神は狡猾だが悪意は無い……たぶん
スーパーで手巻き寿司の材料を買いアパートに戻った僕らは、早速夕飯の準備に取り掛かった。準備と言っても酢飯を作る事ぐらいだったが。
「それで由宇作はお風呂に入らないんですか? せっかく沸かしたのに冷めちゃいますよ?」
「今日は手巻き寿司食べてからでいいよ」
ちゃぶ台の上に並べられた手巻き寿司の材料を、虎視眈々と狙っている上様の様子を窺いながら、僕は答えた。もし僕が今風呂に入ったら、このちゃぶ台の上は、イナゴの大群に襲われたかのような有様になるであろう事は、容易に想像出来た。
「そうですか。ガス代勿体無いですね」
未練がましく彼女は言った。
「この季節になるとお風呂も案外冷めにくいんだよね。それに僕はぬるめの風呂に入るの好きだし」
そうは問屋が卸さないぞと思いながら、僕は答えた。何しろ久しぶりの手巻き寿司だったので僕も必死だった。
「じゃあじゃんけんしましょうよ、じゃんけん」
「へ?」
「だからじゃんけんで順番決めるんですよ、手巻き寿司食べる順番を」
「別にわざわざじゃんけんやらなくたって。半分ずつ分ければいいじゃん、折角の御馳走なんだし」
「分かってませんね、由宇作。折角の御馳走だからこそ、スリルとサスペンスが必要なんですよ」
この四半世紀の人生の中で、そんな話は未だかつて聞いた事が無かった。
「じゃあ行きますよ。じゃんけんぽん」
有無を言わさず彼女はじゃんけんをスタートさせた。
しかし皮肉にも勝ったのは僕の方だった。
「じゃあ、お先に頂きます」
そう言うと、僕は海苔に酢飯と具を載せて巻いて食べた。確かに彼女の言う通り、スリルとサスペンスは久しぶりに食べる手巻き寿司の味を格別なものにした。
「じゃあ次行きますよぉ……」
そして次のじゃんけんも又僕が勝った。その次もその又次も……自分でも怖くなるくらい僕はツキまくっていた。
正面を見ると彼女が目を真っ赤にしていた。
「僕はもうお腹いっぱいだし、後は上様全部食べていいよ」
「いいんですよっ。私、大家さんなんですからっ」
よだれを垂らしながら涙目でそう言われても、全く説得力が無かった。
次の日、当然ながら僕は仕事に行った。しかしそこで思わぬ事態が待ち受けていた。派遣会社の担当者に呼び出された僕は、突然クビを言い渡された。僕が会社に重大な迷惑を掛けたとの事だった。
勿論納得のいかない僕は、具体的にどんな迷惑を掛けたのか聞き出そうと食い下がった。担当者は渋々答えた。それによると、僕が会社のコンピューターにハッキングして、機密事項を外部に漏らしたとの事だった。幸い会社の顧問の尽力で大事には至らなかったらしい。
勿論僕には全く身に覚えの無い事だった。そこで僕はそんな筈は無いと食い下がった。しかし担当者は証拠なら有ると言い、刑事告発されないだけ有難いと思えとも付け加えた。更に訳知り顔で、これ以上両親に迷惑を掛けるなとも言われた。両親への生活保護が打ち切りになってもいいのかと。会社の顧問をしている元高級官僚に根回しをして貰えば、そんな事は容易いと。ハッキングでその顧問にも迷惑が及んだのだからと。僕は両親が生活保護を受けていた事を、その場で初めて知った。
かつて、名の知れた大きな会社に勤めていた父は、業績悪化に伴う人員整理で退職に追い込まれた。割増の退職金と引き替えに。
リストラされた父は、退職金を元手に実家を改装してコンビニ経営を始めた。しかし経営はうまく行かず、廃業した時には実家も手放さざるを得ない状況だった。それでも借金はまだ残り、自己破産。生活を再建しようと必死に仕事を探したが、50代後半の両親を雇うような所を見つけるのは、困難を極めた。
しかし何とかパートやアルバイトを見つけ、かつて実家が在った所から少し離れた場所にある、公営住宅に入居して暮らしていた。そして近所に格安で畑を借り、野菜を作って食費の足しにしていた。僕の所にも時々野菜が送られて来るので、何とか無事に暮らせているんだとてっきり思っていた。
しかしそれは、両親が僕に心配を掛けまいとして、吐いた嘘だと言われた。本当は仕事もすぐに失い、生活保護を受給して何とか暮らしている有様だと。
だから僕がハッキングして得た情報、会社が雇用保険からの助成金を不正に受けている事、その一部が元高級官僚である会社の顧問に、顧問料として還流されている、なんて事をネットに流しでもしたら、どうなるか良く考えるようにと釘を刺された。
一体誰の仕業なのか知らないが、とんでもない事をしてくれたものだ。しかも僕の名を騙って。
ともあれ両親の今後の生活が人質に取られている以上、僕も迂闊な事は出来ない。悔しいが会社の言い分を飲むしかなかった。
問題は僕のこれからの生活だ。衣食住のうち住む場所に関しては、幸い上様のおかげで何とかなる。しかし食が大問題だ。あの宇宙人との契約で、家賃の代わりに食事を提供する事になった。しかしあの大食漢相手では、食費も馬鹿にならない。ともあれ一刻も早く、新しい仕事を見つけなければならない。居ても立ってもいられない気分の僕は、担当者が用意した書類に、言われるがまま署名すると、荷物を纏めて職場を後にした。
急な出来事に狐につままれた様な感覚だったが、昼前の人影のまばらな駅のホームで、椅子に座り電車を待っていると、急に絶望感が襲って来た。
食費や光熱費は勿論だが借金の返済も有った。コンビニ経営に行き詰った両親が、金策に駆け回っていた頃に、僕名義で作ったものだった。その当時、既に両親の名義では、どこからも借りる事が出来無くなっていた。しかし、そんな藁にもすがる思いで用立てた金も、経営再建には何の役にも立たず、あっという間に消えてしまった。そして月々3万円の返済が、延々と続く現実だけが残った。
なぜか涙が溢れて来た僕は、そう言えば上様も夕べ涙目だった事を思い出した。思えば昨日の夕飯が、人生で一番楽しかった事かも知れない。ふと視線を前方に移した時、最後の晩餐という言葉が頭をよぎった。更に前方に視線を移すと、反対側のホームに見慣れた姿が見えた。そして僕に向かって手を振った。
そして
「今そっちに行くから、電車に乗らないで待ってて下さいよっ!」
そう大声で叫んだ。
どうやら神は、僕が悲劇の主人公になるのを狡猾に邪魔する気らしい。




