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第37話:群衆からの半歩

村は、何も変わらなかった。声の重なり方も、道具の置かれ方も、一日の終わり方も。


俺とサジークが並んでも、特別な間は生まれない。水は汲まれ、籠は運ばれ、刃は止まらない。


だが、それを見ている目が、一つあった。


若い男だ。作業は止めない。笑いにも混ざらない。俺が言葉を置く、その瞬間だけ。ほんの一拍、目が上がる。すぐに戻る。


俺もサジークも、それに気づかない。


村は今日も問題なく動いている。そして、その目は、黙って見ていた。


今日は、人が多い時間だ。声が重なり、足が交差する。


俺はいつもの場所に立つ。刃を置き、縄を整え、順番を確かめる。


俺は手を動かしたまま言う。

「……日って、毎日、誰の都合で昇ってる?」


すぐ近くで笑いが返る。

「はいはい」

「また始まった」

「今日もその話か」


籠を担いだ男が肩で笑う。

「そんなの決まってるだろ。空だよ空。お前が昇らせてるわけじゃないんだからさ。毎朝勝手に出てきて、夕方になったら勝手に沈む。それだけの話だろ」


近くの男が肩をすくめる。

「昨日は雨の話だったな。今日は太陽か。明日は風か?そのうち雲の話でも始めるんじゃないか」


笑いが広がる。作業は止まらない。俺は縄を引きながら言う。

「じゃあ聞く」

少し間。

「日と雨が無ければ、俺たちは死ぬだろ?」


籠を地面に置いた男が顔も上げずに返す。

「そりゃそうだ。そんなの当たり前だろ。日がなきゃ作物は育たんし、雨がなきゃ畑はただの土だ」


近くで水桶を持ち上げた男が頷く。

「当たり前だろ。雨が来なきゃ畑は終わりだし、日がなきゃ何も育たん。どっちか一つでも止まったら、村はすぐ飢える」


別の男が空をちらっと見上げる。

「だから皆、空を見るんだよ。雨が来るかどうか気にしてな。雲が出たら喜ぶし、晴れが続いたら皆そわそわする」


俺は軽く頷く。

「そうだな。俺たちは畑を耕す。種も蒔く。水も運ぶ」


籠を担ぎ直しながら男が口を挟む。

「そこまでは俺たちの仕事だ。土を起こして、種を入れて、水をやる。それくらいなら誰でもやる」


俺は続ける。

「でも」

一拍。

「その下の芽を、自分で見てるのか?」


笑いが少し混じる。肩を揺らした男が言う。

「見てるだろ。芽は出てくる。朝来たら昨日なかった緑が出てる。それを皆見てる」


俺は頷く。

「出てくるのは見る」

一拍。

「でも、なぜ芽が出る?」


少し沈黙。土を踏みながら男がぼそっと言う。

「水があるからだろ。乾いた土じゃ何も出てこない」


横の男が続ける。

「日もいるな。日が当たらなきゃ伸びない。ずっと陰だったら枯れる」


俺は頷く。

「そうだ。雨があって、日が昇って、土が受けて、それが揃って、初めて芽が出る」


近くの男が鼻を鳴らす。

「まあ、そうだな。そこまでは誰でも知ってる話だ」


俺は顔を上げない。

「そのどれを、お前らが動かしてる?」


笑い声。

「俺じゃないな」

「お前でもない」

「そんな力あったら皆もっと楽してるよ」


俺は続ける。

「でも、それが揃わなければ、俺たちは食えない」


籠を肩に乗せた男が肩をすくめる。

「結局、運だろ。雨が来るかどうかなんて俺たちじゃどうにもならん」


近くの男も頷く。

「そうだな。雨が来るかどうかなんて運だ。降れば助かるし、降らなきゃ終わる。それだけだ」


少し間。俺は顔を上げずに続ける。

「運で片付けるのはいい。でも、運って呼ぶ前に、それを動かしてるものがあるんじゃないかって思わないのか」


空気が少し静かになる。鼻で笑う声。

「そんなもん知らんよ。誰が動かしてるかなんて、見たこともない」


近くの男が笑う。

「考えてもしょうがない話だろ。空のことなんて人間にはどうにもならん」


俺は縄を整えながら続ける。

「考えろとは言ってない」

一拍。

「でも、俺たちは毎日それに頼ってる」


籠を担ぎ直した男が言う。

「そりゃそうだ。雨が来なきゃ終わりだしな。雨が三日遅れただけで皆顔色変わる」


俺は頷く。

「そうだ」

少し間。

「なら」

一拍。

「太陽と雨を動かしてるものに、感謝してもいいんじゃないか?」

さらに一拍。

「感謝もしないで食ってるなら、それは畑じゃなくて盗みだろ」


一瞬だけ空気が止まる。すぐ笑いが戻る。

「真面目だなあ。そんなこと考えてたら仕事終わらんぞ」


籠を持ち上げた男が苦笑する。

「まあ、言ってることは分かるけどな。畑は俺たちだけで育ててるわけじゃないのは確かだ。雨も日もなきゃ何も出来ん」


背後でサジークは動かない。少し離れた場所で、若い男が作業を続けている。籠を運び、水を汲む。笑いが起きたその瞬間だけ、手の速さが、ほんの一拍変わる。止まらない。乱れもしない。ただ、聞く側の速さになる。


俺は最後にもう一度だけ言う。

「……だから俺たちは、生きるために、見えないものに頼ってる。それを忘れるなと言ってるだけだ」


背中がいくつか離れていく。笑い声。籠の擦れる音。空気はすぐ元に戻る。だが、若い目だけは戻らない。笑われても、言い方を変えない。速さを変えない。その揺れないところだけが、静かに刻まれていく。まだ問いはない。まだ言葉もない。だが、見ている理由だけは、もう生まれている。


そして、日常は何事もなかった顔で、夕方に向かい始める。


籠が端に寄せられ、道具が減り、声は低くなる。人は散っていく。俺は刃を布に包む。順番は変えない。背中に気配がある。振り向かなくても分かる距離だ。サジークの横に、若い男が立つ。並ばない。だが、離れてもいない。しばらく音だけが続く。水の名残り。布が擦れる音。遠くで子どもが走る。


やがて若い声が落ちる。

「……なぜですか」

少し間。

「なぜ、あの人を信じたんですか?」


サジークは刃を置き、指先で汚れを払う。少しして口を開く。

「信じてはいない」


若い男は前を見たまま続ける。

「信じていないのに横に立つんですか。普通は逆でしょう。信じているから立つ。信じていないなら離れる」


サジークは土を靴先で軽く払う。

「ただ、気になった」


若い男はわずかに顔を向ける。

「何がですか」


サジークは視線を上げない。

「引かない」


若い男は少し首を傾ける。

「笑われていますよね」


サジークは肩をわずかに動かす。

「笑われてる」


若い男は周りを見渡す。

「誰も止まりません」


サジークは縄を足で寄せる。

「止まらない」


若い男は籠の縁に指を置く。

「得もありません」


サジークは短く息を吐く。

「ないな」


若い男は静かに言葉を重ねる。

「なのに毎日同じ場所に立っている。あれだけ人に流されない人は、あまり見ません」


サジークは前を見たまま頷く。

「そうだ」


若い男は少し考えながら続ける。

「普通なら変えます。笑われるなら言い方を変える。人が止まらないなら声を強くする。それでも駄目ならやめる」


サジークは小さく頷く。

「だろうな」


若い男は籠の縁をなぞる。

「でもあの人は何も変えません。言い方も、場所も、間も、全部同じです」


サジークは肩を軽く回す。

「変える理由がないんだろ」


若い男は少し視線を落とす。

「理由、ですか」


サジークは足元の縄を整える。

「勝つために言ってるなら変える。人を集めたいなら言い方を変える。笑われたくないならやめる。でもどれでもない」

一拍。

「だから変えない」


若い男の指が籠の縁を掴み直す。

「……それだけで横に立つんですか?」


サジークは地面を見る。

「それだけだな」


若い男は目を細める。

「他に理由は」


サジークは首を振る。

「ない」


若い男はゆっくり息を吐く。

「続ける理由が見えません。人は普通、理由がなければ続きません」


サジークは布を折りながら返す。

「それでも続けてる」


若い男は黙る。遠くで誰かが冗談を言い、短い笑いが混じる。サジークは手の汚れを払う。

「何の得もない。評価もない。守ってくれる奴もいない。それでも同じことを言う」


若い男はしばらく何も言わない。地面を見る。やがて視線を少し上げる。

「……なるほど」

視線をあの場所へ向ける

「嘘なら続きません。本当に人を動かしたいなら言い方を変える。でも変えていない」


サジークは短く頷く。

「変えてないな」


若い男はあの位置を見る。笑いが重なる場所。少しして、静かに口を開く。

「……だから残るんですね。届かなかった言葉ほど、形を変えなかった態度ほど、人の頭に残る」


サジークは小さく息を吐く。

「かもしれんな」


若い男はわずかに頷く。

「……なるほど」


少し間。若い男はそれ以上何も言わない。並ばない。だが、離れもしない。足の向きだけが、わずかに変わる。

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