表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/42

第35話:聞き慣れた警告

朝の音が、もう重なっている。水を汲む音。籠を引く音。短い声が、用だけを行き交う。新しい朝だ。だが、並びは昨日と変わらない。人の立つ場所。道具の置き方。声が上がる高さ。俺は水場の端に立つ。刃を置く。縄を整える。順を確かめる。誰もこちらを見ない。それでいい。


籠を抱えた男が、顎で場所を指す。

「ノア、そこ空いてるか? その場所まだ使ってないなら、こっち先に並べたいんだけど」


俺は視線を上げずに答える。

「……ああ。置いとけ」


男が籠を下ろしながら笑う。

「助かる。ここ空いてると楽なんだよな」


横の男が布を持ち上げる。

「じゃあここ借りるぞ。あとで戻すから」


顔を上げる必要はない。刃を置く。縄を引く。手は迷わない。昨日と同じ場所に立てば、昨日と同じ動きになる。身体がもう覚えている。来る。作業の合間、水の音が一瞬だけ薄くなる。


籠を持った男が地面に置き直す。その隙間に言葉を出す。

「……昨日の話だけど」


縄を引いていた男が肩越しに言う。

「またそれか」


振り向きもしない。別の男が籠を担ぎ直す。

「お前ほんと諦めないな。昨日も同じこと言ってただろ」


笑いが混じる。俺は続ける。

「……お前らに伝えろって言われた。このままだと――」


布を広げていた男が遮る。

「分かってる分かってる」


横の男も笑う。

「昨日も聞いたって」


布を運んでいた男が横で叫ぶ。

「それ日当たってるぞ! 少し寄せろ」


別の男が水桶を持ち上げる。

「ノア、お前ほんと真面目だな。朝からそんな顔してる奴、お前くらいだぞ」


水桶を持った男が言う。

「誰かこれ手伝え。重いぞ」


笑いが短く弾む。止めるほどでもない。続けるほどでもない。早い。反応が昨日より早い。視線は上がらない。手も止まらない。俺の言葉が終わる前に、場はもう次へ動いている。


すぐ横で籠を持った男が言う。

「ノア、それ先に運ぶ? 今こっち手が足りないんだけど」


俺は籠を持ち上げる。

「……ああ」


男が笑いながら言う。

「助かる。そこ重いから気をつけろよ」


別の男が肩をすくめる。

「昨日もそれ言ってたな」

「だって重いんだよ」


笑いが混じる。重さは昨日と同じだ。中身の偏りも変わらない。


底に手を回し、身体を少しずらして持ち替える。考える前に、身体が動く。


運びながら、胸の奥で静かに分かる。もう、次を知っている。俺が何を言うかを、もう知っている。


拒んでいる感じでもない。聞いていないわけでもない。もう、分けられている。真面目な話。警告の話。今じゃない話。だから、最後まで聞く必要がない。


悪意はない。ただ、慣れている。


俺は籠を置く。音は軽い。置き方も昨日と同じだ。


問題は、警告の中身じゃない。ここで初めて、それが分かる。問題なのは、俺がどこに立っているかだ。この場所。この時間。この役目。そう扱われる位置。


怒りはない。失望もまだない。ただ、分かっただけだ。


水の音が戻る。声が重なる。布が引かれる。世界は止まらない。いつもの速さで進んでいる。


俺も、その中にいる。ただ一つ。同じ言葉を、また言った。身体だけが、それを覚えている。


次も、たぶん同じだ。そう思っても、やめる理由にはならない。


刃を持つ。角度を決める。今日も作業は続く。言葉も、まだ終わっていない。


だが、身体のほうが先に何かを拾う。同じ道のはずなのに、今日は足が止まる。


水場へ向かう途中。畑の脇。土の匂いは、いつもと同じだ。


だから気づく。昨日も、一昨日も、この道を通った。畑は耕されていた。水は流れていた。空は落ちてこなかった。だから、誰も考えない。考えなくても、世界は続く。


俺は立ち止まる。理由ははっきりしている。考えてしまったからだ。


土を見る。乾いた土。湿った土。同じ畑だ。だが、昨日雨が降ったかどうか。それだけで、結果は変わる。


この土も、最初から、俺たちのものじゃない。俺たちは土を耕した。種をまいた。水路を引いた。それでも、決めていないことの方が多い。


空を見上げる。雲が流れている。速くもない。遅くもない。


俺たちは、毎日空を見る。だが、空に頼って生きているとは思っていない。雨。日差し。風。それを当たり前として使っている。


畑に入る。土を指でつまむ。崩れる。この土を、俺が作ったわけじゃない。


水が来た。日が照った。風が乾かした。どれも、俺たちが決めたことじゃない。頼んだわけでもない。ただ、来ている。それを、当たり前のように使っている。


そこで分かる。警告は、未来の話じゃない。今の話だ。


俺は水場へ戻る。いつもの声。いつもの音。 いつもの並び。誰も、違和感を持たない。


誰かが声を飛ばす。

「ノア」

俺は手を止めない。

「……ああ」


縄を引く音。水を汲む音。籠が地面に触れる。桶を抱えた男が顎で場所を示す。

「それ終わったら、こっち手伝ってくれ。今ちょっと重いんだ」


俺は縄を引きながら返す。

「分かった」

一拍。俺は声を落とす。

「……なあ」


布を運んでいた男が振り向かないまま答える。

「なんだ、急に」


俺は縄を握ったまま言う。

「もし雨が来なくなったら……どうなると思う?」


縄を結んでいた男が手を止めて顔だけ上げる。

「は? 急にどうした」


籠を運んでいた男が横で笑う。

「朝からそんな話かよ」


俺は視線を上げずに続ける。

「畑ってさ、俺たちの都合で実るのか?」


籠を担いだ男が肩をすくめる。

「そりゃ雨が降らなきゃ無理だろ。水来なきゃ何も育たない」


俺は縄を引きながら聞く。

「じゃあ、その雨は誰の都合で来る?」


一瞬だけ音が薄くなる。桶を地面に置いた男が鼻で笑う。

「また難しいこと言い出したな」


水桶を持った男が肩越しに言う。

「来るときは来るし、来ないときは来ない。それだけだろ」


周りで小さく笑いが混じる。俺は静かに言う。

「来るときは来る。でも、誰がそれ決めてる?俺たち、雨を呼んだことあるか?」


籠を持ち上げた男が首を振る。

「そんなことできるかよ」


俺は続ける。

「でも来る」


水を汲んでいた男が空をちらっと見る。

「まあな」


俺は空を指す。

「日もそうだ。毎朝上がる」


桶を持った男が笑う。

「そりゃ上がるだろ」


俺は空を見たまま言う。

「それも俺たちの都合で上がるのか?」


籠を運んでいた男が吹き出す。

「ノア、今日は変だぞ」


俺は静かに続ける。

「雨も、日も、俺たちの都合で動かない。でも俺たちは、それを当たり前みたいに使ってる」


桶を担ぎ直した男が歩きながら言う。

「そりゃ使うだろ。来るんだから」


俺は縄を結びながら聞く。

「じゃあ急に止まったら?」

一拍。

「雨が来ない。日も照らない。水も流れない。そのとき、俺たち何日持つ?」


沈黙。水を汲んでいた男が息を吐く。

「そんなこと考えてもしょうがないだろ」


籠を運んでいた男が笑う。

「ノア、朝から哲学始めるなよ。腹減ってるんじゃないか」


周りに笑いが散る。桶を持った男が肩をすくめる。

「来るときは来るし、来ないときは来ない。それだけだ」


作業の音が戻る。縄が引かれる。水が汲まれる。俺は籠を持ち上げながら小さく返す。

「……そうだな」


籠を持ち上げる。重さは昨日と同じだ。村は、何も変わらない。


別の話題が投げられる。誰も立ち止まらない。それでいい。


問いは消えていない。ただ、その場に残っただけだ。


籠が動く。水が汲まれる。場は、もう戻っている。


だが俺の中では、一つ位置が決まった。


俺が言っているのは、終わりの話じゃない。壊れる前の話でもない。支えているものを、忘れるなという話だ。


天、という言葉はまだ出さない。だが視線だけは、もうそこを向いている。


人は、見えるものだけで生きているつもりでいる。だが本当は、見えないものの上に立っている。


それを指す。引き寄せるわけでもない。押すわけでもない。ただ、思い出させる。それが、今の警告だ。


今日も、誰も立ち止まらなかった。それでいい。


俺はまた同じ場所に立つ。次も、たぶん同じ問いを投げる。それでも、やめる理由はまだない。


そのまま日が落ちる。夜が来る。昼の音が、少しずつほどけていく。


灯を置く。明るさは、手元が見えるくらいでいい。


ラヒーマはもう座っている。布を手に持ったまま、指先だけ動かしている。顔を上げないまま言う。

「今日は遅かったね。昼のうちに戻るかと思ってた。何かあったの?」


俺は腰を下ろす。

「……少し長く話してただけだ。みんな働きながら聞いてはいたけど、手は止まらなかった」


ラヒーマは布を整えながら聞く。

「また同じ話してたの? 昨日言ってた、雨とか水とか畑の話」


「……ああ。畑が俺たちの都合で実るわけじゃないって話をしてた。雨が来なかったらどうなるか、って」


ラヒーマは少し笑う。

「みんな、また困った顔してたんじゃない?」


俺は首を振る。

「困ってはいない。ただ、聞いてはいるけど、そのまま作業を続けてた。怒るわけでもないし、止まるわけでもない」


ラヒーマは布を畳みながら言う。

「なるほどね。聞こえてはいるけど、わざわざ考えないってことね」


俺は頷く。

「そんな感じだ」


ラヒーマは少し間を置く。

「今日は、どこまで話したの?」


俺は灯を見る。

「雨の話から始めた。それから、日も同じだって言った。毎朝上がるけど、あれだって俺たちの都合で上がってるわけじゃない」


ラヒーマが顔を上げる。

「それをそのまま言ったの?」


「ああ。俺たちが呼んだわけでもないのに、雨も日も来る。それなのに、俺たちはそれを当たり前みたいに使ってる、って」


ラヒーマは小さく笑う。

「それはみんな困るわね。急にそんな話されたら、どう返していいか分からないもの」


俺は肩をすくめる。

「困ってはいない。笑ってた」


ラヒーマは頷く。

「まあ、そうなるわね。でも、あなたが言いたいことは分かる。雨も日も風も、全部こっちの都合じゃない。それでも私たちは、それが来る前提で畑を作ってる」


俺は顔を向ける。

「……そうだ」


ラヒーマは続ける。

「もしそれが来なかったら、村は困る。だからあなたは、そのことを思い出させてる」


俺は少し考える。

「……たぶん、そうだ」


ラヒーマは布を横に置く。

「天のこと?」


俺は少し首を振る。

「名前は出してない。でも、たぶん、そこを指してる」


ラヒーマは少し黙る。それから聞く。

「続けるの?」


俺は灯を見る。

「……たぶん続ける。明日も言うかは分からないけど、やめる気はない」


ラヒーマは小さく笑う。

「そう思った。なら、もう寝なさい。朝早いでしょ」


「……ああ」


灯を落とす。闇が広がる。外で風が動く。俺は横になる。体は疲れている。だが、昼とは違う重さだ。考えはまとめない。結論も出さない。ただ、そのまま目を閉じる。


そして、朝が来る。


音が戻る。水を汲む音。籠を引く音。足音が重なる。同じ道。同じ場所。同じ並び。俺は刃を置く。縄を整える。手は迷わない。昨日の続きを、そのまま拾う。体が、もう順を覚えている。


桶を抱えた男が声を飛ばす。

「ノア、今日は早いな」


桶を肩で持ち直す。

「まだ日も高くないのに、もうそこ立ってるじゃないか」


俺は縄を引いたまま短く返す。

「……ああ」

結び目を締める。

「目が覚めただけだ」


男は笑う。水桶を地面に置く。

「そうか。まあ早い分には助かる。あとで水汲み一回手貸してくれ」


「分かった」


水が汲まれる。籠が動く。声が、仕事の合間に流れる。俺は少し声を落とす。

「……なあ」


桶を持ち上げた男が、振り向かないまま返す。

「なんだよ。今日は朝から静かじゃないな」


俺は縄を結びながら続ける。

「もし、日が昇らなくなったらどうなると思う?」


一瞬、手が止まりかける。すぐに笑いが出る。籠を担いだ男が肩を揺らす。

「なんだそれ。急にどうした」


別の男が肩をすくめる。

「お前そんなこと考えるやつだったか?」


また笑い。

「ノアって、昔から黙って働くやつだったろ」

「そうそう」


縄を引く男が歯を見せる。

「急に先生みたいなこと言い出したな」


俺は続ける。

「俺たちは、明日も日が昇ると思って動いてる。でもそれ、俺たちが決めてるわけじゃないだろ」


桶を置いた男が空をちらっと見る。

「まあ、そうだな。俺たちが太陽引っ張ってるわけじゃない」


別の男が笑う。

「そんなことできたら楽だな」


作業は止まらない。水が運ばれる。籠が置かれる。俺は縄を引きながら続ける。

「この畑さ」

縄を引く。

「俺たちだけでここまで来たと思うか?」


籠を持った男が首を振る。籠を下ろす。

「いや、そりゃ無理だろ。雨が来なきゃ土は乾くし、芽も出ない」


俺は縄を締める。

「だろ。でも俺たち、雨を呼んだ覚えはない」


男が笑う。

「呼べるならとっくにやってる」


別の男が桶を持ち上げる。

「まあでも、だいたい来るだろ」


昼になる。影が短くなる。水の音が少し重くなる。桶を運んでいた男が額を拭く。

「今日は暑いな。昼前でこれか」


俺は水を汲みながら聞く。

「もし水が急に止まったら、この村何日持つと思う?」


男が顔をしかめる。

「また始まった」


別の男が振り向く。

「お前、最近ずっとそんなこと考えてるのか?」


籠を担いだ男が笑う。

「昔からそんな顔してたか?」


別の男が縄を引きながら首を振る。

「いや。あいつ前はほとんど喋らなかったぞ」


少し間。俺は手を止めずに言う。

「ただ最近、思っただけだ。俺たち、生きてるって思ってるけど、結構、手の外にあるものに頼ってる」


誰かが鼻で笑う。

「そりゃそうだろ」


別の男が籠を担ぎ直す。

「でも、それ考えても腹は減るぞ」


籠を持ち上げながら、年上の男がぼそっと言う。

「まあ、俺たちは種は蒔ける。でも芽を出すところまでは手は届かんだろ」


夕方。声が少し低くなる。籠を運んでいた男が肩越しに言う。

「ノア、今日も同じこと言ってたな」


別の男が笑う。

「まあ、あいつ最近ちょっと変だよな。前は一日黙ってても平気だったのに」


俺は縄を巻きながら答える。

「同じ話だ」


男が肩をすくめる。

「まあ、考えるのは悪くないさ。でも畑は明日も耕さなきゃならん」


同じだ。同じ場所。同じ仕事。だが、俺の中では問いが少しずつ位置を変えていく。どこまで続ける。これは、数の話か。同じ言葉を、また置く。それを、どこまで続けるのか。答えは、まだ探さない。今は、そのときじゃない。やり方も、変えない。変える理由が、まだない。


夜になる。灯が置かれる。籠を下ろした男が声をかける。

「ノア、明日もまたその話するのか?」


俺は縄をまとめながら短く返す。

「……ああ」

それだけで、十分だ。


朝が来る。


また立つ。話す。待つ。また話す。まだ、それ以上のことは起きていない。だが、忍耐はもう始まっている。名もなく、数えられず、ただ静かに続く。


それでも、世界の速さは変わらない。村は動いている。子どもが走る。転んで、笑って、また立つ。誰も空を見ない。荷が運ばれる。値を呼ぶ声が交差する。取引は止まらない。


今日は、昨日の続きを終わらせる日だ。


雨が来る。短く。それで足りる。地面は吸う。水は残らない。畑は色を保つ。芽が、少しだけ進む。何も壊れていない。


俺は端に立つ。邪魔にならない距離。呼ばれれば動ける場所。手は空いている。だが視線だけが忙しい。


この村は、うまく回っている。水が来る。日が出る。風が通る。人は、それに合わせて動く。だが、それに合わせていることを、誰も数えていない。


壊れていないから忘れる。頼っているから気づかない。雨は降る。日は昇る。水は流れる。すべて「当たり前」で済まされている。


当たり前じゃない。そう言いたくなる。だが、まだ言葉にならない。


俺がしているのは、終わりを告げることじゃない。壊れる前に叫ぶことでもない。この村を支えているものを、思い出せ、と言っている。


だが、その言い方を、まだ持っていない。


子どもが呼ぶ。母親が応える。笑いが返る。籠が空になる。別の籠が満ちる。雨雲は流れていく。空は割れない。


だから、誰も立ち止まらない。見えないものの上で、すべてが動いている。立ち止まる理由が、見えない。


そこで、ようやく分かる。警告とは、未来を脅すことじゃない。今を見直させることだ。


だが、その言葉を、まだ知らない。


分からないまま、同じ場所に立つ。同じ言葉を使う。同じ問いを置く。


村は今日も動く。俺も、その中にいる。


壊れていない世界の中で、忘れられているものだけを、静かに指さしながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ