第38話:壊れていない村
朝。
水が汲まれ、籠が運ばれ、用件だけの声が行き交う。昨日と同じ速さだ。俺はいつもの場所に立つ。刃を置き、縄を整える。少し後ろにサジーク。並ばない。だが、引かない。
さらに外側。若い男が少し位置をずらして立つ。列には入らない。群衆側でもない。少し離れて、ラヒーマが籠を運んでいる。前には出ない。だが、背中の向きは同じだ。誰も合図はしない。視線も交わさない。それでも、立つ位置だけは決まっている。
近くで声が落ちる。
「……あいつらもか」
籠を持った男が肩越しに数える。
「昨日は二人くらいだったよな。今日はもう三人いるじゃないか」
別の男が鼻で笑う。
「ほんとだな。なんだかんだ言って、ノアの話を聞きに来るやつは減らないんだな」
水桶を持ち上げながら別の声。
「またノアか。雨だの空だのって話だろ。ああいうの、好きなやつは好きなんだよ」
近くの男が肩をすくめる。
「でもよく考えると変じゃないか。あれだけ笑われてるのに、むしろ人数が増えてる」
籠を地面に置く音。
「普通なら減るだろ。からかわれて終わりだ」
別の男が水をこぼさないように桶を持ち直す。
「そうなんだよな。誰も真面目に聞いてる顔じゃないのに、なんでかあそこに人が残る」
短い沈黙。
「……まあいい。そのうち皆飽きるだろ。今だけだよ」
笑いが混じる。作業は止まらない。俺は刃を持つ。角度を決める。順番は変えない。だが、背中の重さだけは、昨日と少し違っていた。作業の流れが少しほどける。
刃を布で拭いていると、背中の横から声が落ちる。
「……なあ、ノア」
俺は手を止めない。刃を布に包みながら短く返す。
「なんだ」
籠を肩に乗せた男がこちらを見ずに言う。
「最近ずっと同じこと言ってるだろ。空だとか雨だとか、俺たちが忘れてるとかさ。結局どうなるんだ?お前は何が起きると思ってる?」
近くで水桶を持ち上げた男が頷く。
「そうそう。ずっと聞いてるけどさ、最後のところが分からないんだよ。俺たちが忘れてるってのは分かった。で、そのあとどうなる?」
俺は刃を布に包みながら答える。
「……どうなるかは、俺にも分からない。ただ、俺たちは何か大事なことを忘れてる。それだけは分かる」
籠を地面に置いた男が眉を上げる。
「分からないのか?」
別の男が肩をすくめる。
「分からないのに言ってるのか?」
水桶を揺らしながら笑う声。
「いや、だってさ。もし本当に何かあるなら、もう少しはっきり言うだろ。何が起きるとか、どうなるとかさ」
桶の水が少しこぼれる。
「それがないなら、正直、ただの心配話に聞こえるんだよ」
俺は肩を少し動かす。
「……分からない。ただ、このままでいいとは思えない」
一拍。
「思い出すのは、早い方がいい」
籠を持ち替えた男が首を傾ける。
「でもさ、村は普通に回ってるだろ。水もあるし、畑もちゃんと実ってる。誰かが飢えてるわけでもない」
近くで縄を巻きながら別の男が続ける。
「そうなんだよ。今のところ全部うまく行ってる。正直、困ってることなんてない」
水桶を肩に乗せた男が笑う。
「ノアが何か言いたいのは分かるけどさ。俺たち毎日仕事してるんだよ。畑も見ないといけないし、水も運ばないといけない」
桶の水が揺れる。
「正直、忙しいんだ。そんなことゆっくり考えてる暇なんてない。急ぐ理由もないしな。今のところ村は普通に回ってる」
籠を担ぎ直した男が息を吐く。
「……だからさ、ノア、お前ちょっと気にしすぎじゃないか?」
短い笑いが混じる。別の男が肩越しに言う。
「まあでも、お前がそこまで言うなら何かあるんだろうな」
縄を束ねながら続ける。
「たださ、本当に何か起きるなら、その時に考えればいいだろ。今から悩んでも仕方ない」
作業の音が戻る。籠が動き、水が揺れる。俺は刃を持ち直す。
「……ふうん」
それだけだ。そのまま、日が落ちた。
夜。
火が低くはぜる。外の声はもう届かない。俺は道具を端に寄せて座る。順番は崩していない。だが、手の動きが少し遅い。
向かいでラヒーマが布を畳んでいる。顔は上げない。布の角を揃えたまま、ぽつりと言う。
「今日は、聞かれてた?」
俺は手を止めない。縄をまとめながら、少し間を置く。
「……少し。前より長く聞かれたな」
ラヒーマは布を畳み直しながら続ける。
「前より長く黙ってたね。ああいうときは、大体、質問されてる」
俺は小さく息を吐く。
「聞かれたよ。結局どうなるんだって。俺が何を見てるのかって」
ラヒーマは手を止めない。
「それで?」
俺は刃を布に包む。
「分からないって言った。今はまだ分からないって」
布を折る音。ラヒーマが静かに言う。
「正直だね」
俺は肩を少し動かす。
「正直っていうより、まだ答えがない。俺は忘れてることがあるって言ってるだけで、その先までは見えてない」
ラヒーマは小さく頷く。
「でも、人はそこを聞く。どうなるのかって」
俺は頷く。
「そうだな。人は理由より先を知りたがる。先が分かれば安心するからな」
視線を火に落とす。
「前は、言葉を置くだけでよかった。聞くやつもいなかったし、返事も戻ってこなかった。でも今は違う。言葉が戻ってくる」
ラヒーマは布の角を揃える。
「抱えたまま戻ってくるんだね」
俺は頷く。
「そう。前みたいに流れていかない」
ラヒーマが布を持つ手を止める。
「それでも、やめないんだ」
俺は少し考えてから言う。
「……命じられてる気がするから、やめない。理由はまだ分からないけど、それだけははっきりしてる」
火が小さく揺れる。ラヒーマはその言葉をすぐには返さない。やがて、静かに言う。
「じゃあ、そのうち理由も来る」
俺は視線を上げる。ラヒーマはもう俺を見ていない。布をまた畳み始めている。少しして、また言う。
「一人で?」
俺は少し視線を落とす。
「……今は、まだ」
ラヒーマは布を重ね直す。
「全部答えなくていい」
俺は頷く。
「分かってる」
そこでラヒーマが初めてこちらを見る。
「でも、重さが増えた日は顔に出る」
俺は黙る。ラヒーマは静かに言う。
「前は背中だった。今日は肩」
それだけ言って、また布を畳む。俺は小さく息を吐く。
「……俺は休む」
ラヒーマは頷く。
「水、まだある」
俺は立ち上がりながら言う。
「明日、早い?」
ラヒーマは布を重ねながら答える。
「……いつも通り」
「そう」
火が小さくはぜる。それで、会話は終わる。夜はそのまま静かに過ぎ、火の匂いだけが家の中に残った。
朝。
水が運ばれ、籠が動き、声は用件だけを残して行き交う。
俺はいつもの隙間に立つ。刃を入れ、返し、重さを預ける。言葉はもう置いた。今は手を動かす番だ。
少し離れたところにサジークがいる。昨日と同じ位置。並ばない。引かない。
籠を担いだ男が声を投げる。
「なあ、サジーク」
サジークは手を止めない。刃の角度を確かめながら返す。
「なんだ」
男は肩で籠を支え直す。
「正直なとこさ、お前どう思ってるんだ。ノアの話だよ。あれ、本当に正しいと思ってるのか?」
近くで縄を巻いていた男が口を挟む。
「そうそう。お前いつもあの辺に立ってるだろ。聞いてる顔してるしさ。だから聞いてるんだよ」
水桶を持ち上げた男が笑う。
「別にどっちでもいいんだ。正しいと思うならそう言えばいいし、違うなら違うでいい。ただ、お前どう考えてるのか知りたいだけだ」
サジークは視線を上げない。刃を入れ、繊維を割り、ゆっくり返す。少しして言う。
「俺は」
一拍。
「そっちに立つと決めただけだ」
籠を担いだ男が眉をひそめる。
「それってどういう意味だよ。正しいと思ってるのか、それともただ立ってるだけなのか」
別の男が続ける。
「いや、俺たちが聞きたいのはそこなんだよ。お前がどう思ってるのかって話だ」
サジークは刃を持ち替える。
「思ってるかどうかは関係ない」
水桶を置く音。
「じゃあ何で立ってるんだ」
サジークは短く答える。
「決めたからだ」
一拍。
「立つ場所を決めたら、あとは動くだけだ」
籠を持った男が息を吐く。
「……それだけか」
サジークはもう何も言わない。手だけが動く。刃が入り、繊維が裂ける。男は肩をすくめる。
「まあいい」
別の男が笑う。
「こいつ、最初からこうだろ。聞いてもあんまり喋らない」
水桶を持ち上げながら言う。
「でもまあ、あの辺に立つやつは増えてるよな」
誰かが短く笑う。
「変な話だよ。笑われてるのに減らない」
籠が動く。列が詰まり、作業の流れが戻る。俺は刃を持ち替える。角度を決める。サジークは同じ場所に立っている。俺も、立っている。それだけだ。
翌日も、村の音は同じ順で重なる。俺は同じ隙間に立つ。刃を入れ、返す。
少し外側に、若い男が立っている。
「なあ」
声が、そちらに向く。籠を肩に担いだ男が、半分笑いながら言う。
「お前さ、最近ずっとノアの近くにいるだろ。あの話、毎日聞いてるんじゃないのか?」
近くで縄を巻いていた男が続ける。
「そうそう。あの雨だの空だのってやつだろ。正直なとこどう思ってるんだ?」
別の男が水桶を持ち上げながら笑う。
「別に難しい話じゃないさ。信じてるなら信じてるって言えばいいし、違うなら違うでいい。ただ聞いてみただけだ」
若い男は手を止めない。籠を持ち直し、重さを確かめ、次の動きに移る。視線も上げない。一拍。もう一拍。
「……」
返事はない。桶を置いた男が小さく笑う。
「ほら見ろ、聞こえてないふりしてる」
別の男が肩をすくめる。
「慎重だな。こういうとき下手に喋ると面倒になるからな」
水を運んでいた男が笑いながら言う。
「まあいいさ。黙って聞いてる方が楽なこともある」
笑いが二、三人から上がる。冗談はすぐ作業の音に溶ける。サジークは動かない。位置も変えない。俺は刃を持ち替える。若い男は今日も何も言わない。それでも、離れない。
そのまま、何事もなく日が過ぎていく。日が巡る。
切れ目はない。昨日の続きが、そのまま今日になる。籠が行き交う。中身も重さも昨日と同じ。子どもが走り、転んで、すぐ立ち上がる。笑いは長く残らない。雨が降る。多すぎず、少なすぎない。土が潤い、畑が静かに受け取る。
空を見上げた男が言う。
「助かったな。これで土も柔らぐ。畑も楽になる」
近くの男が頷く。
「そうだな。ちょうどいい雨だ」
それで話は終わる。芽は伸び、葉が開く。取引の声は短く、決まればすぐ次に移る。村は止まらない。俺は同じ場所に立つ。同じ隙間に、同じ高さで言葉を置く。誰かが流す。誰かが笑う。誰かは途中で立ち去る。止まる理由はない。
夜が来る。火が灯る。家々は同じ順で静かになる。
翌朝、また始まる。
村は今日も問題なく動く。水も食べ物も足りている。だから、誰も思い出さない。サジークは引かない。若い男は言わない。だが戻らない。ラヒーマは作業の中にいる。背中だけ同じ向きだ。俺は、今日も同じ場所に立つ。壊れていない村の中で、同じ言葉を、同じ高さで、置く。それが今、俺にできるやり方だ。平気な日ほど、人は空を疑わない。俺は道具を寄せる。順番は変えない。いつも通りだ。
横に、男が立つ。
「……なあ」
俺は手を止めない。男は少し待ってから言う。
「それ、いつまでここで言うつもりなんだ」
籠を運んでいた男が足を止める。
「ノアの話だろ」
別の男が肩をすくめる。
「空だとか雨だとかさ。俺たちが何か忘れてるとか言ってるやつだ」
近くの男が笑う。
「正直、最初は面白いと思って聞いてたんだよ」
桶を持った男が続ける。
「でもさ、毎日同じ場所でやられるとな。人も集まるし、道も詰まる」
最初の男が頷く。
「そうなんだよ。作業してると、ちょっと邪魔になるんだ」
別の男が言う。
「子どもも真似するしな」
誰かが肩越しに笑う。
「空だの雨だのって言い出してさ」
最初の男が俺を見る。
「だから聞いてるんだよ」
一拍。
「ここで言い続けて、何か変わると思ってるのか?」
近くで小さな笑いが混じる。
「いや、変わるならいいんだ。でも今のところ、何も変わってないだろ」
別の男が口を挟む。
「むしろさ、迷惑かけてるんだよ」
視線が少しだけ集まる。男は続ける。
「人が集まると道が詰まる。作業も遅れる」
もう一人が頷く。
「正直、村の真ん中でやる話じゃないだろ」
最初の男が静かに言う。
「だからさ、ここじゃなくてもいい。どこか別の場所でやればいい」
誰かが小さく言う。
「そうそう。村の端とかさ、静かな場所でやればいいだろ」
静かな沈黙。俺は刃を入れる。繊維を割る。返す。男がもう一度言う。
「ノア。分かるだろ?ここじゃなくてもいいんだ」
俺は刃を置く。ゆっくり息を吐く。
「……すまない」
視線は上げない。
「だが」
一拍。
「ここだけは、譲れない」
空気が少し止まる。男が眉を上げる。
「譲れない?」
俺は頷く。
「理由はうまく言えない。でも、ここで言うことだけは、変えられない」
男は俺を見る。やがて息を吐く。
「……そうか」
肩をすくめる。
「まあいい」
別の男が言う。
「とにかくさ、ここでやるのは、そろそろ勘弁してくれ」
足音が離れる。籠が動く。水が揺れる。作業の音が戻る。村はまた問題なく動き始める。俺は道具をまとめる。順番は変えない。手も止めない。誰も怒っていない。ただ、必要とされていない。胸の奥で、静かに分かる。ここは、もう、立ち続ける場所じゃない。気づけば、日が落ちていた。
夜。
小さな火が燃えている。薪がはぜる音だけが続く。誰かが集めたわけじゃない。気づけば同じ火の周りに座っていた。
ラヒーマが先に口を開く。
「今日は、帰りが早かったね」
俺は肩を少し動かす。
「……ああ。昼のうちに話は終わった」
サジークが枝を火に入れる。
「人は増えてたな」
俺は頷く。
「増えたというより……」
言葉が止まる。サジークが先に言う。
「思い出しかけてるだけだろ。忘れてたものを」
俺は何も足さない。火の向こうに若い男が座っている。ラヒーマがそちらを見る。
「今日は、誰も言い返さなかったね」
若い男は視線を上げない。サジークが火を見たまま言う。
「……聞こえてないんじゃない。聞かないことにしてる」
俺が小さく息を吐く。
「最初は、だいたいそうなる」
若い男が火を見る。
「……僕、ああいうの出来ません」
薪が小さくはぜる。ラヒーマが静かに言う。
「だから、あそこに残ってたのね」
若い男は頷く。
「皆、聞こえてるのに、誰も返さない」
炎を見る。
「……聞かないのも、仕方ないのかもしれません」
薪が小さくはぜる。
「でも」
一拍。
「……僕は、あそこを離れる気になれませんでした」
サジークが枝を一本、火に落とす。
「人はな」
火を見たまま続ける。
「困るまでは、聞かない」
小さく火が鳴る。俺が静かに言う。
「だから、困る前に言ってる」
火が揺れる。サジークが静かに言う。
「ノアの話、信じてるのか?」
若い男はすぐ答えない。薪が崩れる音。やがて言う。
「話を全部信じてるかは、僕にも分かりません」
火を見るまま続ける。
「でも、ノアは怒らない。笑われても怒らない。言い返さない。顔も変えない。それでも、歩き続ける」
一拍。
「……ああいう人は、嘘をついてまで続けられないと思うんです。同じことを、毎日、あんなふうに言い続けるなんて。僕には、とても出来ない。あれは、簡単じゃない」
サジークが小さく笑う。
「確かにな」
ラヒーマが火越しに若い男を見る。
「それで?」
若い男は炎を見たまま答える。
「だから、僕はここに座ってます。話が全部分かるわけじゃないですけど。あの人がやめないなら。僕も、もう少し聞いてみようと思ったんです」
一拍。
「……それだけです」
薪が小さく崩れる。少し間。俺が火を見るまま言う。
「……そういえば、名前、聞いてなかったな」
若い男は少し驚いたように瞬きをする。
「アミーヌです」
俺は小さく頷く。
「ノアだ」
サジークが肩を揺らす。
「今さらか」
ラヒーマが小さく笑う。
「でも、今でいい」
薪が小さく崩れる。俺が火を見るまま口を開く。
「……問題は、別にある。この村は、平和すぎる」
火が小さくはぜる。
「平和すぎると、人は忘れる。だから、言っても変わらない」
沈黙。ラヒーマが静かに言う。
「困ってないものね」
サジークが頷く。
「壊れてないからな」
枝を火に入れる。
「壊れてない場所は、変わる理由がない」
アミーヌが小さく息を吐く。
「……だから、笑われるんですね」
俺は頷く。
「そうだ」
サジークが枝を指で転がす。
「この村、合わないだろ」
アミーヌは少し考える。
「……そうですね。皆、悪い人じゃないです。でも、ここに座ってると、少しだけ浮いてる気がします」
ラヒーマが火の向こうを見る。
「最初から、少し浮いてた」
サジークが枝を足す。
「無理して残る場所でもない」
俺は火を見る。
「……まだ壊れてない」
サジークが頷く。
「だから誰も動かない」
ラヒーマが膝の上で指を組む。
「でも、私たちは少し違う」
アミーヌが顔を上げる。
「出ていくんですか?」
俺は火を見る。すぐには答えない。サジークが薪を軽く押す。
「ここより西は、行ったことあるか?」
アミーヌは首を振る。
「ありません。僕はこの村から外に出たことがありません」
ラヒーマも首を横に振る。
「私もない」
サジークが肩をすくめる。
「俺もだ。全員初めてか」
火が低くなる。俺は火を見たまま。
「……西に道はある」
アミーヌが小さく息を吸う。
「じゃあ」
一拍。
「初めてになりますね」
ラヒーマが静かに頷く。サジークが薪を崩す。火が小さく揺れる。誰も、もうこの村の話はしない。




