第60話:神に当たる音
朝に変わっている。通りの角。一人の商人が布を広げる。籠から穀を取り出し、皿に移す。秤の皿が小さく揺れる。
商人は秤から目を離さない。
「今日の分、少し上だな。粒は揃ってるし、軽すぎない。悪くない」
向かいの客が答える。
「北の荷が遅れてるらしい。道が詰まってるって話だ」
商人が鼻で笑う。
「だろうな。だから今のうちに動かす。夕方までにまとめて出す。運ぶのはそっちでやれ。こっちは重さだけ合わせて出す」
客がうなずく。
「分かった。遅らせない」
商人が穀を袋に戻し、口を絞る。体が横にずれる。肘が壁に軽く触れる。とん。
ナーヒルがその動きを追う。
「……今、偶像に当たったな。止めて触ったんじゃない。歩いたまま、そのまま当たってる」
ラヒーマが前を向いたまま、少し肩をすくめる。
「見てなかった。でも、触ろうとして触った感じじゃないね。手が当たっただけ。そのまま当たってる」
サジークが短く。
「止まってない。確かめてもいない」
マリークが続ける。
「避けてもないし、向き合ってもない。歩いたまま、当たっただけだ」
商人はもう別の客に向き直り、同じ動きを繰り返している。そのまま通りを抜ける。石段の縁。子どもたちが横一列に座っている。足をぶら下げ、同じ高さで揺らす。声が揃う。
「ビ・シュ・ヌ、シ・バ、デ・ビ——」
ナーヒルが目を細める。
「……歌じゃないな。節もないし、ただ並べてるだけだ。覚えてる名前を順番に出してる」
ラヒーマが口の動きを見ながら。
「名前だけ残ってる。意味は分かってないけど、口はそのまま動いてる」
一人の子どもが順を崩す。
「パ・ル、バ・ティ——」
笑い声。肩がぶつかる。ナーヒルが小さく。
「崩しても止まらねえな。誰も直さないし、戻そうともしない」
ラヒーマが少し首を傾けて。
「困らないからだね。名前が続いてれば、それで済む」
ナーヒルが少し考える。
「……名前だけ回ってるな。中身はなくても、動きだけ残ってる」
そのまま通る。少し先。一人の女が鍋をかき回している。木の匙でゆっくり円を描く。火は強くない。
近くの子どもが女に話しかける。
「さっき、なんか言ってたよね。口、動いてた」
女は手を止めない。
「気にしなくていい。癖みたいなもんだよ」
子ども。
「言わないとだめ?」
女が少しだけ笑う。
「言ってもいいし、言わなくてもいい。焦がさなきゃ、それでいい」
ナーヒルが小さく呟く。
「……祈ってるんだな、あれ。でも手は止めてないな」
ラヒーマが静かに。
「うん。作業しながらやってる。切り分けてない」
マリークが低く。
「生活の中に入ってる。外に出してない」
ナーヒルがうなずく。
「時間で分けてねえんだな。やりながらそのままやってる」
女が鍋を回しながら。
「明日、粉が足りないな。南の通りで借りるか」
ナーヒルがぼそっと。
「……さっきの供え物と全然違うな。同じ“上”向いてるのに、やり方が別だ」
ラヒーマが小さく。
「でも息は同じだよ。止めずに、そのまま混ざってる」
女は何も答えない。手だけが動き続ける。一瞬だけ口が動く。声にはならない。
サジークが低く。
「……混ざってる」
マリークが落とす。
「分けてないだけだな」
誰も続けない。火がはぜる。そのまま、流れる。角を曲がる。通りはそのままの幅だが、荷が増えている。背に袋を背負った男が、壁際を抜けようとする。歩幅は落とさない。人を押しのけるほどでもない。ただ通れる隙間を拾って進んでいる。肩が偶像に当たる。こつ。男は止まらない。振り向かない。手がそのまま壁に触れる。
押すわけでもなく、少しだけ位置をずらす。
「どけて」
低い声。誰に向けたか分からない。そのまま前を抜けていく。すぐ後ろの男が籠を下ろす。偶像の前。通りの半分を少しだけ塞ぐ。
「そこ、空いてる」
誰にも向けていない。ただ位置を確かめる声だ。誰も謝らない。誰も気にしない。人はそのまま横を抜ける。
ナーヒルが視線だけ止める。
「……置いたな。偶像の前なのに、そのまま荷を置いて通してる。避けてもないし、守ってもない」
ラヒーマが歩きながら。
「邪魔ならどけるし、空いてれば使うだけだね。特別なものとして扱ってない」
サジークが短く。
「人は止めない。通す方が先だ」
マリークが続ける。
「誰も守らないし、壊しもしない。流れの中で、そのまま使ってるだけだ」
そのまま流れる。壁際の屋台。二人の男が袋を畳んでいる。間の壁に腰の高さの偶像。
一人が袋を折りながら。
「これ、アナクの神だろ。この通りだとそう呼んでたはずだ」
もう一人は手を止めない。
「それは南の呼び方だ。ここじゃアナって言う。通りごとに違うだけだ」
一人が軽く頷く。
「ああ、同じもんか。呼び方だけ違うってことか」
もう一人。
「そう。形は同じだし、やってることも変わらない。呼びやすい方で呼んでるだけだ」
袋を重ねる。
「これで足りるか?」
「今日分は足りる。でも明日は怪しいな」
「北、まだ来てないんだろ」
「だから南から回す」
話はそのまま仕事に戻る。ナーヒルが小さく。
「……名前、変えてるな。同じ形なのに、呼び方だけ変えてる」
ラヒーマが軽く振り返る。
「同じものとして見てるけど、その場に合わせて呼び分けてる感じだね」
マリークが前を見たまま。
「固定してない。使いやすい呼び方に合わせてる」
ナーヒルが息を吐く。
「壊してもないし、守ってもない。ただ合わせてるだけか」
そのまま進む。反対側。女が子どもの肩に軽く触れる。
「アナに挨拶しときな」
足は止めない。子どもが見上げる。
「昨日はアナクって言ってた」
女は振り返らない。
「通りが違う。ここはアナでいい」
子どもが少し考える。
「じゃあ、どっちでもいいの?」
女が短く。
「ここに合ってればいい。間違いじゃない」
子どもが小さく。
「……アナ」
そのまま歩く。ナーヒルが低く。
「……同じ顔だな。どこ行っても形は変わらない」
ラヒーマが続ける。
「でも名前は変わる。通りに合わせて変わってる」
マリークが落とす。
「一つにまとめてない。通りごとに分けたまま使ってる」
誰も立ち止まらない。サジークが短く。
「だから引っかからない」
ナーヒルがぼそっと。
「……全部同じなのに、同じに扱ってねえ」
誰も答えない。そのまま流れる。流れのまま次の通りへ入る。足は止まらない。視線だけが壁をなぞる。通りの脇。壁の彫りの前で、男が籠を置こうとしている。籠が偶像の影に少しかかる。ナーヒルが手を伸ばしかける。
位置を少し直そうとした瞬間——地元の男が顔を上げずに。
「それ、触らないで。そこ、そのままでいいから。動かさなくていい」
ナーヒルがすぐ手を止める。
「……これか?少しずれてたから直そうとしただけだ。当たりそうだったし」
男がちらりとだけ見る。
「いい。そのままでいい。そこは触らないで。うちのだから」
ナーヒルが少しだけ眉を寄せる。
「うちのって……壊れやすいとかか?重さで欠けるとか、そういうことか?」
男は首を振らない。ただ作業を続けながら。
「違う。そういうんじゃない。触るもんじゃないってだけだ。理由はない。自分のとこじゃないやつは触らない。それでいいだろ」
それ以上は言わない。籠を置き直す。彫りを避けもしないし、重ねもしない。位置だけ整えて、縄を締める。誰もこちらを見ない。少し進む。
ラヒーマが歩きながら小さく。
「“うちの”って言い方、変だね。祀ってる感じでもないし、守ってる感じでもなさそうなのに」
マリークが前を見たまま。
「決まってるだけだ。誰が触るか、どこまで触るか、最初から分かれてる」
ラヒーマが続ける。
「見張ってる感じでもないね。誰かが見てるわけでもないし、注意されてる様子もなかった」
ナーヒルが低く。
「信じてるって言い方とも違うな。大事にしてる感じでもねえし、かといって雑にも扱ってない。ただ触らないってだけで回ってる」
サジークが短く。
「境目だけある」
誰もそれ以上言わない。前を歩く地元の男たちの声がそのまま入る。年配の男が歩きながら。
「この先は上の神だ。天に近い方に置いてある。だから上に行くほど触れるやつも限られてくる」
若い男が歩調を変えずに。
「だから下とは扱い違うんだな。誰でも触れるわけじゃないし、触るものも決まってる」
年配の男が続ける。
「勝手に触るなよ。順番も場所も崩れる。決まってる通りに回した方がいい」
若い男が小さく笑う。
「だからさっきのも誰も触らなかったのか。目の前にあっても、そのまま通るわけだ」
年配の男。
「そういうもんだ。近くにあっても、自分のやつじゃなきゃ手は出さない」
二人は一度も上を見ない。そのまま歩く。角を曲がる。足は止まらない。声も残らない。誰も振り返らない。少しの沈黙。
ナーヒルが息を吐く。
「……さっきの、“天に近い”ってやつな。あれ、行く話じゃなかったよな。ただ距離の話してただけだ」
ラヒーマが少しだけ首を傾ける。
「うん。近いって言ってたけど、行こうとしてる感じはなかった。上にあるって分かってるだけで、向かうものじゃないみたいだった」
マリークが前を見たまま。
「立ち位置の話だな。どこにあるかは決まってる。でも、そこへ行くかは別だ」
ナーヒルが小さく頷く。
「……信じるとか願うとかじゃねえな。“どこにあるか”だけ分かってるって感じだ」
アミーヌが周りを見ながら。
「それぞれの神に役目があるんだと思います。天そのものに向かうためじゃないです。そこで区切るために置かれてます」
ラヒーマがまとめる。
「“上にある”って分かってるだけで、そこから先には繋がってないんだね」
そのまま歩く。影に入る。足が少しだけ緩む。ラヒーマが壁の彫りを見て。
「……これ、やっぱり変だね。同じ形なのに、通りごとに名前が違うし、触る人も違う」
ナーヒルが視線を動かす。
「同じもんなのに扱いがバラバラってことか。場所で分けてるって感じだな」
ラヒーマが続ける。
「うん。でも分かれてても困ってない。誰も混ぜようとしないし、そのまま成り立ってる」
マリークが短く。
「並べてるだけだ。まとめてない。だから誰も疑わない」
ナーヒルが少し考える。
「……でもさ、それだとさ。天に行こうとしたとき、変だと思わねえか?神がいくつもあって、そこで止まる感じがする」
サジークが低く。
「先に越えない線がある」
ナーヒルが頷く。
「そう、それだ。行こうとして止められるんじゃなくて、最初からそこまでしか行かない」
アミーヌが静かに。
「他の神と重ならないように置かれてますね。近くにあっても届かないように間がある。低いものは触れる。高いものは触れない。だから最初からぶつからないようになってます」
ラヒーマが小さく。
「だから迷わないんだね。選ばなくていいようにしてある」
ナーヒルが息を吐く。
「……信じる前に、立つ場所が決まってるな。どこまで行っていいかが先にある」
マリークが短く落とす。
「信じなくても回る」
ナーヒルがぼそっと。
「……なんかさ、近づいてる感じしねえな。上の話してるのに、ずっと遠回りしてる感じがする」
ラヒーマは何も言わない。アミーヌも答えない。サジークも動かない。そのまま足だけが進む。影が動く。通りが続く。誰も振り返らない。宿の中。火は低い。器は空のまま、縁だけが冷えて残っている。外の声は少しずつ遠のく。
マリークが壁にもたれたまま。
「拒まれてないな。偶像も、神も、そのまま受け取ってる形にはなってる。止められてもいないし、押し返されてもいない」
ナーヒルが顔を上げる。
「……届いてはいるんだよな。無視されてる感じでもねえ。でも返ってこない。供えたものも、祈りも、そのまま上に流れて終わってる感じだ」
ラヒーマが火を見たまま。
「返ってきてないって感じ?届いてないっていうより、もう別のものになってるみたい」
ナーヒルが頷く。
「そう、それだ。こっちのまま戻らねえ。名前で分けられて、場所ごとに分けられて、そのまま別々に置かれてる感じだ。届く前に、もう分けられてる」
アミーヌがゆっくり口を開く。
「まとめる言葉がないんだと思います。神の名前も全部分かれてますし、使う人も決まってます。触れる距離も高さも、それぞれ決まってます」
一拍。
「でも天だけは同じです。呼び方が違っても、“上にあるもの”としては一つのままです。そこだけは分かれてません」
ナーヒルが少し笑う。
「……中はバラバラで、上だけ一つか」
火が小さくはぜる。ラヒーマが静かに。
「間違ってる感じはしないよね。ちゃんと回ってるし、人も困ってない。止まってるわけでもないし、詰まってもない」
ナーヒルが続ける。
「揉めてもねえしな。取り合いもないし、崩れてる様子もない。むしろうまく回ってる」
ラヒーマが少しだけ火に近づく。
「だから、そのままになってるんだね。壊れてないから直す理由もないし、変えようとも思わない」
マリークが短く。
「分けたまま、動いてる」
ナーヒルが低く。
「……全部うまくいってるから、誰も疑わねえってことか」
ナーヒルがぼそっと。
「でもさ、このままだと、ずっと分かれたままだよな。近づこうとしても、その前で止まるようになってる」
サジークは入口を一度だけ見て、また火に視線を戻す。何も言わない。火がさらに弱くなる。
ナーヒルが小さく息を吐く。
「……楽なんだよな、このままでも。誰も困らねえし、壊れねえし、争いも出ねえ。でも、それでいいのかって話だ」
静けさが残る。俺は火を見る。それから、口を開く。
「……置ける」
全員の視線が、俺の方に向く。
「言葉を置ける場所、見つけた。明日、人が集まるところで置く。流れの中で止まる場所がある。あそこなら、言葉は残る」
ナーヒルが眉を上げる。
「……話すのか?あのままの街に対してか?」
俺は短く。
「長くはやらない。一度でいい。形は崩さない。そのまま置く」
サジークが初めて口を開く。
「場所は?」
「偶像の前だ。人が止まるところ。あそこなら、聞く前に無視されない」
サジークは短く頷く。
「……なら通る」
マリークが低く。
「反発は出ない。何も壊さなければ、押し返されない」
ラヒーマが少しだけ前に寄る。
「……どんな言葉、置くの?」
俺は少しだけ間を置く。
「まとめる言葉だ。分かれてるものを、そのまま一つに通す言葉」
アミーヌの目がわずかに動く。
「……上と下を、繋ぐ?」
「繋がってることを、そのまま出すだけだ」
ナーヒルが息を吐く。
「……面白くなってきたな。壊すわけじゃねえんだろ?」
「壊さない」
短く返す。ナーヒルが笑う。
「なら見てえな、それ。どう変わるか」
ラヒーマが静かに。
「……聞く人、変わると思う」
マリークが低く。
「形はすぐには崩れない。でも、止まる場所は変わる」
サジークが入口を見る。
「動きは読む」
それだけだ。誰も止めない。誰も疑わない。火が小さくはぜる。明日の場所が、静かに決まる。




