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第34話:届かぬ言葉

人の声が重なる。切れ目はない。だが、うるさくもない。


誰かの言葉の上に、別の言葉が乗る。終わる前に、次の声が来る。


ここでは普通だ。ここは、いつもの場所。通り道。


作業の途中で、人が足を止める。呼ばれたわけじゃない。止まる理由が、そこにあるだけだ。


俺は荷を持っている。特別な用じゃない。頼まれた物を運んでいるだけだ。


肩の重さも、いつも通り。重すぎない。軽くもない。


足元は踏み慣れている。石の並びも変わらない。欠けた角。少し高い縁。


ここに来る理由を、考え直すこともない。


横から声が流れる。

「それ、先でいいか?」

「いい。後で回す」


別の方で木が擦れる。籠が地面に置かれる。少し遅れて笑い声。俺は、その中にいる。端でもない。真ん中でもない。邪魔にならない場所だ。立っているだけで、視線から外れる。だが、離れてはいない。


――人々を、警告せよ。


言葉は形を取らない。声にもならない。ただ浮かぶ。浮かんで、消えない。胸に引っかかるわけでもない。押してくる感じもない。ただ、そこにある。


だが、今すぐ口に出す理由もない。誰もこちらを見ていない。呼ばれてもいない。立ち止まる流れでもない。人の視線は、それぞれ別の所へ向く。手元。籠。地面。


俺は荷を下ろす。音は他と混ざる。特別には聞こえない。置いた、という感触だけ残る。それ以上は何も起きない。


周りを見る。顔ぶれは知っている。声も分かる。誰がどんな調子で話すか。どれが冗談で、どれが確認か。


誰かが手を止める。ほんの一瞬。だが、すぐ別の声が入る。その間に、小さな隙間ができる。


――まだだ。


考えたわけじゃない。選んだわけでもない。ただ、流れが続いている。


――人々を、警告せよ。


言葉は待っている。急がない。押してもこない。命じられているのに、急かされない。


俺は、そこに立ったまま、次の動きを探す。視線じゃない。場の流れだ。誰かが近づく。荷の話。作業の順だ。


男が籠を指す。

「ノア、それ頼めるか。こっち今手が詰まってる。先にそっち運んどいてくれると助かる」


俺は頷く。

「ああ。いい。どこまで持っていく」


男が通りの奥を指す。

「奥の端でいい。そこ空いてるだろ。あとでまとめて並べる」


「分かった」


動きながら、周りの音が少し整う。重なっていた声が、元に戻る。話が終わる。笑いが落ち着く。ほんの短い沈黙。


――人々を、警告せよ。


言葉は、そこにある。だが、まだ置かれたままだ。俺は視線を上げない。呼吸も変えない。待っているわけじゃない。だが、流れが、わずかに緩む。次は、言葉の番だ。


……ただし、まだここじゃない。


俺は動かない。場所も越えない。いつもの場所は、そのままだ。人の流れも。声の重なりも。変わらない。その中で、俺だけが次へ進む準備をしている。まだ、言わない。


……そう思っていた。


人の声が少し途切れる。完全には止まらない。籠が置かれる。手が離れる。誰かが短く息をつく。流れが、ほんの一拍だけ緩む。その間に、言葉が前に出る。出そうとして出したわけじゃない。待っていた感じでもない。ただ、そこに来た。声は上げない。身体の向きも変えない。


「……言われたことがある。前に。伝えろって」


自分の声だと分かる。だが、少し遠い。近くの二人が手を止める。完全には止めない。顔だけ向く。


俺は続ける。同じ調子で。

「……このままじゃ、よくないらしい。何か、大事なことを伝えろって」

誰かが瞬きをする。もう一人が眉をわずかに上げる。俺は、その反応を見ない。

「……人々に知らせなきゃいけないことがある。そう言われた」


声は、作業の音に混ざる。消えきらない。だが、広がりもしない。

「……え?」


返事は問い詰める調子じゃない。ただ、聞き返した。俺は何も足さない。視線も上げない。男が少し首を傾ける。

「言われたって……誰にだ?」


もう一人が半歩寄る。近づいたというより、位置を確かめただけだ。俺は頷く。

「……ああ」


それ以上、続けない。言葉は、もう出した。繰り返す理由はない。空気が揺れる。風じゃない。人の気配だ。重なって、すぐ落ち着く。


誰かが鼻で短く息を出す。笑いそうになる前の癖だ。

「ノア……」


名前だけが呼ばれる。続きは、出ない。


俺は、立ったままだ。姿勢は変えない。手も動かさない。引き留めもしない。


言葉は出した。出し切った。あとは、受け取られるかどうかだ。それは、俺が決めることじゃない。


作業の音が戻る。完全ではない。だが、止まってもいない。籠がまた動く。木が擦れる。誰かが別の話を始める。


俺は、もう一度息をする。深くはしない。言うべきことは言った。それ以上は、今はない。


音が止まりきらない。だが、揃いもしない。


籠を持っていた手が止まる。完全には下ろされない。途中の高さで残る。置くか。


――まだか。


誰かが瞬きをする。もう一人が鼻から短く息を出す。誰も声を荒げない。誰も離れない。


世界は続いている。ただ、少しだけ噛み合いがずれる。


俺は待つ。次の言葉は探さない。言い直しもしない。付け足しもしない。


もう出した。今は、それがどうなっているかを感じている。


胸の前にある感じはしない。押し返されてもいない。背中に回ったわけでもない。ただ、空気の中に置かれている。


これで終わりか。


問いというほどじゃない。考えたわけでもない。浮かんだ。


返ってくるものは、まだ決まっていない。期待もしていない。


音が戻る。木が擦れる。布が引かれる。誰かが足を踏み替える。


話し声がひとつ。続いて、もうひとつ。さっきと同じ調子だ。声の高さも変わらない。


俺の周りだけが、少し軽い。重さが消えたわけじゃない。なくなったわけでもない。ただ、覆っていたものがない。晒されている。


力を入れたわけでもない。構えたわけでもない。それでも今の俺は、何かを持ったまま立っている。


誰も指を差さない。誰も距離を取らない。それが、少し遅れて効いてくる。


拒まれていない。だが、受け取られてもいない。


宙に置かれた言葉。そこに立つ俺。どちらも、まだ動かない。


もう一度、息をする。今度も深くはしない。


胸に残っているのは、達成感でも後悔でもない。手応えがない。


待つしかない。


「……ノア?」

近くから声。

「どうしたんだ、急にそんなこと言って」


籠を持っていた男が腕を止める。俺は視線を上げない。小さく息を吐く。

「……分からない」

短く言う。それから続ける。

「分からない。ただ……お前らに何か伝えろって言われた」


二人が顔を見合わせる。

「伝えろって?」

「誰にだ?」


俺は肩をわずかに動かす。

「……知らない。ただ、お前らに警告しろって」


小さく笑いが漏れる。

「はは……ノアらしくないな」

笑いは途中で止まる。

「でもお前、そんな冗談言う奴じゃないだろ」


別の男が口を挟む。

「いや待て、ノアがこんなこと言うの初めてじゃないか? あいつ普段ほとんど喋らないだろ」

「そうそう、あいついつも聞いてるだけだろ。自分からこんな話出すの見たことないぞ」

「急に預言者みたいなこと言い出してどうしたんだよ」


軽く肩をすくめる。俺は首を振る。

「預言とかじゃない。ただ……言われた」


「だから誰にだよ」


「分からない。ただ、伝えろって。それだけだ」


男が籠を地面に置く。

「……疲れてるんじゃないか」


別の声が重なる。

「最近ずっと働きっぱなしだろ、お前」

「そうそう、お前ここ何日も休んでないだろ」

「顔見りゃ分かるよ、頭回りすぎてる顔だ」

肩を叩かれる。

「今日は早く休めよ」


別の男が笑う。

「また考えすぎだろ。ノアは昔からそうだ」

「真面目すぎるんだよな」

「前からだろ、それ。黙って仕事して、たまに急に難しい顔する」


半分笑い。空気が少し緩む。俺は少し肩を動かす。

「……考えすぎかもしれない。でも、もし本当なら……言わなきゃならない気がする」


誰かが眉を上げる。

「本当って、何がだよ」


俺は首を振る。

「それも分からない。ただ、このままだとよくないって」


誰かが肩をすくめる。

「そりゃこの世はいつもそんなもんだろ」

「何か起きるってことか?」


「分からない」

俺は同じ言葉を繰り返す。

「分からない。ただ……警告しろって」


また短い沈黙。それから誰かが息を吐く。

「ノア」

少し低い声。

「今日は休め」


別の男が続ける。

「そうだな。頭使いすぎだ」

「変な夢でも見たんだろ」


笑いが少し混じる。

「いやでもさ、ノアがそんなこと言う奴じゃないだろ」

「だから余計なんだよ、あいつ普段無口だろ」

「そうそう、あいつが自分から話す時って大体何か変なこと考えてる時だ」


肩を叩く音。

「今日は早く切り上げろ」

「そうそう」


一人が籠を持ち上げる。

「で、これどこ置く?」

「端でいい」

「了解」


布が引かれる。木が擦れる。作業が戻る。少しして、また声。

「ノア」

俺は顔を向けない。

「無理すんな」


それだけだ。俺は小さく頷く。

「……ああ」


それで終わる。言葉は、もう誰の手にもない。拾われてもいない。投げ返されてもいない。ただ、そこに残っている。


俺だけが、それを拾えずに立っている。拒まれたわけじゃない。受け取られなかっただけだ。その違いが、ゆっくり胸に落ちてくる。


作業の音が戻る。完全に元の調子だ。世界は何事もなかったように進んでいる。俺も、その中に立っている。ただ、さっきより少し裸だ。その感触が、遅れて言葉になる。


宙に置かれた言葉は消えたわけじゃない。ただ、別の形で扱われている。忙しさ。年。疲れ。どれも、人を困らせない理由だ。


俺の顔を見ないまま作業を続けながら、理由だけが場に置かれていく。笑いも混じる。短く。軽く。場は、きれいに整えられる。


ああ、そうか。そこで、はっきり分かる。聞こえなかったわけじゃない。聞き取れなかったわけでもない。彼らは、俺の言葉を受け取った。ただ、そのままでは受け取らなかった。別の意味に変えた。扱いやすい形にした。


それは、突き返されたわけじゃない。追い出されたわけでもない。むしろ、いつもの暮らしを守る動きだ。


俺の中で、言葉が一つ浮かぶ。違う。理由じゃない。言い訳でもない。今なら、まだ言える。付け足すこともできる。言い直すこともできる。誤解だと、言うこともできる。


胸の奥で息が少し前に出る。声になる前の動きだ。だが、そこで止まる。


止めたのは恐れじゃない。諦めでもない。分かったからだ。ここで言い直せば、話し合いになる。理由を出して、理由が返る。どちらが正しいか並べることになる。


そうなれば、無理しなくていい。もう、それ以上は言われていない。伝えろ、と言われた。細かく話せ、と言われたわけじゃない。分からせろ、とも。勝て、とも。


もう一度、息を吐く。深くはしない。言い直さない。それが、今の自分には一番動かない位置だ。


言葉は、もう俺の手を離れている。拾い直すことはできる。だが、今はしない。もう一度言うことはできる。だが、ぶつかる時じゃない。


それだけが、静かに残る。


作業の音が完全に戻る。布が擦れる。木が鳴る。水が流れる。世界は、元の速さで進み始める。


俺も、その流れの中に戻る。ただ一つ、言葉を引き戻さなかった。それだけが胸の奥に残っている。


少し離れたところから声が飛ぶ。

「で、これどうする? さっきのまだ運ぶのか、それとも先にそっち片付けるか」

「そっち先でいいだろ」

「はいよ。じゃあ俺こっち持つ」


差し出された籠を受け取る。見なくても、重さで分かる。少し片寄っている。底に手を回し、持ち替える。いつもの動きだ。

「ノア、そっちは後でいい。今はこっち先に運んどいてくれ」

「分かった」


理由は聞かない。木が地面に置かれる音。縄が引かれる音。誰かが軽く咳払いをする。音は途切れない。

「昼どうする? そろそろ一回休むか、それとももう少しやるか」

「まだいい。これ終わらせてからでいいだろ」

「だよな。今止まると逆に面倒だ」


笑いがひとつ混じる。向こうで布が広げられる。

「それ日当たってるぞ」

「じゃあ少し寄せるか。片側だけ乾く」


布が引き直される音。

「ノア、これ頼めるか? こっち今手が足りない」

「……ああ」


返事をして動く。距離は近い。呼び方も変わらない。

「終わったらそれまとめといてくれ。後で一回全部運ぶから」


顎で籠を示される。

「了解」


少し向こうで笑い声。

「それさっきの並びと逆じゃないか」

「いいんだって。どうせ後で直すだろ」

「まあ、そうだけどな」


俺は籠を置く。音は軽い。中身が減っている。背中越しに声。

「助かった。そっち一人じゃ回らなかった」


俺は小さく頷く。水の音が続いている。布が擦れる。木が鳴る。誰かがまた声を上げる。

「それ終わったら次こっちな」

「分かった。今持ってく」


仕事も会話も、同じ速さで進んでいる。さっきの言葉は、もう誰の動きにも触れていない。俺も、その流れの中に戻る。戻れてしまう。問題なく。


それが分かる。世界は、何も壊れていない。それが分かるぶんだけ、胸の奥の重さが、少しずつ増していく。だが、それを口に出す理由は、まだない。


今日の作業は続く。それだけだ。


手を止める。息を一つ整える。一段落したところで、少し場所を外す。逃げるほどじゃない。ただ、音が重ならない位置だ。


水は同じ速さで流れている。近づいても、遠ざかっても、変わらない。さっきまでの声は、距離のぶんだけ薄くなる。


手を洗う。指の間の土が落ちる。水は冷たすぎない。昼の水だ。


問題は起きていない。言葉を投げて、怒鳴り返されたわけでもない。笑われたわけでもない。背を向けられたわけでもない。


だから、掴みにくい。胸に残っているのは拒まれた形じゃない。拒まれるなら、線が引かれる。今あるのは、線が引かれなかった感触だ。


手を拭く。布は少し湿っている。まだ使える。


聞かれた。確かに聞かれた。耳には届いた。意味も通った。ただ、次の動きにつながらなかった。


石に腰を下ろす。座り心地は、いつもと同じだ。変わったのは場所じゃない。


息をする。深くはしない。怒りはない。悔しさも、はっきりしない。間違えたとも思っていない。


それでも、何も起きなかったという事実だけが、遅れてくる。反応がないという反応。声を荒げられるより、背を向けられるより、ずっと静かだ。


だから、時間がかかる。


胸の奥で、形にならない重さが居場所を探している。形にしようと思えばできる。だが、今はしない。


形にすれば理由が生まれる。理由が生まれれば、次の言葉が出る。まだ、そこじゃない。


向こうで誰かが笑う。別の誰かが呼ぶ。作業は続いている。


俺は立ち上がる。戻ることもできる。戻らなくても困らない。どちらでも、世界は同じ速さで動く。そのことだけが胸に残る。


今日はここまでだ。決めたわけじゃない。身体がそう動いただけだ。


道具をまとめる。順番は変えない。言葉は、もう言った。次に言うことがあるかどうかは、まだ分からない。


だが、今は一人でいい。それだけで十分だ。


刃を布で包む。角が引っかからないように。縄を同じように巻く。結び目の位置も、いつも通りだ。


終わらせる動きじゃない。帰るための手順だ。いったん手を止める動きだ。


だが、片付けながら、胸の奥に何かが残っている。消えない。大きくもならない。ただ、動かない。


言ったことは事実だ。言わなかったことも事実だ。どちらも、取り消す理由はない。


水路を見る。流れは変わらない。水の高さも昨日と同じだ。岸の線も動いていない。世界は整っている。整いすぎているとも言える。


だから、次に何をするかは、世界の側からは見えてこない。自分の側にも、まだ形がない。


やめる、という選び方は、まだ置かれていない。だが、続けるやり方も、まだ見えていない。


それでも、「もう一度言うか」という言葉が、はっきり浮かぶこともない。浮かばないからといって、終わったわけでもない。


立ち止まる。一拍。二拍。足を前に出す。帰り道だ。


背後で誰かが呼ぶ。振り向かない。呼ばれていない。


笑い声が遠くで弾む。作業の音も、まだ続いている。


村は、いつも通りだ。それは責任を軽くもしない。重くもしない。ただ、そのまま残る。


今日はここまでだ。だが、ここで閉じるわけじゃない。言葉は、まだ使い切っていない。責任も、手元に残っている。


夜になれば朝が来る。朝になれば、また人が集まる。その中で同じ場所に立つかどうかは、まだ決めていない。


だが、立たないと決めたわけでもない。


まだ終わっていない。それだけが、残る。


世界は今日を終える。俺も、その中にいる。


次は、まだ決まっていない。だが、次がないとは思えなかった。

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