空く。若い男が首を傾ける。
「……そうなってるからだな。皆その順でやってるし、それで通るって分かってる」
女が続ける。
「順番だよ。いきなり上には行かない。下から通していく」
年配の男が低く言う。
「直接は失礼だ。近づき方を間違えると、逆に届かなくなる。だから間を置く」
別の男が頷く。
「段を踏むんだよ。いきなり上に行くより、決まった通りに通した方が確実だ」
別の男が足す。
「天に行くための道があるんだ。偶像はその途中にあるだけだ。飛ばすもんじゃない」
俺は何も言わない。誰も、天がどう望んでいるかは言わない。出てくるのは、順番、距離、失礼にならないやり方。全部、人の側の話だけだ。通りはまた動き出す。誰も立ち止まらないまま、同じ流れに戻っていく。通りはそのまま動いている。 誰も立ち去らない。だが、誰も先へ進まない。少しだけ間が残る。
俺は声を落とす。
「その順番、誰が決めた?」
年配の男が眉を寄せる。
「……昔からだろ。こうやって上げて、こうやって通すって形は、ずっと変わってない。誰か一人が決めたっていうより、残ってきたやり方だ」
別の男が肩をすくめる。
「上の人だろ。順番とか距離とか決める役のやつらがいる。俺たちはそれに合わせてるだけだ」
若い男が少し考えて足す。
「王……とか、その前の王とか。もっと前から続いてるやつだと思う。誰が最初かは分からないけど、今もそのまま使ってる」
別の声が小さく。
「変えてないだけだな。困ってないし、そのままで回る」
誰も空を見ない。俺は続ける。
「天は、その順番を求めてるのか?」
年配の男が少しだけ口を開くが、言い切らない。
「……いや、どうだろうな。そう言われたことは、ない」
別の男が首をかく。
「天が言ったって話は聞かねえな。やり方が先にあって、それに合わせてるだけだな」
若い男がぼそっと。
「守るためだろ。失礼にならないように、って」
女が重ねる。
「近づき方を間違えないため。だから順番がある」
俺は頷く。
「偶像は天を拒まない。でも、天に行くまでの道を、人に合わせて作り直してる」
男の一人が眉をひそめる。
「……分かりやすくしてるだけだろ。誰でも同じやり方で行けるように」
別の男が続ける。
「だから迷わないんだ。順番も距離も決まってるから、間違えずに済む」
俺はゆっくり言葉を落とす。
「名前で分けて、場所で分けて、触れる人も決めて、高さも分けて。天そのものは一つなのに、行き方だけ増えてる」
一拍。
「お前たちは知ってるはずだ。天は一つで、ずっと変わらない。それなのに、なぜ間にこれを置く?」
若い男が少し強めに言う。
「その方が確実だからだ。直接行くより、順番を通した方が、届くって分かってる」
別の男も続ける。
「飛ばしたら届かねえって言われてる。だから間を通す。安全なやり方だ」
年配の男が低く言う。
「近づくために、距離を守ってるんだ」
俺は一拍置く。
「本当にそうか?」
誰も答えない。俺は静かに続ける。
「近づいてるつもりで、遠回りしてないか。天を崇めるなら、直接、向けばいい」
男の一人が偶像を見る。
「……でも、これが無いと届かねえだろ」
別の者が足す。
「自分じゃ届かねえから、任せてるんだ」
俺は首を振らない。否定もしない。
「神の偶像を拝むと、天は遠くなる」
誰も声を上げない。若い男が小さく言う。
「……なんでだ」
俺は答えを急がない。
「近づいてるつもりでも、間に距離を足してるからだ」
年配の男が低く返す。
「でも、その方が間違えねえ」
俺は静かに言う。
「間違えないようにして、届かなくしてるかもしれない」
沈黙。誰かが少しだけ下がる。誰かが足元を見る。若い男がぼそっと。
「……近づけてるつもりで、遠くしてるってことか」
誰もすぐに返さない。視線だけが揺れる。少し間。年配の男が、低く喉を鳴らす。
「……いや、でも……」
少しの沈黙。
「……決まりだからな。昔からそうやってきたし、順番も距離も変えずに守ってきた。それで回ってるから、そのまま続けてるだけだ」
別の男が短く重ねる。
「困ってねえしな。このやり方で届くって分かってるから、変えない」
若い男が足元を見たまま。
「近づきすぎると外れるって教わってきた。だから間を空ける。それが普通だと思ってた」
誰かがぼそっと。
「誰が決めたかは知らねえけどな……気づいたらこうなってた」
俺は静かに言う。
「その神は、誰の神だ。通りの神か。家の神か。上の人の神か」
年配の男がゆっくり答える。
「……場所ごとだな。通りごとに違うし、使う人も決まってる。その場に合った神だ」
別の男が続ける。
「全部同じじゃない。家も通りも上も、それぞれ別だ。でもどれも必要なところに置かれてる」
俺は一拍置く。
「……天そのもの、とは言わないな」
空気が詰まる。誰も口を開かない。視線だけが動く。
年配の男が言いかけて、詰まる。
「……いや、でも……それは……」
別の男がすぐに被せる。
「違うだろ。天は天だ。これは、その途中だ。昔からそうやってきた」
若い男が眉を寄せる。
「でも……途中ってことは、一回止めてるってことじゃねえか。まっすぐ行ってねえだろ」
別の男が顔をしかめる。
「止めてるわけじゃねえ。通してるだけだ。ちゃんと上に回してる」
若い男が視線を落とす。
「……回してる、って言ってもさ、一回手放してるよな。自分で行ってねえ」
別の者が低く。
「預けてるだけだろ。上に行くために」
若い男が首を振る。
「でも、それって……途中で終わっても分かんねえってことじゃねえか」
空気が止まる。別の男が強めに言う。
「終わらねえよ。ちゃんと届くって決まってる」
だが、声に少し揺れがある。年配の男がゆっくり口を開く。
「……決まってる、とは言うが……」
言葉が続かない。若い男が偶像を見たまま。
「……近づいてるつもりで、間に挟んでるだけかもしれねえな」
別の者が足元を見る。
「触れないのも変だな……近づくためなのに、手前で止まるって、止められてるのと同じだ」
年配の男が低く言う。
「任せてるんだろうな……自分で行かないで、途中で渡してる」
一拍。
「……でも、それで届いてるかは……」
言葉が切れる。誰も補えない。若い男が小さく。
「……分かんねえな。今まで考えたことなかったけど、このままだと途中で終わってるかもしれねえ」
誰かが少し、偶像から離れる。別の者は、さっきより長く像を見る。年配の男が、低く呟く。
「……おかしいな。同じことしてるのに、今、違って見える」
誰も笑わない。通りは動き出す。だが、さっきと同じ顔では、もう歩いていない。しばらくしても、通りはそのまま流れている。足音も声も変わらない。偶像も同じ場所にある。一人の男が近づく。少しだけ歩幅が緩む。像を一瞬見る。
男が小さく。
「……今じゃなくていいか。急いで置くもんでもねえし、あとでまとめてでもいいだろ」
誰も返さない。男はそのまま通り過ぎる。少し先。仲介の男が立っている。籠は空のまま。女が供物を持って来る。足は止まらない。
仲介の男が手を出しかける。
「持ってくるなら、ここで渡してくれればいい。いつも通り上に回すから」
女は少しだけ首を振る。
「今日はいい。別にやめるわけじゃないけど、今じゃなくてもいい気がしてる。あとでも間に合うでしょ」
仲介の男が戸惑う。
「順番は崩さない方がいいぞ。まとめて上げる流れがあるから、それに合わせた方が確実だ」
女は歩きながら。
「分かってる。でも急がなくても届くなら、今やらなくても同じでしょ。遅れたからって消えるわけじゃないし」
そのまま通り過ぎる。仲介の男が小さく。
「……今日は遅いな。誰も持ってこない」
近くの男が肩をすくめる。
「止められてるわけじゃねえし、やめてるわけでもねえ。ただ、急がなくていいって思ってるだけだろ」
別の者が足す。
「順番が後ろに回ってるだけだ。先にやる理由が薄くなってる」
少し先。若い女が偶像の横に立つ。手は動かない。女が小さく。
「……天」
それだけ言って、動かない。通りの男が横目で見て。
「置かないのか?そのまま通すより、ここでやっといた方が楽だぞ」
女は首を振らない。
「分かってる。でも、今はいいかなって思ってる。やらないわけじゃないけど、ここでやらなくてもいい気がしてる」
男が少し考える。
「……やらなくてもいいって思えるならさ、順番ってそんなに強くねえのかもな」
別の者が低く。
「前は、来たらそのまま置いてたけどな。今は一回考えてからになる」
さらに先。空の籠が置かれている。一人が足を緩める。
「……まだ集めてないのか?もうそろそろ回す時間だろ」
隣の男が答える。
「今日は様子見だろ。誰も急いでねえし、遅らせても困らないって分かってきてる」
最初の男が籠を見る。
「供えなくても、そのまま過ぎていくな」
もう一人が頷く。
「やめてるわけじゃない。ただ後に回してるだけだ。今じゃなくてもいいって思ってるだけだろ」
少し間。
「……前は、来たらすぐ置いてたのにな」
通りはそのまま動いている。だが、供える手だけが、少し遅れている。間が入る。通りはそのまま流れている。足は止まらない。
ナーヒルが前を向いたまま。
「……さっきの見たよな。自分の場所まで来てたのに、そのまま通り過ぎた。置かずに流した」
ラヒーマが少し間を置いて。
「うん。触らなかったね。でも避けたわけでもない。前なら、そのまま手を出してた距離だったのに」
ナーヒルが小さく頷く。
「やめたって感じでもないな。やらずに、そのまま次に行っただけだ」
マリークが低く。
「順番が抜けてる。崩れてない。ただ一つ飛ばしてるだけだ」
ナーヒルが周りを見る。
「……しかも一人じゃねえな。同じことやってるやつ、何人もいるな」
アミーヌが静かに。
「はい。自分の偶像の前まで来てるのに、置かないで通ってます」
ナーヒルが眉を寄せる。
「誰かが決めたわけでもないのに、揃ってるのか?」
アミーヌが続ける。
「決めてないです。ただ……置く意味が薄くなってると思います。前みたいに、来たらやるって感じじゃなくなってます」
ナーヒルがぼそっと。
「……前は来たら、その場で置いてたのにな」
マリークが続ける。
「今は通る。置くのが後ろに回ってるだけだ」
ラヒーマが小さく。
「“今じゃなくていい”が先に来てる感じだね。やめてるんじゃなくて、優先が落ちてる」
ナーヒルが息を吐く。
「……それが増えたら、誰も置かなくなるぞ」
アミーヌが低く。
「はい。順番が崩れるっていうより……やらなくてもいい、に変わってます」
サジークが短く。
「……空だな」
視線は、前の籠。ナーヒルも見る。
「ほんとだ。前ならすぐ埋まってたのに、誰も入れてない。見てるのに、そのまま通る」
ラヒーマが静かに。
「自分の場所なのに、手を出さないね」
マリークが落とす。
「動きが変わっただけだ」
ナーヒルが低く。
「……こうなったら戻るか?」
アミーヌがゆっくり。
「戻す理由がないです。困ってないので、そのままでも回ってしまいます」
ラヒーマが続ける。
「だから残りそうだね。このまま“置かない流れ”が増えていく」
ナーヒルが小さく笑う。
「……壊れてねえのに消えるって、一番分かりにくいな」
サジークが短く。
「壊れてないからだ」
マリークが低く。
「だから止まらない」
誰も振り返らない。ナーヒルが最後に。
「……自分の偶像の前に来てるのに、誰も置かないってのが一番変だな」
ラヒーマが小さく。
「うん。でも、もう変わり始めてるね。まだ戻れる。でも、このままでも進みそう」
通りはそのまま流れる。供え物だけが、置かれなくなっている。
宿に入る。
火は低い。器が並ぶ。隣の卓で、地元の男が盃を指で回しながら。
「……最近さ、供物、前に置かれなくなってるよな。自分の場所まで来てるのに、そのまま通るやつが増えてる」
別の男がうなずく。
「見てる。前はあそこまで来たら必ず置いてたのに、今はそのまま抜ける。誰も止めてねえのに、手が出てねえんだ」
最初の男が続ける。
「止められてるわけでもねえし、禁じられてるわけでもねえ。それでも置かねえ。あれ、変だろ」
三人目が低く。
「置かれなきゃ上に回らねえ。仲介の連中、待ってるだけだ。受け取るもんが来ねえ」
別の男が卓を軽く叩く。
「下で止まったら、そのまま上に行かねえ流れになる。詰まり始めてる」
最初の男が声を落とす。
「……王のとこまで、もう行ってるだろ」
別の男がすぐに。
「行ってる。見てねえわけがねえ。あの人が気づかないはずがない」
三人目が低く笑う。
「気づいてなかったら、この街回ってねえよ」
最初の男が続ける。
「でも何も降りてこねえな。集めろとも、戻せとも言われてねえ」
別の男。
「止めてもいねえ。ただ放してるだけだ」
三人目が盃を置く。
「見てるだけだな。どう動くか」
最初の男がぼそっと。
「……試してるのか?」
別の男が首を振る。
「違う。測ってる」
三人目が続ける。
「どこまで崩れるか。どこで止まるか。勝手に戻るか」
別の男が低く。
「それ見てから決めるんだろ。手を入れるか、そのままにするか」
最初の男が息を吐く。
「……戻らなかったら?」
三人目がゆっくり。
「そのときは動く。でも今はまだ、その段階じゃねえ」
別の男が足す。
「命令にするには、まだ早いってことだ」
ナーヒルが小さく。
「……全部見られてるな」
ラヒーマが静かに。
「うん。供物が止まってるのも、仲介が詰まってるのも、全部王の目に入ってる」
マリークが低く。
「でも、今はまだ動かない。直さない。触らない」
アミーヌが続ける。
「任せてる状態です。どこまで変わるか、そのまま見てます」
ナーヒルがぼそっと。
「……一番静かなやり方だな。何も言わねえのに、全部分かってる」
ラヒーマが小さく。
「うん。止められてないから、そのまま出る」
マリークが落とす。
「押さえない方が、よく見える」
ナーヒルが少しだけ息を吐く。
「……じゃあ今、この街、丸ごと見られてるってことか。誰が置くか、誰が置かねえか、全部」
アミーヌが静かに。
「はい。一つずつ見てます。どこで変わるか、どこで止まるかも」
ナーヒルが低く笑う。
「……逃げ場ねえな」
サジークが短く。
「元からない」
誰も返さない。火が小さくはぜる。声だけが残る。
時間が少し過ぎている。
宿の中。火はほとんど落ちている。人はもういない。俺だけが残る。戸口に、影が立つ。男。武装はない。特別な服もない。ただ、立ち方に迷いがない。視線がまっすぐ向く。
「ノアだな」
俺は一度うなずく。男は中に入らない。距離をそのまま保つ。
「明日、上で、話をしてほしい」
静かな言い方だ。命令でも、頼みでもない
「朝に行われる」
それで終わる。男はすぐに背を向ける。迷いなく去る。戸が静かに閉まる。何も残らない。俺は動かない。来たか。遅くも早くもない。この街は、順番通りに進んでる。俺は寝床に戻る。体を横にするだけだ。今夜はもう、言葉を置かない。火が消える。外の音も消える。明日、ここで初めて言葉を置く。




