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プロローグ──そもそもの発端

読書会の話を書いてみようと思います。成功した読書会や失敗した読書会まで、いろんな読書会も書いていけたらと思っています。


どれぐらいの長さになるのかは一切不明。とりあえず書きたいだけ書いて満足するところまで書いたら終わらせる予定です。更新頻度も不明。

2014年5月10日 23;56 晴れ。

自分の中には二人の自分がいると思う。感情的に孤独や触れ合いを求め、怠惰さを要求する動物的な自分と、理性でもってそうした自分を説得し、行動を誘導しようとするおせっかいやきの姉だか兄だかが。そうした均衡の中でいつも私の思考はゆらゆらと揺れ動いて、安定するということがない。身体に思考が影響されるし、思うがままにことが進んだことなんてめったにない。だから今回のような、自分でも望んでいるのかいないのか、さっぱりわからない事態に巻き込まれていくことだって起こってしまうのだろう。私は今日読書会に誘われ、あれよあれよという間に参加することになり、楽しかったかつまらなかったかといえば、まあ、面倒なことにまきこまれちゃったなといったところだけれども、とにかくそれだけで終わる話ではなく、どうやら次もあればその次もあるらしい。目標であった四年間、誰とも付き合わずに、喋らずに、平穏に暮らそうという目的は早くも崩れ去ってしまった。どうしてこうなったのかを私は検討する必要がある。いつものように、ことの発端から考えなければならないだろう。


ことの発端はやはり私の大学生活の始まりと共にあったのだと思う。私は基本的にはあまり人とのコミュニケートを得意としないタイプの女だと思う。女子は面倒臭いけど男子は気楽だから付き合いやすい〜〜とかそういうタイプでもなく、もう、純粋に、人と話すことに嫌気がさしていたのだろう。小学校、中学校、高校と、延々と続いてきた箱庭のクラス制度に疲れ果て、とにかく大学に入ったらもう誰とも喋らずに過ごすのだと、そう心に決めて入学したのも今となっては懐かしい。大学にはクラスがなくて、だからこそ誰とも喋らずにいても「あいつは友だちがいないヤツなのだ」と後ろ指さされたり、ひそひそと噂をされずとも堂々と一人でいることができる。誰も私のことを知らないのだから、街で一人でコーヒーを飲んでいるのとなんら大差もないだろうと、そのように考えていたものだ。


もちろん、コレはある意味では惰弱な考え方だと思う。何しろ別に高校だろうが中学校だろうが、正々堂々と、後ろ指さされながら一人でいても、私は物理的にダメージを受けるわけでもなければ、気にしないという選択をとることによって精神的ダメージもかわすことができただろうから。でもそこまではできなかった。知っている人間に、友達がいない人間だと思われるのが嫌だったという、まあただそれだけの話ではあった。孤高をきどるのも、かといって孤高をきどるのを捨て去って誰かと積極的にコミュニケートすることもできない、宙ぶらりんな存在が、いろいろな意味での現在の私だといえよう。そうしたことは、認めたくなかったとしても、認めなければなるまい。


恐らく私にも人と話したいという欲求はあるのだろうと思う。そうでなければとっくに学校生活なんて破綻していたはずだし、それに高校生活の友人付き合いも、疲れはしたけれども、今となっては悪いものではなかったと思う。コストとベネフィット。私が人よりも人付き合いに払うコストが高い可能性はあるが、かといってベネフィットがないわけでもない。そこも、認めよう。問題は私が「人と話したくない」と考えていることそれ自体が、自分で自分をすらだます「変人になりたい」欲求と無縁の、本当の自分の考えなのか否か、にあるのだと今は考える。ひょっとしたら、ただただいい年こいた女子が、彼氏も友人もつくらずに一人で誰とも付き合いを継続させないことを「かっこ良い」などと考えている自分はいないか? でも、こんなことを自問できている時点で、実際にそうである可能性は相当低いような気もする。


いかんいかん、こんなことを延々と考えているから私の日記はいつも長くなるのだ。実際、毎日の日記はとても日記とは思えないような長さになってしまっている。あまりに赤裸々に自分の考えを書いているから、とてもじゃないが他人には見せられない。まるで自分をがばっと切り開いて中をじっくりと観察されるようなものだ。とっとと本題に入って、寝なければ、また明日の一限の授業に遅刻してしまう。いっそのこと、日記という形式を破棄してみてもいいのかもしれない。小説のように、会話を交えて書いてしまう。それが実際に小説である必要はないけれども、これからのことを考えると、整理の為にも必要なような気もする。私はどちらかといえば現状の改善と、改善でなくとも変化を望んでおり、これがもはや日記ではない何かだというので、さらに私の生活の中心をなしているのであれば、そこに手を加えてみるのもいいだろう。


ことの発端はやはり私ではなかったともいえるし、私であったともいえる。大学生活といった、小学校以来伝統のクラス制度が破棄され、自由に授業をとれる形式がずっと望みだった。しかし大誤算として、クラス制度がないわけではなかった、というのはここに何度書いても書き足りないぐらいの衝撃だった。英語と、なんだかわからないレポートの書き方のような授業、それからいくつかの必修の授業で、少人数のメンバーが固定され、毎週毎週顔を合わせることになる。これはもうほとんど、学校のクラスのようなもので、ようやくあの忌まわしいクラス制度から逃れられたと思った私からすれば大誤算であった。


私は別に自分のことをいわゆるコミュ障であるとは考えていない。人当たりを良くすることはいくらでも出来、その気になればある程度のコントロールもきく。面白がって、反応を豊かにしたほうがよければできるし、その逆もまた然りだ。どこにおいても違和感のない小物みたいな存在で、極端な主張はしないものの、居てもおかしくはない存在になることができる──と個人的には思っている。問題はそれがひどく疲れることだろう。私は別に他人に成り代わったりすることができるわけではないから、毎日知らない人と話をしたり、知人とでも毎日会っておしゃべりをできる人たちがどの程度疲れているかはわからない。わからないけれど、私ほど体力を消耗させてそれをやっている人間はなかないないのではないかとも思う。


というわけで、クラスが存在していたのは純粋に驚きであったが、かといってこれが4年間続くわけではなく、1年間で解放されるのはまあ良かった。問題はここで一人を貫くか、あるいは高校の時と同じように、場繋ぎ的ではあっても、その場でやりとりを表面上はできる友人のようなものをつくるかどうかだ。つくれるのであればつくったほうがいいだろうけれど、こっちは「四年間誰とも話をしないぞー!」と気合を入れて大学に入ってきているのであって、いまさら方針転換をするのも心が折れる。結局、特に積極的に誰かに話しかけるのではなく、基本は無言で、話しかけてくる人間がいれば応対し、いなければもうそれはそれで仕方ない、そういう方針で行こうと決心した。


みな大学入学に夢を反映させてきた学生だったし、おそらくは私みたいに「ノーフレンド戦略」を心に抱いて入ってきた人間は、そうはいないのであろう。みな積極的に言葉をかけあい、なんだかとても仲が良さそうに見える。私のように自分から積極的に話しかけていかない人間にも暖かく声がかけられ、特に居場所がないと感じることもない。なかなか気安い人達だ。この点はまあよかった。とても人付き合いが楽しく、なんとかして仲の良い人間をつくり、大学生活をエンジョイしようとする根本的な姿勢の部分でソリが合わないが、そんなことをとやかく言っても仕方があるまい。彼ら彼女らと、話をしたいとは思わないが、かといって大学にくるのが嫌になるレベルでもない。


こうやって当たり障りもなく、日々を過ごしてなんとか一年切り抜けられたら──。しかしクラスであるということは狭い教室に押し込められるということであり、英語の授業でもレポートの授業でも、自由席になる。そこで、みな基本的にはそれなりに仲の良いクラスの中、さらに中の良い、休日遊びにいっちゃうような人たちが固まることになる。私自身は積極的に誰とも関わっていないから、余った席、できるだけ端っこの席にいるのが常套だったけれども、ペアで行う授業も多く同じく若干、馴染み切れていない子と隣り合うことになった。


彼女の名前は山口涼子という。基本的にテンションが高く、極端に変な行動、言動をとるわけではないのだけれども、特に誰とも親しくなるわけでもなく浮いていた。持て余されているというわけでもなく、自然に空気からいなくなっているような感じ。話しているととてもテンションは高いのだが、なぜか目立たない。私達も別段、友達になろうね、とか仲良くしようね、といった気色悪いことを言い合ってこうして席が隣り合うことが多くなったわけでもなく、自然の摂理、エントロピーが常に減少していくのと全く同じように、ペアになっていたというだけのことだったが、彼女とはそれなりに気が合い、それ以上に話が合った。


というのもそれは私達が共に「本をよく読む」という共通点があったからだろう。私も小学生の頃から文学から歴史物、果ては生物学などのノンフィクションまで幅広く読んできたけれども、そうした読書遍歴は彼女とそこまで重なるものではないものの、同じようにどちらかといえば日陰を好むものとして波長はあったのだろう。このご時世、本をよく読むと言ってもマンガか、もしくはライトノベルをたくさん読むような人ばかりで、司馬遼太郎や指輪物語のような本の話をぽんぽんと出来るわけではない。

「ドストエフスキーって読んだことある? カラマーゾフとか?」と山口涼子が言う。

「読んだことないなあ。長いし、古臭いし」私はあまり古典文学、それもロシアなど世界文学の方に手を出した経験が少なかった。彼女はどちらかといえばそちらに造詣が深いようだった。

「カラマーゾフは凄いよ。カラマーゾフって、カラマーゾフの兄弟のことね。もうね、特に大審問官のシーンが凄いわけ。全体を読まなくてもいいから、とりあえずこれだけでも読んで欲しい。イワンがアリョーシャに向かって、とうとうと神がいかにダメなやつか、人間はパンのみにて生くるにあらず、ってなんじゃそらあ! 神の子なのになんで奇跡が起こせないの? ねえなんで? ってね、もうこう、なんていうの? 猛然とね、無神論を並べ立てていくのよさ。ジャンプのバトル漫画みたいに、技名を叫んで敵に攻撃を叩きつけるみたいに!」

「そ、そうなんだ……」

彼女のテンションの高さにはついていけないことが多かったけれども、とにかく彼女が語る本の話はそれがけなすにしろ褒めるにしろ常にどこかしら斜めにみるようなおかしさがあって、読みたいと思わせるものが多かった。私も負けじと自分の好きな本について、あれは読んだことがあるか、これは読んだことがあるか、と語りかけるのだけど、こうしたやりとりを通じて私の中での「四年間誰とも喋らない計画」は早くも崩壊していくことになる。


大学における唯一の友達と呼べそうな関係が出来てから1ヶ月のこと、というか今日(5月10日)だけれども、たまたま取得している授業の時間が同時に終わり、大学から駅まで歩いている時に彼女、山口涼子から一つの提案がなされた。会話を要点だけかいつまんで書くと、だいたい次のような流れだった。

「この前ね、貼り紙を見て、出山先生のところに行ってきたの」と彼女が言う。

「それ、だれ? 貼り紙?」

「経済学の先生。貼り紙はね、読書会のメンバー募集でね。ようはサークル募集みたいなもんだと思うんだけど」

「ふうん」あまり興味がなかった。サークルに入るなんていう発想が全くなかったから、そうした貼り紙にも一切目を向けていなかった。それにしても彼女はあんまり目立たなかったり、普段はおとなしくしているくせに妙なところではアクティブになるな、と自分と似ているようでまったくの別人種を見るような感じで彼女をしげしげと眺める。

「それでね、いざ言ってみたら出山先生しかいないわけ。あの、教授棟の、部屋の前のフリースペース、ソクラテスの部屋に集まったんだけどね。見事に私と出山先生の二人っきり。」

それはまあ、なんとも残念なことだ。どうでもいいけれども我が私立K大学ではフリースペースに著名な学者の名前をつけている。ソクラテスの部屋と聞くと極端にいかがわしいか、極端にいかめしいか、特にろくな印象をもたらさないし、まるでギャグみたいだが、名称がちゃんと刻印されているのだから仕方がない。話しているとギャグのように聞こえてそれだけで面白いこともある。「今日四時ニーチェ集合なー」みたいなノリになってしまうのだ。それはまあいい。

「それで、読書会サークル? を二人で立ち上げるわけ? 先生と?」

「いやいや、そうじゃないよ。そこからが話の本題で、その時の議題は結局「どうやったら読書会のメンバーを集められるか」だったわけ。それで私もいろいろと提案をして、とりあえずお互い心当たりをあたって勧誘してみようということになったの。だから、一緒にやらない?」

「うーん、読書会かあ……」

読書会、そんなものがあるのだと、言葉としては知っていても自分が関わることがあるとは想像もしていなかった。本を読むのはとても個人的なことで、一人でできることが私にとっては重要なポイントだった。本を読んでいれば他人と話さなくても楽しいし、いくらでも引きこもっていられる。他人と話さなければ、面倒臭いことも起こらないし、私は椅子から一歩も離れることなく笑ったり、泣いたり、怒ったり、震えたりすることができる。本とは私にとっては「一人で生きていくための手段」であったのだと思う。手段? 生きがいだったかもしれない。本を読むという、一人だからこそできる、非常にシンプルな趣味があったからこそ、私はここまであまり人付き合いに熱心にならずにすんだのだ(あるいは、人付き合いがもともと苦手だったから、本を読むという趣味を獲得したのかもしれない。そこは曖昧だ)。だから私にとっては読書=一人の象徴、のようなものだった。読書会は、そうした一人でいられる、一人でいるべきだという私の中にある象徴性を破壊するものだろう。


そう難しく考えなくても、そもそも人付き合いが苦手で、本の話もたまにこうやって山口涼子とするぐらいならいいけれども、不特定多数の人間と関わり合いを持つようになってしまうのは、根本から大変だ。できれば、関わりたくない──という気持ちと同時に、しかし、自分の中には参加してみたい、と思う自分もいるのだった。こういう時に、自分の中には、二人の自分がいると思う。常にひとつの方向性で気持ちが固まっているわけではないし、常に分裂しているわけでもない。そのもうひとつの自分は、参加してみればいいじゃん、このままほとんど一人っきりで、1年間が終わって、本当に一人ぼっちで過ごすのは、それはそれで寂しいんじゃないのと思うかもしれないよと言っている。

「ちょっと、考えさせて。決めたらLINEおくるから」

「りょーかい。そんな深く考えるようなことかなあ?」

こうした決断ひとつとっても、人によって重みはまったく異なるんだろう。脳天気そうにアクティブに活動している彼女をみているとそう思う。そう言って駅につき、彼女とは別れてしまったが、まだ悩んでいる。読書会サークルかあ……まだサークルといえるほど人数も揃っていないし、これから揃うのかどうかも怪しいけれど、ここで一つの態度の決定を迫られるのだろう。いや、そもそもこんなに悩むこと自体──


結局のところ、私は臆病なのだろう。他者と関わることの不確定性、不安定さにおびえている。でもそれが悪いことだとも思わない。先がわからないのは、誰だって怖いものだろうから。自分の考えの整理のためにここまでだらだらと書いてきたけれども、私は彼女に「参加するから、今度話聞かせて」とLINEをおくる。人と関わり合いたくないという自分と、読書会ってなんだろう、どんなことを人は話すのだろうという好奇心、どちらも、今は拮抗しているけれど、今回は好奇心が恐怖を上回った──、そういうことにしておこう。


すぐに「明日、ていうかもう今日だけど、英語の時間の後に行こうか」と返事が帰ってくる。「了解」と返し、今日はもうこの日記(ではなくなった何か)を終了させようと思う。ここから私、多根崎美咲の読書会が始まるのであった──、始まるよね?

このあとがきゾーン、使い道がよくわからないのでその時々で出てきた本をピックアップしていこうと思います。今回はプロローグなので軽いジャブ、だがいきなり本としては重たい『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキーですね。恐ろしい、難しそうと敬遠されがちなドストエフスキーですが本人は本物のキチガイ、書かれたものは発狂した人間が転げまわるような勢いでわけのわからない理屈を並べ立てる、思想バトルになっておりどれも最高に面白いのでオススメです。


話に出てきた大審問官の部分はネットでも読めるみたいです。検索してみてください。



ではまて次回。

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