追いかけられる僕と追い抱える彼女の出会い。あと裏切り者のあだ名は『ユダ』
追いかける彼女 1
紅葉が色づき始めて、散歩が楽しくなる季節になりました。
皆様におかれましては、お変わりなくお過ごしでしょうか?
こちらは芸術の秋という事で、毎日、音楽などを楽しんでいます。
楽しすぎて、私の周囲の状況が変わりまくってるくらいです。
まずもってあり得ない話ですが機会があれば、一緒にお散歩でもしましょう。
私は心の中で、秋の挨拶を誰に対してもなく呟く。心の声とは違い、散歩ではなく、息を切らせながら、夜の校舎を駆けていた。
下校時刻はとうに過ぎ、廊下の電気はすべて消え、私の事を断固として排除しようという固い意志が窺える。
廊下の窓からは、本来であれば淡い月明かりが差し込み、私の事をふんわりと包み込んでくれるはずだが、私の事が好きすぎて照れ隠ししているのか、私の事を唾棄するべき異物と判断したのか分からないが、月は顔を覗かせる気配はない。
どうせ後者なのだろう。
私が校舎を走っているのは、自棄を起こした末の癇癪だった。
一体に何がいけなかったのか、と私は自分に問う。
十月中旬に開催される『文化祭』その文化祭で私達『軽音楽部』はライブをする予定だった。すでに生徒会に出演届は出した。演奏をする数曲のリストも、だ。あとは当日までに、演奏する曲の音合わせをするだけだった。
だけど、まさかのユダがバンドの中から現れた。
「私、やっぱりこの曲は嫌。やりたくない」
バンドメンバーの一人が吐いた言葉がそれだった。何の脈絡もなく、まるで用意された台詞をなぞって唱えているような温度のない声で言い放った。
私を含めた残り三名のメンバーは、それこそ目を点にしてお互いの顔を見合わせ、再度そのユダという裏切り者を見て「「「え?」」」と声を重ねた。
記憶を辿れば辿るほど、混乱する。
「えと、どうして?」
春美というベース担当の、メンバーがユダに訊ねる。普段は周りに流されがちで、引っ込み思案なあの子が最初に口を開いたのは、驚きよりも新鮮味があった。
「なんでだよ」
次に口を開いたのは、ドラム担当の凜という女子生徒だ。気っぷが良く、姉御肌で人間関係でも音楽でもチームをひっぱてくれる。女子にもてる女子を地で行く女子だ。「状況が因数分解できないんだけど、なんで?」
遅ればせながら、最後に口を開いたのは私だ。
私はユダに問う。ユダは良い意味ではバンドのムードメーカー。悪い意味では自己中心的で他責的な人物だった。
しかし、事ここに及んでいきなり、演奏する曲を嫌がるとは。生まれ持ったいらんことしいの血が騒いだのか、元から私達の事を嫌っていたのか、その真偽のほどは定かではないが、私達と同調歩調をとるつもりはないらしい。
そもそも、このバンドは、私と凜と春美の三人でやる予定だった。それをよこから「なんか楽しそう」という理由で、半ば力業のような形でメンバー入りしてきたのだ。
普通だったら、今の状況は起こりえない事だった。
「理由?」ユダは小首を傾げる。「音楽性の違い?」
「馬鹿かお前」凜は鋭い声を放つ。「音楽性も糞もないだろ」
「そうよ」春美も凜に同意した。
たしかにそうだね、と私も無言で同調した。今更、曲を変えるにしても、一から練習する時間もなければ、選曲をし直す時間もない。
それに、ここでユダ我が儘を聞き入れれば、『大きな声を出す者の願いは聞きれられる』という誤った信念を植え付けてしまうことになる。
私は、ユダの鋼のメンタルを刺激しないように、ゆっくりと口を開いた。
「音楽性の違いっていうけどさ。私達が演奏するのって、既存の曲だよね。しかもプロの。私達はプロが作った曲を楽譜通りに演奏するだけだよ。音楽性の違いも糞もないと思うんだけど……」
「おお。ド正論が出た」凜が含み笑いをする。
「私もそう思う。私達が音楽性の違いとか、おこがましいよ」
「春美。意外と毒吐くね」
どうやら、私は言葉選びを誤ったらしい。私の言葉がきっかけとなり、計らずして3対1の構図が出来上がってしまった。
通常の感性の持ち主なら「多数決なら仕方がない」と民主主義に則って、渋々でも首をたてに振っているだろうが、このユダにそのような知性があるとは、とても思えなかった。
おそらく彼女の辞書に『み』から始まる項目が欠如しているに違いない。
「はあ。多数決には従おう。お前に足りないのは民主主義って言葉だ」凜がはっきりとした言葉で言い切る。
「大丈夫。それ、今、私も心の中で言ったから」と私。
「そうだよ。我が儘は駄目だよ」春美はおっとりとたしなめる。「ただでさせ、我が儘で私達のバンドに入ってきたのにい」
「何よっ」ユダが不平を漏らす。「今なら頑張れば間に合うかもしれないじゃん」
「かも、じゃ。駄目なんだよ。かも、じゃ」
凜の声が、校舎の地下にある軽音楽部の部室に反響する。
凜の声に被すように、言葉を発したのは「もういいっ」というユダの言葉だった。ユダはギターケースにギターをしまうと、ギターを背負い「私、このバンドやめるから。じゃあね」と言い残し、部室を後にした。
部室の扉が閉じ、静寂が室内に広がる。
「マジかあの子」凜が唖然とした表情を浮かべる。
「本当に出て行っちゃった」
本当に出て行った。ユダは過不足なく、出て行った。部室からもバンドからも。
「どうするの?」私は、凜と春美を見やりながら言った。「とりあえずのところ、あの裏切り者のユダを追いかけるか、そのまま、放置して自由にしてやるかの二択なんだけど」
「「放置で」」
「あんた達、本当はの子の事嫌いでしょ?」私は、苦笑する。
「女の友情なんてガラス細工より脆いと思うわ。それに元々、私達三人で文化祭に来る先生に演奏するって約束だっただろ? 元の鞘に戻ったと考えればいいさ 」
「私はそこまでは思わないけど……無理に引き留めなくても。まあ、でも、いてもいなくてもよかったし結果オーライなんじゃない。悪貨は良貨を駆逐するっていうしねえ」
春美は消極的でありながらも、明確にユダを拒絶した。
「じゃあ、とりあえず、あの子は脱退って事で」
私は無理矢理に話を進行させる。
「んで、どうするんだ?」凜がぽつりと呟いた。「文化祭はどうする?」
「もうノミネートしちゃったしねえ。今更、やっぱり辞めました、っていうのも」
「まあ、順当に考えれば、この三人で演奏する事になるけど……」私は、春美と凜を指指す。「春美はベース。凜はドラムでもって、あの永遠の駄々っ子はメインギターで、そのギターは蒸発した、と」
「お前もギター弾けただろ?」
「うん。まあ、サイドギターぐらいはギリギリ」とここで私は舌を出す。「コードをなぞる程度だから、メロディはちょっと」
こればっかりは事実だった。
素人のうろ覚えだが、音楽はリズム、メロディ、ハーモニーで出来ているはずだ。そのメロディはボーカルの私でも担当できる、というか、するのが仕事なのだが、バンドを名乗る以上、メロディーギターは必要だ。
ドラムとベースとボーカルだけのバンドなど、ほぼ聞いた事がない。
ドラムボーカル、ベース、シンセサイザーという変則的なバンドは見たことあるが、あれは珍しい例だろう。
「どうする?」凜はこちらにお鉢を回してくる。
「どうしよう」春美も私を見てくる。
なぜ私を見るのだ? と私は嫌な予感を覚える。
「どうするって言われてもねえ。スリーピースバンドに変更する、とか。元々、それが先生との約束みたいなものだったし」
「でも私達で出来るかな。素人に毛が生えた程度の私達で」
「無理だよお」
二人とも弱気だ。反逆者のユダを追い出した手前、強気に出られないのは分かるが、どういう法則が発動したのか、この状況を打破するのは私という事に落ち着いたらしい。
ここに女の友情の限界がある。リスクは分散すれば薄まるが、薄まったとはいえリスクはリスクだ。薄まった厄介事は一人に集約すれば、楽になる。
「分かったわよ」私は降参するように手を挙げる。「一応訊くけど、二人の知り合いにギターの出来る友達とかいる?」
「いや私にはいないな」凜は首を横に振る。「春美お前は?」
「いないよ。私の性格はしってるでしょ」春美はごにょごにょと指先をクルクルと回す。「あなたは?」
「かなり誘導的に私に話が回ってきたけど。私にもそんな友達はいない。そもそも、この学校の生徒って音楽を聞くのは好きでも、演奏したいって生徒すくないし」
私は偽らざる現実を口にする。この学校は歴史だけはある進学校だ。音楽は聞くものであって自分たちで演奏する対象になりづらい。
演奏するにしても、ピアノやバイオリンなど上品な習い事ばかりだ。そちらの方が、内申点もよくなるし、つまりは、進学には有利に働く。
好き好んでバンドをしようとする者など、この学校においては希少種だった。
そして、その希少種の一人に裏切り者のユダがいた。
これはもう絶望的と言ってよかった。
バンドのメンバーは一人いなくなり、音楽に明るい友達は上品な楽器しか演奏せず、文化祭の出演手続きは受理された。
絵に描いたように八方塞がりだ。
「こうなったら、もう一人捜すしかないよなあ」
「何を?」
「メロディギターを弾ける奴に決まってるでしょ」
「ちなみに誰が」私は嫌な予感を飲み込んで、凜に訊ねる。
「お前さ」と凜が切り出す。「たしか進学校にいるのに、就職希望だったよな」
「でたな。進学校差別。今は高校までの学費は無償の時代なのよ。私が大学に行くか就職するかは、私が決める。それに凜、あなただって大学進学しないじゃない」
「私は友達付き合いで忙しいん」
「その中に、楽器のできる人がいればよかったのに……」私は重い息をつく。
「春美は塾とかで忙しいよな?」
「う、うん」春美は申し訳なさそうに消え入る声で応じた。「ご、ごめん。それに私、友達少ないし。ここでバンドをやってるのも、塾とかの憂さ晴らしみたいなものだから。人捜しの力にはなれないかも」
「純粋無垢な見た目で『憂さ晴らし』とか乱暴な言葉は使わない」私は春美を注意する。
私の言葉を最後に、再び部室に静寂が戻った。
おそらく、この場の誰もが考えている事は同じだ。
「分かった。分かった」私は降参するように両腕を挙げる。「つまりは、消去方で私ってことね」
私の言葉を聞き、二人の顔がめざとく輝くのを私は見逃さない。
「悪いねえ」
「ごめんね」
二人とも、口では謝罪を述べているが、目は口ほどに物を言うというか、まんざらでもない様子に、苦笑いを浮かべるほかない。
そういう経緯があり、晴れて私は急遽、あらたなバンドメンバーの勧誘係を押しつけられる大役を負うことになった。
だから私は、放課後の校舎を必死に走っている。
勿論、新しいメンバー探しの為ではない。この鬱屈とした感情をどうにか発散したかったからだ。
そこで私が選んだのは、学校の屋上だった。目の前に海があれば「海の馬鹿野郎!」と叫びたいところだが、残念ながら、うちの学校からは海は見えない。
だからこそ、屋上を選んだ。屋上から街に向かって、ありったけの苦言を叫びたかった。
それは、自分の安請け合いの性格に対しての苦情でもあるし、バンドメンバーに対する憤りでもある。なにより、土壇場で裏切りをかましてくれたユダに対する憎しみの言葉でもある。
それらを複合的に備えた言葉が「馬鹿野郎」というものだった。
私は、廊下を走り、階段を駆け上がる。階段の踊り場に出て、覚悟を決める。
今、自分の中にある負の感情を屋上から、街に向かって叫ぶ覚悟だ。
踊り場から階段を上り、ずんずんと屋上の扉が見えてくる。
私は、肺にめいいっぱいの息をため、屋上のドアノブを掴んだ。夜の空気に冷やされたドアノブのひんやりとした感覚が手に伝わってくるが、そんな事も気にせず、屋上の扉を開こうとする。
そして、その瞬間、私の耳に私が今から叫ぼうとしている下劣な言葉とは対照的な音が聞こえてきた。
ギターの音色だ。
私は、叫ぼうとしていた言葉を飲み込み切れずに「バカヤロー!」と叫んだ後、そのギターの音色に耳を傾けるが、もうギターの音は聞こえない。
追いかけられる僕 1
下校時刻を告げるチャイムがなる。部室から窓の外を見ると、夕日が半分ほど沈み、校庭を茜色に染め上げていた。
トンネルを抜けるとそこは雪国だった、なんていう言葉から始まる小説を知っているが、というか、それ以外のその小説の内容は知らないが、僕の場合、階段を抜けるとそこは屋上だった、という書き出しになるのだろう。
その言葉が書き出して、終了だ。
気持ち的には、映画のオープニングソングが流れているのに、すでにエンドロールが流れているといった感じだった。
僕は天文部の扉を開き部室内に入る。天文部というだけあって、部室は屋上にあった。部屋と言うよりはトタンで出来た小屋と形容した方が正しい。
真夏は直射日光をまともに受け、真冬は隙間風が部屋に入り込み室温を外気温より低くしてくれる部室だ。
そもそも、僕以外の天文部員など入学してから二年間、一度もあった事もない。天文部の顧問ですら、この部の存在を忘れているに違いない。
僕ですら、自分が天文部員の末席を汚しているのか疑問に感じるほどだ。
その天文部の皆勤賞をとり続けている僕ですら、天文に興味がなく、ましてや学ぶ気もないのだから、目も当てられない。
僕が天文部に入部したのは、誰とも話さず独りになりたいからだ。
今思えば、家から近いという理由だけで、この学校を選んだのが悪手としか言い様がない。
地元ではそれなりの進学校で、それなりの規模のマンモス校であることも、僕としては誤算だった。
とはいえ、電車に乗って通学するなんて地獄以外のなにものでもない。
結局、惰性と怠惰と日和見の合わせ技が、僕をこの学校に入学させた。
「まあ、授業は最低限出ればいいし、そこまで人間関係を築かなくてもいいのは気楽でいいんだけど」
僕は、ぽつりと独りごちる。どんどんと地平線に落ちていく夕日がちらちらと僕の目を刺激してきて、不快ではないものの思わず手で陽光を遮った。
生まれ持った性質なのか、あるいは家庭環境なのか、もしくはそれら全てが合併した結果なのか、とにかく人付き合いが嫌いだった。
そういう訳で、僕はこの学校における人間関係を徹底的に断ち切った。関係が結ばれる前から断ち切ったので、正確には逃げた、と表現すべきだろう。
そして、行き着いた先が、この天文部だ。マンモス校だというのに、この屋上には誰もこない。
来ないというか、基本的に屋上への立ち入りは『天文学部員以外禁止』だ。
その天文部員も自らその特権を放棄して、学園生活を楽しんでいるのだから、これほど都合のいい事はなかった。
放課後の屋上は、僕一人の世界と言っても過言じゃない。
「今日は、何を弾こうかな」
僕は部室から持ってきた、私物のアコースティックギターのケースを開ける取り出す。その場に座り込み、ギターを構えた。壁の冷たい感触が背中に伝わる。
何を弾こう、と悩んでも弾ける曲は数曲しかない。あとは適当にのりで作った自作曲ぐらいだ。
「ええとチューニングは、と」
僕は確認するように、ギターを軽く鳴らす。いちいち確認しないと、今、このギターがどのチューニングになっているのか忘れるのが、僕の数え切れないほどある欠点の一つだった。
「スタンダードチューニングか。だったら今日は、あの曲にしよう」僕はポンと手を鳴らし「『木漏れ日』」と曲名を口にする。
もう完璧に日が沈んで月が顔を出してきているが、まあ、いいだろう。
この曲はよく言えば控えめな、もっとよく言えば哀愁のあるバラードだ。
メロディも伴奏も一人で出来る良い曲だ。
そりゃ、プロが作っているんだから良い曲に決まってるのだけど『一人で』というのが、僕にとっては最も重要な要素だ。
僕は一人でしかギターが弾けない。なので、僕が弾くギターのジャンルは『ソロギター』というものになる。
完全なる自己完結された世界だ。
まあ、プロは色々な人とセッションをしたりしているが、素人かつ人付き合いが苦手な僕には関係のない話だ。
僕はゆっくりと深呼吸をする。秋の空気が肺に満たされる。そのあと、ぎこちない笑顔をつくった。
僕がギターを弾く前にするおまじないのようなものだった。誰に聞かせるでもないが、笑顔を作って弾けば、何故かミスが少ない。
我ながら矛盾している、と僕は苦笑する。
僕がゆっくりと前奏を弾き始め、メロディーを弾き始めた時だった。屋上の出入り口である扉の向こう側から、凄まじい足音が聞こえてきた。
よほど恨みのある人間が目の前にいない限り、決して鳴ってはいけない足音が、劇的な勢いで階段を上ってくる。
一瞬、虚を突かれるが、僕の行動は迅速だった。慌ててギターをケースに直すと、足音を立てないように走り、部室に避難した。扉の鍵を閉め、耳だけで外の様子を窺う。
がちゃり、と屋上の扉が開く無機質な音がなった。
けたたましい耳障りな足音は健在で、誰かが大声で「バカヤロー!」と大声を張り上げていた。
声色的には女子生徒のものだろう。
魂の叫びなのか慟哭なのかは知らないが、この屋上では静かにして貰いたい。
その少女の叫びが、僕の学園生活の終わりの始まりになることを僕はまだ知らない。
追いかける彼女 2
「だぁ」
私が屋上で世の不条理に対して怒りをぶつけた翌日の放課後、私はどんよりとした表情で部室に向かっていた。地下にある部室へ続く階段は、地上よりも温度が低く、心なしか酸素の濃度も薄い気がする。
今日一日中、なけなしの人脈を駆使して、抜けたバンドメンバーの代打を探した。
当然の帰結として、そう事は上手く進まない。誰一人、私の味方になってくれる人はいなかった。
「当たり前だよなあ」私は呟く。「いきなり、抜けたバンドメンバーの代打になってくれませんかって言われて、首を縦に振る人なんているわけないじゃない」
それにしても、と私は昨日、屋上に入る前に聞いた音が気になった。あれは明らかにアコースティックギターの音だった。
あの時は、感情の赴くまま屋上で咆哮したが、気のせいだったのだろうか。とても綺麗な音色だった気がする。
まあ、気のせいか。都合のいい幻聴の類いに違いない。
げんなりとしながら、部室の扉を開く。そこには、私と同じような表情をした女子生徒が二人いた。
春美と凜だ。
二人とも私に新しいメンバーの代打捜しを全振りしていたように見えたが、一応、あの腐れユダの代わりを探してくれていたらしい。
昨日の段階で、女の友情に見切りをつけていたが、細く脆い糸のようではあるが、かろうじて友情はあったらしい。
「よう」凜が軽く手を挙げる。
「お疲れさまあ」春美もベースのペグを回し調弦しながら言ってくる。
「お疲れ。二人とも代わりの人を探してくれたんだ」
「そりゃなあ。全部、お前に押しつけるわけにもいかないし」
「私も色々と人を当たってみたけど」
「答えは?」
「「見つからなかった」」二人の声が唱和する。。
「私の方も駄目だった。というか一日そこらで、バンドメンバーを探すのはきついでしょ」私はため息交じりに言う。「ダメ元で訊くけど、あのユダは?」
「安定のユダだったよ」肩をすくめて答えたのは凜た。
「そうよね」私は平坦に応じる。「自分の意見が通るまで、絶対に戻ってこないわね」
「私もそう思う。あの性格じゃあ、幸せな学園生活は送れなさそう。その延長線で幸のある恋愛も結婚も出来なさそう」
「あなた。やんわりと毒を吐くよね」私は心の底から同意しながら突っ込む。「あの子が戻ってこないなら、やっぱり三人でやる?」
「でもさ。私達が演奏する曲って全部四人組の曲よ。そんなの今から三人用のバンドスコアに編曲できる人間なんている?」
いないに決まっている。私は凜の言葉に、心の中で返事をした。
「ただでさえ、私達はただの猿まねバンドなのに」
「猿まねとか汚い言葉を使わない」私は形式的に春美に注意する。「でも、そうよねえ。最悪、生徒会には迷惑をかけるけど辞退するとか」
「それはやだな。私達が文化祭の催しに参加出来るのは今年最後だし。先生との約束もあるし」凜が異を唱える。
凜の気持ちは分からないでもない、形骸化したとは言え、うちも進学校だ。文化祭の運営を任せられる生徒会などを除き、露店や催しものに参加出来るのは二年生までだと決まっている。
つまるところ、私達が文化祭で演奏できるのは今年が最後なのだ。
訊く人の耳が腐るような演奏になっても、不参加だけは避けたい。
しかし、これといった打開策もない。
メンバー補充一日にして、すでに頓挫しかけている。窮すれば通ずというが、どこをどう通ずるのか、この言葉を作った識者には責任をとって貰いたい。
「ああ。もう」私は、頭を掻きむしり天井を仰ぐ。煤を塗りたくったようなくすんだコンクリートの天井が目に入る。この日の当たらない天井の更に上には、大きな空があるのだろう。
そこまで考え私は「ん? 空」と呟いていた。
「空がどうしたの」目ざとく春美が訊いてくる。このあたりの耳の良さがベースに向いているのだろうが、今は厄介でしかない。
「空がどうかしたのか?」凜も春美の言葉にのってきた。
ここで嘘を吐いたところで、ただでさえ瓦解しかけなバンドが空中分解するのは目に見えている。
私は、観念するように口を開いた。
「実はさ。昨日、屋上へ行ったんだけど」
「屋上? なんで?」
「たぶん、鬱屈した青春のストレスを叫びに行ったんじゃない?」
なんなのだ、春美のこの察しの良さは。
私は「それはそれとして、屋上に行った時、ギターの音色が聞こえたのよ」という言葉を出だしに使い、「一瞬だけだったけど、とても綺麗な音色だった」と続けた。
「屋上で? 綺麗なギターの音色?」凜は疑わしそうな表情で言う。
「屋上なんて、誰もいないでしょう?」
「でも聞いたのよ」
私の抗弁を耳にして、凜と春美は目頭を押さえて俯き「……い……た」と同時に霞んだ声を出した。
「い……た?」私は二人の言葉をオウム返しする。
「いたたたたたた。痛い、私の心が痛い。ごめんな。お前にだけバンドメンバーの代役を押しつけるような言い方をしてしまって」
「私もごめんなさい。まさか、あなたが、あの数分のやりとりで、そこまで追い詰められるなんて」
「は?」私は二人に間抜け面をさらす。
「大丈夫。私達は友達だ。たとえイマジナリーメンバーが見えていてもな」
「うん。私達はズッ友だよ」と春美。
そんな感想を言う二人に私は殺意を覚える。
前言撤回だ。女の友情など存在しない。
「だったら、今から屋上へ行きましょ。もしかしたら、また、あのギターが聞けるかもしれないし」
私は自信はないが大見得を切る。
「わかったわよ」凜は私の意見に同意した。「どうせ、練習もできないんだし。行ってみる価値はあるわ」
「そうだねえ。行ってみよ」
女は同じ目的を持つと加速度的に行動力が増すな、と私は痛感する。
追いかけられる僕 2
昨日の叫び声は何だったんだろう。
僕は先日訊いた、断末魔のような叫び声を思い出す。声からして女子なのだろうが、どう聞いても切羽詰まっていた。
切羽詰まりすぎて鬼気迫るものが合ったので、窓から声の主を見ることすら出来なかったほどだ。
一体、何に対しての「馬鹿野郎」という叫びだったのか、気にはならないが、こちらに飛び火しないで欲しい。
対岸の火事は一歩間違えれば、間違えなくてもこちらに飛んで来る。それが火の粉じゃなくて燃えさかる業火なのだから質が悪い。
僕の母親が良い例だ。母が父と喧嘩をすれば、しばらく食卓から父親の夕食が消える。そして僕の夕食は母手製の弁当になり、更に母親は家から消える。
一国一城の主が、家族を捨て、城を捨て、残した家族を外部から兵糧攻め行うとは。どういう論理が働いたらそうなる?
しかも、財布の紐を握っているのは母親なのだから、これほど厄介と事はない。更に加えて厄介なのは、母親は良妻賢母を貫く女性だ。少なくとも本人はそう思っているのだろう。
男は女が導くべきものだという信念を、男の断りなしに貫き通すほどだ。絶対に良妻賢母の意味をはき違えていると思うが、その事実を公表すると、僕はともかく、父にはより過酷な未来が待ち受けているので声に出さないだけだ。
そして、今も母と父は絶賛断交中だ。
あの家に平穏という言葉はあるのか?
「そこにくると、この屋上は天国だよなあ。なにせ、僕の平穏を守ってくれる最後の砦だし」
しかし、昨日の一件でその平穏にも陰りが見え始めてきた。
ここを学園での楽土と決めて二年間、誰一人としてこの屋上にくる者などいなかった。しかしその最長記録が突然途切れた。
しかも屋上にやってきたのは、謎の怒りをラガーマンのように抱えた正体不明の女子ときたもんだ。
いやな予感しかしない。
「さすがに今日はこないよね」
僕はギターを持って部室から出る。警戒するように左右を確認し、人の気配の有無を確かめた。
人の気配は、校庭で部活動に勤しんでいる運動部員達のものしかない。
僕は安堵の息を吐き、昨日と同じ位置に座り込んだ。
今日は、何を弾こうかと考える。まあ、僕の弾ける曲ってマイナー調の曲が多い気がするが、とりあえず、ある人がある島を見て作った曲でも弾くか。
たしか『Am』からだったよな。
TAB譜……他の楽器でいう楽譜は持っていないけど、一度覚えた曲はある程度弾ける。例え弾けなくても、誰に聞かせる訳でもないから恥ずかしくもない。
僕が恥ずかしげもなく、鼻歌交じりにギターを弾いていると、寒気を覚える。
演奏を止め、目を閉じ、神経を屋上の扉に集中させた。
いる。
僕は確信する。
奴だ。
僕はさらに耳を研ぎ澄ませる。すると、先日、襲来した女子生徒とは別に、二名の女子生徒の声も聞こえてくる。
「ね? 言ったでしょ? 屋上でギターを弾いている人がいるって」これは、昨日の女子生徒の声だ。
「ああ。私も聞こえた。マジだったわね」この声は知らない女子生徒の声だ。
「うん。綺麗な音だったね」こちらも知らない女子生徒の声だ。
「綺麗だったけど。なんか暗い曲だったな」
ほっとけ、と僕は心中で突っ込む。人がどんな曲弾こうが、僕の勝手だ。
「という訳で行きましょうか」
いきましょう? 僕の頭の上に疑問符が浮かぶ。息しましょうか、とは思えない、逝きましょうか、であれば、集団自殺願望を持っている少女達の言葉ともとれる。
しかしこれが
「行きましょうか」
であれば。
彼女たちの前後の言葉を合わせれば、間違いなく最後の『行く』だ。
「やばいっ」
僕は自分が相当やばい立場にいることを自覚し、脱兎のごとく天文学部の部室に逃げ込んだ。鍵をかけ、息を潜める。
窓から覗かれてはかなわないので、窓の死角に逃げ込む、肉食獣に負われる草食獣のように気配を消した。
僕がその一連の作業を終えたあと、がちゃりと屋上の扉が開く音が聞こえてくる。
「あれ。誰もいない?」昨日の女子生徒の声が聞こえてくる。
「いないな」勝ち気そうな女子高生の声も響く。
「いないねえ」のんびりとした口調の女子高生の声がそれに続く。
「でも、この屋上に隠れられそうな場所ってある?」
ある。しかも目の前のボロいトタンの建物だ。というか、そこしかないだろう。
なんで僕が、正体不明かつ動機不明の女子生徒三人に捜索されなくてはならぬのか。
「あ、あそこに小屋があるぜ」快活な女子生徒の声が、聞こえてきた。
天文部の部室の存在に気づいたらしい。
気づかない方がおかしいが、気づかれては僕が困る。
「隠れるなら、あそこしかないわよね。昨日は気づかなかったわ」
ああ、そうだろう。昨日の君は発狂していたからな。どうせならずっとそのままでいて欲しかったのに、仲間まで連れてくるとは。
三人の足音がまっすぐにこちらに向かってきた。
まず耳に届いたのは、部室の扉を開こうとするドアノブが震える音だ。
しばらくの間、がちゃがちゃと音を立てた後、ドアノブの振動が収まり部室に静けさが戻る。
諦めてくれたか、と安易な期待を裏切るように、今度は部室の窓に三つの影が映った。夕日を背にしているのか、その黒い影は幽霊や妖怪のそれに近い。
向こうも必死なようで「部屋の中は見えないわね」だとか「というかこの部屋は何の部屋なんだよ。新手のホームレスの隠れ家か」だとか「先生に報告する?」だとか、好き勝手に言いたいことを口走ってくれていた。
三つの影は窓から離れた後、また扉を叩き「すいませーん。誰かいますかー」と間の抜けた声で呼びかけてくる。
こんな状況で返事なんてする奴なんていないだろ。
僕は普通そう声に出しそうになるが、賢明にその声を飲み込む。どうか、この三人がこの薄い壁を蹴破って来ませんように、と信じてもいない神に祈る。
しかし自分の母親という存在を知っているだけに、その希望は薄いようにも思われた。
息を殺し、時を経つのを待つ。
「ううん。誰もいないのかな?」
「んな訳ないでしょ。事実三人ともギターの音を聞いたんだ。絶対、この中にいるって」
「私もそう思うなあ」
「……蹴破るか?」
快活な声の女子生徒が最悪な提案を出す。
その提案を止めたのは、先日の女子生徒だった。
女子生徒は「やめなよ」と言い「きっと三人でいきなり来られて迷惑してるんじゃないかな」と続けた。
「迷惑かなあ」おっとりとした声の女子生徒はそう言い、しばらくの間を開け「そうかもねえ。意外とチキンさんなのかも」
「こら汚い言葉を使わない」先日の女子生徒が叱責する。
「まあ、逆の立場なら迷惑かもな」
「それに、私達の事知ってもらわなきゃ、交渉すらできないじゃない。また明日、考えよう」
「そうだな。急がば回れっていうしね」
「そうだねえ」
三人は、要領を得ない会話をしながら、屋上から退いた。
交渉? なんの話だ。
嵐の過ぎ去った屋上に残された僕は、様々な可能性を考えるが、何も思い浮かばない。「少なくとも、あの連中が明日も来ることは決定された未来みたいだ」
屋上の静寂に安堵する一方で、明日、確実に訪れるであろう暗い未来に思いをはせる。
追いかける彼女 3
「で、どうするよ?」
放課後、軽音部の部室に集まり最初に口を開いたのは凜だった。
「どうするってえ?」
「いやな。確かに屋上でギターを弾いている奴がいるのは、分かったわ。しかも一瞬しか聞かなかったけど、ギターが上手いのも確認した。でも私達の気配を察した瞬間に、あの掘っ立て小屋みたいな部室ににげこんじまったぞ。会ってくれないんじゃあ」
「バンドの勧誘も糞も無いよねえ」春美が凜の言葉を引き継ぐ。
二人の言うことは最もだ。ここ二日、とりあえず手当たりしだい、ユダの後釜を探したが、かすりもしなかった。
正直、あの姿も素性も知らないギターの人を勧誘するしか、文化祭でバンド演奏をする道はない。
その為には、まずは屋上でギターを弾いている人に心を開いて貰わなくては、スタート地点にも立てないのも事実だった。
でもどうやって?
さすがに昨日ように、三人で特攻をかける訳にもいかない。警戒されるのが落ちだ。
じゃあ、ジャンルは違えど同じギターを弾ける私なら、なんとかならないだろうか?
「はあ」私は額に手を当て「今日、もう一回私が行ってくるわ」と言いたくない台詞を口にする。
「じゃあ、私も」
「私もお」
「いや、二人はここで練習しておいて。多分、屋上の人って相当私達を警戒しているみたいだし。一人の方がその人の警戒を解くには効果的かも」
「三人寄らばなんとやらって言うじゃないか」
「みんなで考えようよ」
「その先人の言葉は多分、悪人が作ったものよ。まずは相手と対等な立場にあるってことを知ってもらわなきゃ。それに、二人はバンドの練習の他にも、色々、あるんでしょ」
「そう、言われればぐうの音もでねえけども」
「その理屈は、ちょっと酷くない」春美が頬を膨らませる。
「今の言葉は、二日前、二人が私に言った事とほぼ同じね。とにかく、文化祭まであと二週間切ってるの。屋上の人を仲間にするのが先決よ」
「分かったよ。お前、意外と根に持つタイプな」凜がふてくされるように、言う。「っていってもそれが一番の早道か。最悪、文化祭当日にあの裏切り者を引きずってでもステージに立たせればいいんだけだしな」
「それは無理だと思うよお。絶対にあの子、文化祭当日はエスケープぶっかますつもりだと思うし」
「異論がないのがつれぇな」
「とにかく、私はまた屋上に行ってくるから」
私は、部室の隅で誇りを被っているエレキギターを持ち、屋上へ向かう。
ギターを持ち出したのは、なんとか屋上の人と共通項を持っていると主張するためだった。
だがその前にやることがある。
私は部室を出て、その足で職員室へ向かう。
私が向かったのは職員室だった。ドアをノックして「失礼します。橘先生はいらっしゃいますか?」と担任の名前を口にする。
放課後の職員室はゆっくりとした時間が流れている。教師に質問がある生徒が、まばらにいる程度で、他の教師は、生徒の呪縛から解き放たれた安心感からか、自分のペースでテストの採点をしたり、明日授業で使うプリントを作っている人もいる。
「ああ。お前か」
自分の名前を呼ばれた橘という男性教諭が、私を見た。鞄に荷物を詰め始めており、帰宅するつもり満々らしい。
橘先生は国語担当の男性教師で、ちゃらんぽらんな性格をしているし、きっちり定時帰宅する労働意欲の薄い先生だった。
この進学校において、保護者からの受けは悪く、それと反比例するように生徒からの人気は高い。
定期テストで「まあ、普通はあり得ないんだが。答えが分からなかったら、全部○を選べ」と言い、本当に国語のテスト全問をマルバツ問題にしたのは、今でも校内の伝説となっている。
橘先生は、帰り支度をする手を止め「どうした?」と訊ねてきた。
私は橘先生の机まで進み、一礼をして「橘先生は今帰りですか」と余計な質問をぶつけた。
「ああ。あと一分早く、お前が来なければ帰路につけていた。実にタイミングが悪いな」
「あはは」私は空笑う。「先生、受けますね」
「受けねえよ」橘先生は小バエを払うように、手をひらひらと振った。「で、何のようだ? つまらないようだったら、俺は躊躇なく帰るぞ」
「先生なのに生徒が訊ねてきて嬉しくないんですか?」
「逆に聞くが、お前は放課後に担任に呼び出されて嬉しいか? それと一緒だよ」
「先生としてどうなんですかそれ?」
「おいおい」橘先生はクツクツと笑う。「先生なんて呼ぶなよ。俺に死ねってか」
「意味が分かりません?」
「くくっ。『先に生きていると書いて先生と読む』つまり、先生なんて呼び方は、先に生まれてんだからさっさと死ねって意味だよ」
多分どの辞書を調べても『先生』にそんな意味はのっていない。
のらりくらりと詭弁を弄する橘先生は嫌いじゃないが、今は時間がないので、聞き流す事にする。
「あの、ちょっとお時間いただけますか」
「すでに数分貰っちゃってるけどな」橘先生はシニカルに笑う。「それで、何の用だ?」
「屋上についてなんですけど」
「屋上?」
「はい。屋上にあるトタン屋根の小屋の事ですけど。何かご存じありませんか? 業務意欲がないのに、学校の事情には詳しい先生ならご存じかと」
「それ。悪口だよな」
「いえ。事実です。余計な事からは全力で逃げるって、もっぱらの噂ですよ」
「省エネだよ。省エネ。余計な事には首は突っ込まないようにしてるだけだ」
「それで、屋上について、何かご存じですか?」私は再度、質問を重ねる。
「トタン屋根の小屋ねえ」橘先生は鼻を上に向け、何かを思い出すように目を閉じ「ああ。あの吹けば飛ぶようなボロ小屋か」と零した。
「知っているんですか?」
「知ってるも何も、あそこは『天文部』の部室だよ」
「天文部っ!」私は素っ頓狂な声を出す。「あのボロ小屋が?」
「まあ。名前だけの部活だけどな。部員は名前ばかりで全員が幽霊部員だ。下手すりゃ本物の幽霊かもしれねえよ。俺だって部員見たことねえもん」
「顧問の先生はどなたか分かりますか?」私は前のめりに訊ねる。
「お前の前にいるだろ?」橘先生が自分を指指した。
しばらくの間がその場に広がる。そして、私は我に返るように「橘先生が?」と大きな口を開けた。
「俺だって一応は、教師だぞ。何かしらの顧問になってても不思議じゃないだろ?」
「いや。だって。橘先生が部活の顧問なんて想像できませんよ」
「視野を広く持てよ」橘先生は白い歯を見せる。「誰も来ない部員、存在すら砂漠の蜃気楼のように実体の掴めない部活。教師としては何の利益にも不利益にもならない役職。そんな部活の顧問にぴったりな人間、この職員室に俺以外いるか? そんな不気味な部活に相応しい顧問が?」
「否定材料が見つかりません」私は正直に答える。
「だろ? だから俺が顧問になったんだ」橘先生は気分を害した風でもなく言ってのける。
「いやでも。先生なら部費の着服の可能性が……」
「ねえよ。そんな気もないし。まずそんな実績もなければ意欲もない部活に、部費なんて一円も下りねえよ」
「ですよね」
「で、俺の悪口を言って気が済んだか? じゃあ、俺は帰るぞ。これ以上、余計な質問をされるのはごめんだ」
橘先生は座っていた椅子から腰を上げようとする。
これほどまで生徒に対して非協力的な教師がいるのか、と私は愕然とした。
橘先生から伝わってくるのは、一秒でも早く帰宅したいという願望だけだ。
「最後にいいですか?」
「ああ?」橘先生は鋭い瞳を向けてくる。
「あのボロ小屋……いや、部室の鍵を貸して頂けませんか?」
「鍵? ねえよ。そんなの」
「は?」私は間の抜けた声を出す。「先生って天文部の顧問なんですよね」
「ああ。幽霊部員だけしかいない部活の幽霊顧問だ」
「ちぃぃ」私はこれ見よがしに舌打ちをした。「橘先生の事をなめていたわ」
「褒めて貰って痛み入るよ。じゃあな」橘先生は立ち上がり、今度こそ帰路につこうとし私に背中を向けた。
「もうっ。なんで私の周囲にはユダしかいないのよ」
「ユダア」橘先生は背中を見せながら言ってくる。「知ってるか? 一説によるとユダは裏切り者じゃないというとか、なんとか。まあ、お前の場合は、その説から脱してお話通りのユダだろうけどな。俺に期待するだけ無駄だぞ。俺もその一人だ。そして、一度裏切った人間はまず戻ってこない。特に女子の友情は一度壊れると万能の神をもってしても修復不可能だ」
「それは、なんとなく分かります。でも男子の友情はどうなんです?」
「もちろん、言わずもがなだな。ただ、女の友情は女同士で潰し合うが、男子の友情は女によって壊される」
「ドロドロしてますねえ」
「ま、今のうちに人間関係を学んでおくこったな。大切なのは距離感と、相手が何を望んでいるかだよ。じゃあな。幽霊顧問はとっと帰って風呂入って酒飲んで寝るだけだ。言い土産話も出来たしな。あながちお前の出現は無駄じゃなかった」
橘先生は、くくっ、と意味深な笑うと軽く手を挙げて職員室から出て行く。
「はあ。何なのあの先生。本当に聖職者?」
私は答えが分かりきっている疑問を口にしながら、橘先生の言葉を拾う。
ゴミみたいな言葉の中でも、何か拾えるものがあるはずだ。
距離感……か。
私はそんな事を思いながら、ギターを担ぎ直し、屋上へ向かう。




